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1-3 番号の無い少女(2)

「おかえり。――もう、あんたってば。またレンズ忘れて行ったし」


 ナンバーレスの少女が帰宅するなり、師走(しわす)一子(いちこ)はため息混じりに言った。

 聞こえているのかいないのか、少女は筆記具が入った手提げ袋を床に放りだし、壁際に立てかけてあったプラスチックの棒っきれをつかんだ。その棒は細身でよくしなり、先端は平たく網目状になっている。

 かつては蝿叩きと呼ばれ、どこの家庭にもあった代物だ。


「とうっ!」

 少女は、何もない空間に向かって勢いよく蝿叩きを振り下ろした。

 事情を知らない者がこの様子を見たら、彼女の心理状態を疑うことだろう。しかし、師走一子は慣れたもので、顔色ひとつ変えずに夕飯の支度をしている。


「なあに? ひさしぶりに小さな虫でもいた?」

「うん」

「この階層には窓がないのに、どこからか入ってくるものなのね」


 少女は、自らが仕留めた「羽虫」を、指先で慎重につまみ上げた。それは儚く繊細で、虹色に輝いている。

 虫、と彼女は呼んでいたが、それが正しいのかどうかは分からない。とても小さくて、羽のようなものを震わせて飛んでいる。だから虫だ。失くさないように注意しながら、本棚に置かれているガラス製の小皿にそっと入れた。

 少女は何かを思い直したように、部屋の中をきょろきょろと見回した。

 しばらくしてから、小皿を持って立ち上がる。玄関のほうへ行き、靴箱の上に小皿を置きなおした。


「一子さん! お皿、ここに移したから!」

「はいはい。ひっくり返さないように気をつけるわ」


 師走一子は、あきらめたように返事をした。

 念のため、ガラス皿の中身を覗きこんでみた。予想どおり、塵ひとつ入っていない。それでも、いつものことだ、とばかりに、夕食の配膳作業に戻った。


 一子はなんとなく理解している。

 自分の娘も同然に育てたナンバーレスの少女は、人には見えないものが見えているのだ。

 少女が虫だと呼んでいるものは、きっと、ごく小さなインビジブルの一種だろう。蝿叩きなんぞで仕留められるくらいだから、たいして害があるとは思えない。ときには病気を媒介する「蚊」のほうがよほど怖いくらいだ。

 それでも、インビジブルという言葉を聞いただけで、アレルギーのように拒否反応を示す者が多いのは確かだ。そこで、少女には外で蝿叩きを振り回したり、他の人にこのことを教えたりしないよう、常日頃から言い聞かせていた。


「そうだ、一子さん。皐月先生からお手紙!」


 少女は手提げ袋から封筒を取り出し、一子に手渡した。

 手を止めて、中身を確認した一子の表情が一瞬曇ったことに、少女は気づかなかった。

 その後は、いつも通りの夕食の時間が訪れた。ユーグレナと発芽豆(スプラウト)のスープをすくいながら、少女は嬉々とした様子でおしゃべりをしていた。


「――でね、三十日は言うの。すぐにでも騎士団に入れるかもしれない、って。そんなことってあると思う?」

「どうかなあ。ふつうは騎士団に入るにしたって、お嫁に行くにしたって、十六歳になってからよ」

「お嫁? なにそれ」

「――あら、先生はそのことをおっしゃらなかったのね。『見える子』たちが、いずれ中央塔に呼ばれていくのは確かだけれど、男の子は騎士団に、女の子は偉い人のお嫁さんに迎えられることが多いみたいよ」

「ええーっ!」


 さっきまで張り切っていた少女は、露骨にがっがりした様子を見せた。


「あらあら……嬉しくないの? 中央貴族の男性に気に入られたら、お姫様になれるかもしれないのよ。狩りに出なくてもいいから安全よ」

「でも、あたし、騎士団がいい……」

「それなら、狩りの腕を磨いたら? スリングショットや棒術が男の子より上手だったら、ご貴族さまよりも先に、騎士団が欲しがるかもしれないでしょ」

「あ、そっか!」


 元気を取り戻した少女は、率先して自分の食器を片付けた。

 そして、スリングの練習をするのだと言って、玄関から出ていってしまった。後姿を見送りながら、師走一子は、かつて姫として迎えられ、中央塔へ行ってしまった姉のことを思い出していた。




 的を狙い、スリングを引き絞り、撃つ。

 二度、三度……。どれも、正確に射抜くことができる。それでも、少女の心に芽生えた不安はなぜか消えない。やがて、並べた全ての的は床に落ちてしまった。

 ため息をつき、ひび割れたプラスチックのベンチに座り込む。

 何が怖いのか、彼女自身にさえわからなかった。スリングショットは上手でも、棒術はそれほどでもないことか? ――いや違う。強いていうなら、人に見えないものが見えることに対する、ぼんやりとした恐怖なのだと思った。


――長月三十日と話せたら。


 そう呟きかけて、少女は首を横に振った。

 彼と自分とはちがう。男の子と女の子だし、三十日は負けず嫌いだ。うかつなことを喋ったら、彼は不愉快に思うかもしれないし、もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。

 普通と違う少女にとって、唯一の同類であり友人。それが長月三十日であった。




 その後は、練習用の棒を持ってきて、くたくたになるまで振り続けた。

 おかげで夜はぐっすり眠れた。

 朝方に夢をみた。

 いつか出会った、空を泳ぐ大きなウミヘビがあらわれた。彼女が六歳のとき、はじめて展望台に上って、窓から夜の空を見ていたときのこと。最初、満天の星々に目を奪われていた少女は、外を指さしながら突然こう叫んだのだ。


――先生、先生! このとても長い生き物は何? いま目の前を通った。窓のすぐ外よ、ほら!


 その途端、大人たちは騒然となった。

 付き添いの皐月先生、一子さん、それに、監督者である塔長が、あわてふためいて人を呼んだりし始めた。近くにいた他の子供は、何も見えないよと言った。ナンバーレスの少女は、月光の下でひとりぽつんと取り残されていた。

 何が起こったのか、幼い彼女には理解できなかった。ただ、初めて目にした美しい生き物の、名前を知りたかっただけなのに。


 それが、インビジブルと呼ばれる不可視生命体群のうちの一種であり、見えないばかりに大きな脅威となっていることは、後から知った。それでも尚、少女は思う。あれはきれいだった。あれが、皆が言うような凶暴な化け物だとは、とても信じられなかったのだ。




 中央塔の視察係が来る日がやってきた。学校は臨時休校だ。

 ナンバーレスの少女は、朝から身支度に忙しかった。配給された衣服のうち、いちばん新しくしわのない服を選び、剛毛の黒髪をいっしょうけんめい櫛で伸ばそうとしていた。案の定もてあまし、師走一子を呼んだが、その腕をもってしても、少女の髪の毛は未だかつてまっすぐに整ったためしがない。

 まあ、お嫁に選ばれることはなくなるかもしれないから、かえって良かったわね。――冗談まじりにそう言って、一子は笑っていた。


 少女は師走一子に付き添われて、皐月五郎のところへ行った。

 長月三十日と、その両親は既に到着していた。六人が揃ったところで、皐月五郎は全員を先導して歩きはじめた。普段は行かない、狭い通路を歩いてゆく。

 ナンバーレスの少女は、長月三十日に近寄ると、小声で言った。


「こっちのほう、蜘蛛玉が多いみたいね」

「だって、特別区域だぜ。監視が多いのは当たり前だろ。パネル見なかったのか」


 長月三十日は、少し苛立っているように思えた。

 考えてみれば、中央塔から選ばれるかどうかが、きょうの日にかかっているかもしれないのだ。同じ歳の三十日とナンバーレスの少女とは、ある意味で敵同士であり、負けず嫌いの三十日が能天気でいられないのも仕方がなかった。


 皐月五郎についていくと、エレベーターの前に到着した。

 この昇降装置に乗ることができるのは、年に一度の展望台に登るときや、屋上での結婚式が開かれるときくらいだ。無論、下級民が勝手に立ち入ることは許されない。噂では、塔長とそれに準ずる者は年中使うことができるらしいが。

 六人がエレベーターの箱に収まると、それは下降を始めた。壁の表示パネルには階数らしき数字が映し出されていて、四十、三十九、三十八……と、数値を減らしていった。

 数字が一桁に突入した。これほどの下層部には、師走一子や三十日の両親たちも、かつて来たことがない。保護者たちは不安に顔を見合わせている。

 チィン、と澄んだ音がして、扉が開いた。


 昇降装置から出ると、コンクリートの通路が伸びていた。両側にはいくつかの扉があったが、人の気配はない。皐月五郎が先頭に立って歩きながら言った。


「このあたりの階層は、中央塔の方が研究に使っているようです。わたしが出入りできるのも、ここまでですね。もっと下の階は施錠されており、立ち入ることができません。――ご心配なく、危険なことは何もありませんので」


 皐月五郎に従っていくと、あるフロアに到着した。

 この塔の中はほとんどそうなのだが――部屋に窓はなく、コンクリートの床の上に鉄パイプ製の椅子が置かれている。奥にはさらに大きな部屋があるようで、境界はガラスの壁で仕切られていた。

 やはりここにも人影はなく、いるのは壁に貼りついた蜘蛛玉ばかりだ。


「なんというか……殺風景で、薄暗い部屋ですね」

 長月三十日の母親が不安そうにつぶやくと、皐月五郎が答えた。


「ご心配なく。それは、ここが訓練用のフロアだからです。実際のインビジブルを狩る練習も行われますので」

「どういう意味でしょう」

「薄暗くないと、インビジブルが見えないのです」


 それは、長月三十日やナンバーレスの少女にとって、常識ともいえる既知の事実であった。――が、ほとんどの塔の住人たちはそのことをよく知らない。三十日の母親もそうであり、理解できない様子で首を傾げている。

 皐月五郎は説明を続けた。


「いかに特別な目を持つお子様たちとはいえ、たとえば、日中の屋外のような明るい場所では、インビジブルを見ることができません。というのも、インビジブルは可視光線を反射も吸収もしない代わりに、自らがある種の光を発しているのだ、という説がありまして。――まあ、わたしたちのような一般の者には、どちらにしろ見えませんがね」


 長月三十日の母親は、皐月五郎の話がよく飲み込めなかったらしく、隣の亭主に説明を求めていた。師走一子は黙っていた。


 皐月五郎は、保護者たちにそこで待つように指示をすると、子供たちを伴い奥の部屋へと入っていった。ガラス越しに見えていたそのフロアは、薄暗く、かなり広かった。

 入口の付近に棚が備え付けられてあり、練習用の棒や、スリングショット、更にはボウガンといった武器が並んでいた。

 少年と少女にとって、本物のボウガンを目にするのは初めてだった。特に長月三十日はおおいに興味をひかれた様子で、食い入るように見つめていた。

 ナンバーレスの少女のほうは、そのだだっ広い空間のほうが気になって、きょろきょろと周囲を見渡していた。床は板張りで、油でも塗って磨いたかのように艶がある。天井は高い。屋内蹴球フット・サルのコートが楽に収まりそうだ、と思った。

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