5-2 笑ってみなよ
「なんだ、バーディーか。驚いたよ」
胸を撫でおろした三十日に対し、暗闇に立つバーディーは怪訝そうな顔つきをしていた。急いであとを追ってきたのか、寝間着に上着をひっかけてきただけだ。片手には蓄電式のライトを持っている。
「驚いた、じゃないよ。何をしてたの?」
「ああ……ばれたら仕方ないな。バーディーになら話すよ。ネーロは来てないのか?」
「ネーロはぐっすり寝てる。記憶整理の疲れが残ってるみたい」
三十日はいま取り出したばかりの黒いなめらかな石を出してみせた。ランプの明かりにかざしてみると、三十日の視力では輪郭が透けてみえる。バーディーは眉をひそめ、胸元にあったレンズをとおしてその正体を見きわめていた。彼女にとって、これは初めて見るものらしい。
「うそ、まさか……! 黒結晶?」
「そのとおり」
「えっ、でも……アルバトロスは黒なんて滅多に採れない、って。光の道筋で大きくできる白結晶とちがって、黒は偶然育ったのがたまにあるだけで……」
「偶然なんて待っていたらいつまでも採れないだろ。これは育てたんだ。おれが」
三十日の言葉にバーディーは呆然とする。見る能力については明らかに優れているはずの彼女が本当に知らなかったのだ。恐ろしい魔術でも目撃してしまったように、立ちすくんで小さな問いを返すのだ。
「育てる……って?」
「いつもの白い結晶とおなじだよ。光の流れじゃなくて、暗く低い場所の流れを探すんだ。おれにだって見えづらいけど、たまにわかる。今夜は来てるんじゃないかと思って出てきたってわけ」
三十日は弱って死にかけた黒い破片をつまんでみせた。道にそって歩いていくので、バーディーもそのあとを追うことにした。彼が従えている蛍飛球は、バーディーたちが使っている蓄電ライトよりもずっと明るい。これなら夜道の恐怖感も半減するという気がする。
ふと三十日が歩みを止める。そして、ある湿っぽい暗がりを指し示すのだ。
「あった。あのへんだ。地面を這うみたいに低くて重そうな流れ。見えないか?」
その指先を追ってはみるが、何も見えない。バーディーにはなにも感じられなかった。自分は目がおかしくなったのかと思い、周囲を見渡してみたが、天の星々やいつもの光の流れはしっかり見えていた。
「うん、見えないかもな。おれだっていつでも分かるわけじゃないからな」
三十日はかがみ込み、低い位置にある木の裂けめに欠片を仕込んだ。そして、そのまま森の中を進んでいくようだ。バーディーはなにも聞かずあとに続いた。
「三十日。黒い流れがはじめて見えたのっていつ? あたしは分からなかった。ほんとうに、ずっと」
「いつから、と言うと分からない。小さな頃から見えていたのかもしれないし……。記憶にあるのは、あのときだ。東塔に凪美由紀って人がきて、おれたちを審査した日があっただろ」
忘れるはずもない。幼い頃のバーディーが、初めて三十日に怒鳴られた日のことだ。
「おれはあの日、いらいらして、お前に八つ当たりなんかしてさ。お前には負けたくないって頑張ってたのに、いまさらになってお前は自分の目は違うものだなんて言い出す。ふざけんなと思った。それならそうと言ってくれってさ」
唯一の仲間に裏切られた気分だった。そして寂しくて不安だった。結局、人はひとりきりなのだ。いままで感じていたつながりは幻想で、彼女はきっと、自分など置き去りにして飛び立っていく。怒りと不安と、みじめな自分の悲しみとが一気に沸き上がり、まだ子供だった三十日は叫び声をあげることしかできず、あとには嫌悪感が残った。
「おれは棒もスリングも放り出して塔の中をふらふらしてた。友達のとこを渡り歩いて、それでも行き場がなくなって、階段に座り込んでいたとき、足元を這っていく黒い流れが見えた。流砂みたいに上から降ってきて、下の階まで続いてくんだ。あー、そういうのもあるのかって、おれはぼんやり眺めてた。深い意味なんて考えなかったな」
「それから? いまも時々見えるの?」
「時々、というか、ごくたまに見える。きょうは今朝から、なんとなく見えるって気がしてた」
魚たちが群舞する庭のふちまでやってきた。彼は立ち止まり、ポーチから小さな球を取り出した。指で操作をすると、それはバーディーの目の前で羽を生やした虫の形になった。どうやら飛びそうである。
「それ……哨戒機に似てる?」
「おれたちは荷運び蜂って呼んでる。小さなものなら積んで届けてくれるんだ。アルバトロスには黙っていてくれたらありがたい。こいつは伊吹団長行きだ」
三十日はきれいに育った黒結晶をとり出すと、荷運び蜂の足にあたるクリップの部分へくくりつけた。ほかに手紙やおかしなものをつけていないのをバーディーに確認させ、指で操作を行うと、機械仕掛けの蜂は羽音を鳴らして空中へと飛び上がった。
「黒結晶を……伊吹団長へ届けるの?」
「そう。ここに来るときに命じられたんだ。アルバトロスに会ったら彼の監視をするようにと。インビジブルを使って塔に危害を加えていないか見張れってことだ。それと、可能なら黒結晶を持ち帰れと。そうしたらバーディーに会わせてやろう、ってね。順序が逆になったけどな」
荷運び蜂は木立を越えて向こうへと飛び去ってしまった。伊吹が黒結晶をどうするつもりなのか、長月三十日も知らない。
夜の静けさの中でバーディーは星空を眺めていた。三十日のことを、さては裏切り者だろうと責めることはできない。自分たちだって、二宮楓に結晶を渡しているではないか。中央塔の人々が根っからの悪人とは思えない。彼らの目的とはいったい何だろう。
「お前が中央塔に呼ばれて行って、伊吹団長に会ってきたなんて言うもんだからさ……」
長月三十日がぽつりと言った。独り言のような声が夜の森に吸い込まれた。朝の畑で顔を合わせたとき、伊吹のことを弁解しそびれていたのをバーディーは思い出す。
「そ……それは、なにも特別なことは起こらなかったの! あいさつしただけみたいな感じで。ほんとに、その。顔を見ただけだから……」
「でもこれで、『誰だかわからない人のお嫁さんになる』わけじゃなくなったんだろ?」
「あ、そう……だね。知り合いになっちゃった……」
長月三十日は向きを変えて歩き出す。隠れ家に戻る方向だ。彼は明らかに不機嫌そうで、バーディーは幼馴染が機嫌を損ねてしまったいくつかの心当たりを見つけては根拠を考えていた。
「三十日、聞いて。伊吹団長は、あたしがお願いすれば騎士団に入れてくれるかもしれないって思う。そういうことならお嫁さんになってもいいのかなって……」
「ふーん。悪くないと思うよ。伊吹団長は歳が離れてるけど、幹部だしひどいヤツじゃないし、見た目も良かっただろ?」
「そういうことじゃなくて。あたしがおとなしく言うことを聞けば、皐月先生も一子さんも、無事に返してもらえるかもしれない。騎士団にさえ入れたら、あたしを助けてくれたみんなへの恩返しになるかもしれない。アルバトロスと三十日には謝らなきゃね。結婚式から逃がしてくれたのに……」
「おいおい、複雑でわかりにくいな。おれが何年、きみの友人をやってると思う? ナンバーレス、神無月十子、そしてバーディー。おれは結局きみをどの名前で呼んだらいい?」
長月三十日が前を遮り、バーディーは立ち止まる。光量をあげて眩しくなった蛍飛球が二人のあいだに浮かび、頭上から明るく照らしている。昼間のように表情がはっきりとわかった。
「あたしは、バーディーがいい。小鳥っていう意味なんだって。そう、意味のある名前なの。アルバトロスが考えてくれたから」
「ではバーディー、正直に言ってみてくれよ。誰の役に立つとかは少しも聞きたくないな。まとめてみると、『伊吹団長は格好よかった。中央塔での暮らしも、そんなに悪くなさそうだ。結婚もちょっとイイかもね!』……って感じか? さあ、言ってみなよ。どうせおれしか聞いてないんだ、遠慮せず笑ってさ」
三十日の言うとおりにバーディーは笑顔を作ってみる。ただの言葉だ、呪文のように唱えるだけ。これで丸くおさまるに違いない。自分のために傷ついたり、縛られたりする者はいなくなる。だから笑えばいいのだ。
「あ、あたし……。そうだね、結婚してみるのも楽しそう……かも……」
「なんで泣いてるんだよ。それ、嬉し泣きってやつ?」
笑いたいのに、涙がいくらでもあふれてくる。頭ではそうするべきと分かっているのに、どうしてうまくできないのか。また、自分だけだ。自分だけが子供のようにわがままを言っている。
「これは……そうじゃなくて。まだ心の整理が……っていうかね」
「バーディー、あきらめるなよ。きみの夢は騎士団に入って活躍することだった。いまはどうだ、夢はお嫁さんに変わったのか?」
「夢? 夢なんてあたしには……」
これも子供っぽい響きだ。夢は騎士団で活躍することだと宣言していた幼い日には戻れない。いや――自分よりずっと年上なのに、純粋に目を輝かせて夢を語る者がいた。中央塔の人々が嘲り笑っても、ネーロや自分が呆れても、それでも夢に生き続けている男がいた。
――いずれは、地上に降りて暮らす人々の街をつくるつもりだ。
――バーディーが俺んとこに居てくれたら嬉しいんだ。
――みんな自由であるべきなんだ。これからは、そういう時代になるぞ!
アルバトロス。白き翼で空を駆ける男。彼と自分はなにか似ている。血が繋がっていないかもしれなくても、彼の精神を継ぐことはできるのではないか。
「三十日、あたしいまから、信じられない無理かもしれないこと言うけど」
「うん。聞いてやる」
「あたしの夢は、あたしたちの育った東塔の扉を開けること! みんなが地上の土を踏んで、風の匂いを知って、塔に残ってもいいし降りてもいい。自分の足で行けば誰にでも会える――皐月先生にも、一子さんにも、アルバトロスとネーロにも……もちろん三十日も! これからはきっとそんな暮らしができる。あたしたちの目はきっと、そのために使うものだと思うから」
長月三十日は笑わなかった。
そのかわり難しい顔をしていた。棒術の相手をするときよりも真剣に聞いて、喋るのが終わるころには呆気にとられた表情をした。無理だと思ったスリングの弾が命中したときのような。
「あたし変なこと言ってるよね。わかってる、でも――」
「いや、おかしくないよ!」
「え……」
「おれたちは結婚式をぶち壊した反逆者だぞ、やれるだけやってみるんだ。バーディーやアルバトロスの理想どおりになるかは分からない。やってみて、もしもだめだったら、おれが一緒に伊吹団長の前で土下座してやるよ。もう二度としません、反省するので許してください、ってな」
「なにそれ……。昔、そういうことあったよね」
「皐月先生に叱られたときだよ。ふたりで見えない弾でいたずらして、ひどく懲らしめられた事あっただろ?」
「あっ、そうだった! そうだったよね。なつかしいね」
バーディーは泣きながら笑った。冷たい床に並んで座りお説教されたのが、つい一昨日あたりの出来事のようだ。三十日と自分は、訓練には熱心だったかもしれないが、お世辞にも優等生ではなかった。ひとりきりではなかったから楽に呼吸ができていたのだ。
「おれ、なんとなく分かってきた気がする。この塔とそのまわりで暮らす人間の、みんなの思惑みたいなのがさ、おれたちの目の力を中心に集まっているってのが。単に役立つなんていう理由じゃない。問題はとくにきみのほうだ」
「え……? それは確かに、あたしのほうが見えるけど……」
「中央塔でホムンクルスを見たか? 吐き気を催すくらいに哀れな生き物だった。ホムンクルスは二宮博士が関わった計画の残り物だっていう噂を聞いた。おれは何も知らないで誰かの手駒になりたくない。バーディ、おれに近いきみの運命が、おれの運命でもあるんだ。だから、おれは……」
肩をつかまれるほどの剣幕を感じとり、バーディーは身構えた。だが、それは起こらなかった。三十日は鋭い視線をふと緩めて、いつものような穏やかな顔に戻っていた。
「実は策があるんだ。明日の朝からでも取り掛かろう。もちろん、きみの答えが決まっていたらの話だけどさ」
三十日はふたたび歩き出した。隠れ家のほうへ向かいながら、時々じっと木立の先を眺めている。ただの闇のようだが、もしかしたら黒い流れが見えているのかもしれなかった。バーディーはそれを視覚の優劣であるとは考えなかった。彼には彼なりの感受性があるだけだろう。
「こういうの、きみのためなんて言うつもりはないからな。アルバトロスだって、ネーロだってそうさ」
バーディーは木の根が這いまわる地面を踏んで歩いた。小さく揺れる灯が先を照らしてくれる。いま帰るべき場所は、たったひとつだと分かっていた。




