5-1 森の朝と夜
森は、きらきらとした朝の光に包まれていた。
ネーロを頭に乗せて、バーディーは靴紐を結びなおす。歩き出すと、ポニーテールの跳ね返った毛先が揺れた。きょうは粒子の流れがよく見える。背の高さで流れる粒子の河をみながら、木立の向こうの流れを予想した。きっとあっちだ。そう考えて駆け出すと考えは当たっていて、バーディーは木の根元に新しい欠片をひとつ隠した。
調子がいい。今までにない感覚だった。昨日の朝と、きょうの自分は別人のようだった。二宮楓の車に乗ったとき、再び戻れないかもしれないと覚悟したこの庭で土を踏む感触がうれしい。コンクリートに囲まれた塔とは違って、地上は生命に満ちている。
「お嬢、飛ばしすぎないでよ」
頭の上からネーロの声がしたが、いまは結晶の育ちぐあいを見定めるのに忙しいのだ。
「どうして? こういうときは稼ぎ時じゃない?」
「一日は始まったばかりだよ。巡回はまだ昼も夕方もあるからね」
「はいはい」
「もう! お嬢、聞いてないじゃん!」
ある枝のくぼみに置いてあった石を拾いあげる。きのうの読みが当たり、物足りなかった石はすっかり立派な結晶に育っていた。月光のような清い輝きを透かしてネーロに見せる。
「ほら、あたしの思ったとおりになった」
「いいね。もうちょっとで、二宮楓に払うぶんが稼げちゃうね」
二宮楓。その女科学者の名を聞いて、バーディーはきのうの出来事を思い出した。風が吹き抜ける森のなかにいながら、無機質な硬い部屋と通路が脳裏にうかぶ。薄暗い慰安所、闘技場、ホムンクルス……そして、冷凍庫。緑の匂いがするこの森とはかけ離れた世界だ。
コンクリートの塔と、生命と危険に満ちた地上。どちらの世界へ行くのか、自分の意志で選んでいいとアルバトロスは言った。何が正解かなど知らないが、姫君のように囲われて生きるのだけは御免だ。伊吹雄介が実際どのような亭主になるのかはともかくとして。
銀色の魚の群れが泳ぐのを横目に見ながら、木立を抜けて開けた畑についた。すでに長月三十日がそこにいて、土から伸びた細長い黄緑色の茎を刈り取っては籠に入れていた。バーディーが来たのに気がつくと、視線を向けない横顔のままで彼は言った。
「こいつ、軽く湯に通して食うとうまいな。生長が早くて、朝に採っても昼過ぎにもう一度収穫できるんだ」
昨夜、ロードスターで帰ったときも顔を合わせたのだが、その時もいまも、三十日は何も聞こうとしなかった。もしかしたら、中央塔でのことを誤解されているのではないか。訊ねられて答えられないことはひとつもないというのに。
勝手に決められた婚約者のもとに行ってきたが、ただ本当に互いの顔を知ったというだけ。ほかに、中央塔で見聞きしたこと、自分はアルバトロスの側に残るつもりということを、三十日に言おうとしたのだが――。
視界の端に素早く飛ぶものが来た。小さくて茶褐色のそれは畑を囲う杭にとまり、頭を上下に振りながら歌うような声を出した。
「お嬢さま。そして、ネーロ先輩。いつぞやのご恩返しに参りました」
人間ふたりとカラス一羽の視線が一点に集中した。
バーディーは杭の上を凝視する。ネーロよりもずっと小さな鳥がいる。「彼女」には見覚えがあった。かつて畑の番をしていた、そして一度は命を失いかけた、勇敢なる小さな狩人。両翼をたたみ、鱗模様のある胸と長い尾羽をぴんと張っていた。その姿を見てネーロが呼びかける。
「あっ、クイーンじゃないか! 元気になってる、喋ってる!」
「ネーロ先輩。おかげさまでこの通り、すっかり良くなりました」
「先輩って……うん、まあいいや。このごろ見かけなかったけど、きみはどうしていたんだい」
「恥ずかしながら、この畑で起こったことが頭から離れなかったもので。しばらくの間、狩場を変えておりました」
「そりゃ無理のない話だね。とにかく良かったよ」
カラスとモズが世間話でもするように会話しているのも奇妙なものだ。そもそも事情を知らない長月三十日は、二羽の様子を不思議そうに眺めている。落ち着いたら説明してやらなくてはいけないとバーディーは思った。
クイーンは杭を蹴って飛び立つと、バーディーの目の前まできて空中で羽ばたきながら願い出た。
「お嬢さま。すみませんがお手を拝借できましたら……」
「手? こんな感じでいい?」
「あっ……わたしの爪がかかると痛いと思います。手の甲を上にして……ああ、そうです」
バーディーが手を差し出すと、鋭く曲がった爪を立てないよう気を付けながら、クイーンは慎重に手の甲へと降りて翼をしまった。鳥の流儀のあいさつとして頭を二回ほど下げてから、彼女はあらためて喋り始める。
「ご恩返しに参りました、お嬢さま。まずは、あいさつが遅れましたのをお詫びいたします」
「あたしは大したことは何も……。それに、あなたは子育ての手伝いをしてたから、忙しかったんだよね?」
「そのとおりです。お陰さまで、末の弟も無事にひとり立ちしました。かなり厳しく指導することになりましたが……。これでようやく、わたしもお嬢さまのお役に立つことができます。なんなりとお申し付けください」
「ええっ。なんなりと、って言われてもね……」
バーディーは困惑してネーロに目で訴える。鳥の考えることはよくわからない。引き続き、畑の見張りでも頼めばよいのだろうかと思っていると、ネーロが代わって返事をした。
「クイーン、きみ、インビジブルから僕たちのこと聞いてる?」
「はい。コンクリートの塔からやってきた皆さんで、地上に降りて暮らそうとしているんですよね?」
「僕たちの計画に協力してくれるつもりはあるかな? 寝食も見回りも、可能な限りお嬢の近くで、ってことになるけど」
「それは……よろしいのですか? わたしのような新参ものが、お嬢さまのおそばにいられるなどと……」
クイーンは興奮で黒い目をいっぱいに見開き、羽毛と冠毛をふわりと逆立てた。
「たぶん、アルバトロスもいいって言うよ。近々大きな仕事があるから、手伝いがほしかったところなんだ。お嬢もいいよね?」
「えっ、あ……うん。あたしはいいと思うけど……」
バーディーはよくわからないまま、流されるように頷いてしまった。
鳥同士の会話のように見えていたが、インビジブルという存在が背後にあるのだから、聞いたとおりの意味ではないかもしれない。それでも、手の上に乗った小さな狩人の黒い目は真っすぐで、自分を慕ってやってきたのは信じて良いのだろうと思える。
「なんと、お嬢様。光栄なことです。わたし、精一杯お仕えいたしますね!」
クイーンは嬉しそうに高鳴きをした。その甲高い声は、光る魚の群れがゆく庭の外縁まで響きわたっていた。
「それが、自分にもわけが分からぬのです。とにかく南塔警備へ移れとのことで、あとのことは何ひとつ……」
睦月十四郎は戸惑いがちに答えた。傍らには、部下の如月閏を従えていた。
南塔の屋上でのこと。空から降り立ったアルバトロスは、ふたりの騎士とともに顔を曇らせた。本当は、皐月五郎と師走一子を保護するために協力をたのむつもりだったのだが、事態は悪い方へ向かいつつあるのかもしれない。
「インビジブルの侵入騒ぎで大変なときに、警備を離れろだと? 代わりに誰か北塔に入ったのか?」
「いいえ、少なくとも、自分の知る限りでは誰も」
「中央は北塔を見限るつもりか……。いや、これはむしろ……」
その先は口に出すのも恐ろしい。
八坂銀次郎が、野生のインビジブルを意図的に北塔へ入れていた。自分が知る当初の計画に従っているならば分からなくもない。しかし、警備を放棄するということは……。最悪の答えが思い浮かぶ。このままでは、北塔の住人は全滅するかもしれない――いや、人の手により滅亡させられるのだ。
もはや、二宮楓も頼れない。低く唸ったのちにアルバトロスはつぶやく。
「こうなったら、八坂銀次郎と直接話をつけるしかないな。伊吹にどこまで実権があるかは怪しいとこだし、凪美由紀の考えはまったく読めん」
「しかし、アルバトロス殿。いまは、お嬢さまの件で手一杯かと思われますが」
「確かにそうなんだが……身内のことばかり言っていられないだろ」
バーディーを塔から降ろしてみたものの、彼女をかくまい続けるのもまた自由とは言い難いのだ。たとえば、バーディーが自ら伊吹と交渉して、結婚の条件を提示することで未来をつかむ道もあるかもしれない。少なくとも、逃げ隠れを続ける人生を歩まずに済むことになる。
「俺はバーディーに、俺の考える未来を示してみせたんだ。あとは彼女が自分で決めるさ」
「それでいいのですか、アルバトロス殿。バーディーお嬢さまは本当にあなたの……」
うつむいたアルバトロスに、睦月十四郎はそれ以上言えなかった。血縁があるなしに関係なく、娘のように思っている少女だ。籠の鳥のように繋いででも手元に置いておきたいのが男親の心理かもしれない。
「ああ。なんだか、南塔に来たらひさびさに飲みに行きたくなったな。睦っちゃん、これが片付いたら一緒に行こうな!」
「ええ、ぜひ行きましょう」
「その前に、頼んでおくことがある。睦っちゃんたちがこの南棟にいるっていうんなら、そう難しくないし危なくもないことなんだが……」
静かに晴れ渡っている空の中で、アルバトロスは旧友の男にひとつの頼みごとをする。最後の作戦のはじまりであることを睦月もまだ知らずに、とある人物にこの密会がみつからないことを願っているだけだった。
「東塔の塔長だった皐月五郎と、師走一子っていう女性を捜してる。もしも二人がこの南塔に入るようなことがあったら、俺に知らせてほしい。だが無茶はしないでくれ、絶対だ」
言い終わるのを待たずに、展望室からひとりの女性があらわれた。時すでに遅し。彼女は迷わずに歩を進めアルバトロスに近寄ると、その襟をむんずと掴みあげた。
「やあ、誰かと思えばあんたじゃない。この南塔に足をつけておいて、あいさつのひとつもくれないなんて冷たいねえ。もちろん、ゆっくりしていくんだろう?」
「ひうっ……! ふ、二十二子……さん。いやその、俺もいろいろと忙しくてさ……」
「さあ、下に行こうか。あんたのために酒をとっておいてあるよ」
襟をつかまれて、アルバトロスは子猫のように引きずられてゆく。彼女が南塔の塔長、霜月二十二子だ。睦月十四郎はなにも言うことができず、アリジゴクの餌食のごとく階下へ引き込まれていく銀髪を見届けていた。
アルバトロスはその日、帰りがとても遅くなった。
――黒い流れがきている。わからないが、そう感じられる。
アルバトロスの隠れ家に来てから、長月三十日はそのへんにあった木材を使い自力でこしらえた寝台を使って寝床にしていた。いつもなら畑仕事や鍛錬などで疲れきってすぐに眠ってしまうのだが、バーディーが無事に戻ってきたきょうの夜もまた眠れなかった。
南塔でつかまって酒を飲まされ、ネーロの先導でやっと戻ってきたアルバトロスは自分のベッドで潰れている。もとから薄着だった胸がはだけ、太腿も丸出しになっていた。正体が男性とわかっていても姿は女性であるので、三十日はなるべく見ないようにして毛布をかけてやった。
奥のほうにあるバーディーの部屋にはカーテンが引かれていて中が見えない。物音がしないし、おそらく眠っているのだろう。ネーロの姿もないのでたぶんそこだ。三十日は護身棒とスリングを持ち、静かに扉を開けると外に出た。
――やはり、近い気がする。黒い流れが来ている。
長月三十日は環境適応者である。だが、まだ第一段階だ。バーディーの完璧な視界にくらべて、三十日は暗がりでしかインビジブルが見えない。いまは夜なので、木立の中を流れていく光の粒が見えていた。バーディーは昼夜を問わずあの流れを見て石を育てている。核となるインビジブルの破片に光を吸い込ませ、きれいな結晶を作ってみせるのだ。
バーディーは自分の考えや読みがあって石を配置しているので、三十日が彼女の仕事に手を出すことはなかった。よって、夜の散歩がてらに石を並び替えようなどとは思わない。そのかわり、蛍飛球の明かりを頼りにしながら、迷わずに森の中へと入っていった。深入りはしない。たとえ庭でも、森は野生が支配するところだ。
道をすこし進んだところで、長月三十日は歩みを止めた。
古い木の中ほどあたりに洞が開いている。この穴をバーディーが使うことはなかった。「なんだか、ここは育たない気がする」と彼女は言っていたが、それについては同感であった。この洞には悲しみが滞っている。たとえば小鳥が営巣するには、この木には足がかりが多すぎて、すぐに卵を取られてしまうだろうと想像できた。そのせいかもしれない。
三十日はその穴に手を突っ込んで、指先で小さな石を取り出した。バーディーたちが作っている結晶とは違い、その表面は吸い込まれそうな漆黒だ。石はふたつあり、欠片をあちこちに散らして置いてあるバーディーのやり方とは異なる。おなじ巣に生まれたふたりの兄弟が競い合うようにして、片方は育ち、もう一方はほとんど大きくならないままにひび割れていた。強い破片に力を吸われてしまっているのだ。
――ひとつは手遅れだったか? 死んでしまったのだろうか。
インビジブルの破片は生き物ではない、と思う。それなのに、弱々しい雛鳥と重ね合わせてしまう。おかしな話だが、自分の手で育てているからそう錯覚するのかもしれない。
大きく育った「兄」のほうの黒い石を指先ではじいてみると、完成した結晶の手ごたえがあった。数年前に、凪美由紀がテストに使っていた碁石を思い出す。黒の石と白の石は相反するもので敵同士だった。
力を吸われてしまった「弟」の破片は、いまなら命が助かるかもしれない。ひび割れた破片を握りしめ、踵を返した三十日の前に、いつのまにか人の影があらわれていた。護身棒を構えてみたが、それがよく知る人物だとわかるのに時間はかからなかった。




