4-4 月光の下
ほんの数分間だったのか、数時間が経過したのかもわからない。
飛島海渡は痛みで目を覚ました。どこが――いや。全身のうちどこが痛くて、どうなっているのかわからない。仰向けに倒れていて、木立の隙間から夜空と星がみえる。首をひねろうとするがそれも困難で、かろうじて片手だけがまともに動いた。
――ああ、そうだ。瑠璃……そして……。
唯一動く左腕を支えに起き上がろうとした。だが、逆の右肩に激痛が走る。外れているのかもしれない、涙が出て吐き気がする。手首につけた通信端末をみると、ディスプレイが破損していた。思い返すと、今晩の脱出にそなえ、位置情報の発信もオフにしていたのだった。
――これでは発見もされず、救助を呼ぶこともできないか……。
三百メートルを落ちて、生きているのが奇跡だった。脱出にそなえてヘリ・スーツを着込んでいたことと、茂った木立で衝撃が和らいだのかもしれない。
凪美由紀のあの様子では、自分が不正な手続きでヘリコプターを用意し、亡命を図ろうとしたことは既に知れているだろう。おそらく、反逆者として報告がなされている。助けられたところで先は暗かった。
飛島は身動きもできないまま空を見上げる。
もはや、地上を徘徊する獣の餌食になって終わるのだろうと、すべてを諦めかけたときだ。
木立の隙間から何かが舞い降りてくる。鳥だ。それは飛島のすぐ上までくると翼をいっぱいに開いて減速し、胸の上に着地した。ネーロかと思ったが、違うはずだと考えなおす。なぜなら、扇形にひらいた尾羽は全てきれいに揃っていた。先ほど、塔の上で少なからず抜けているはずなのに。
胸に乗った黒い鳥は、飛島の顔を覗き込むと人の言葉を話した。
「……アー、アー……。母ちゃん。僕だよ……ネーロだよ。本当に喋れるよ……。びっくりしないで、僕も驚いてる」
「母ちゃん……だと。俺は男……つまりオスだ」
「どっちでもおんなじだよ。僕にずっとご飯をくれてたから」
「まさか、お前と喋れる日がくるなんてな。夢か……それとも、これがお迎えってヤツか」
気力が尽きかけているのか、目を閉じて眠ろうとする飛島をネーロは嘴でつつく。このまま意識を失われては困るのだ。宿主の同意なしでは、インビジブルは寄生できない。まだ耳が聞こえていることを願い、ネーロは預けられた言葉を告げる。
「母ちゃん、寝ちゃだめだよ、聞いて! インビジブルが取引をしたいって。母ちゃんの体を貸してくれたら、怪我を治してくれるんだって。年もとらなくなるんだって。それに、見えないものが見えるようになるっていうオマケ付き」
閉じていた瞼を開き、飛島は苦笑した。肋骨が折れているのか、痛みに顔をゆがめながら。そして、精いっぱいの強がりを込めて答えた。
「そんなら……ネーロ、あちらさまに聞いてみてくれ。『それをして、あんたらに何の得がある?』……ってな」
昇降機は上層階へと昇り続けていた。
凪美由紀と別れ、その密閉された箱は、バーディーと伊吹雄介を乗せたまま注文通りの階層までたどり着いた。チィン、と済んだ音が響き扉が開く。先には、またしてもコンクリートの通路が伸びていた。塔の中はみな同じだとバーディーは思った。東塔であれ、この中央塔であれ。
胸にこみ上げるような不快感と寒気をこらえつつ、なんとか自力で歩けるようになっていた。先を歩く伊吹のあとをついていく。ほかに人の気配はなく、足音だけが響いている。
「あの阿呆鳥……アルバトロス、と今は名乗っている奴だが、もとは飛島海渡という男だった。この中央塔の出身で、一時は東塔の塔長をしていた」
「……そう……なんですか」
「さすがに知っているだろうが、インビジブルにとり憑かれてしまった反逆者だ。おとなしく投降すれば、ふたたびこちらへ迎えるつもりで交渉しているが、あれは頑固でね」
伊吹は、ある大きな金属の扉の前で足を止めた。
パスワードと生体認証でロックを解くと、扉がスライドして開く。中は大きなフロアだった。四方の壁はつるつるで真っ白で、正面に四角い窓があった。操作卓を兼ねたディスプレイらしかった。心なしか外よりも室温が低い気がする。
「……『冷凍庫』だ」
返事をまるで期待していないような伊吹の声がうつろに響いた。
操作卓の前に進み出た伊吹は、指でなにやら操作を始めた。壁面と一体になった大きなディスプレイには、人名らしき文字が羅列されている。伊吹が画面を手で払いのけると、本のページをめくるように映像が滑り、別の情報があらわれる。それを幾度か続けた。
やがて、ある文字列にたどり着くと、指で叩いた。電子音がして、一枚の画像が映し出される。それはひとりの赤ん坊の姿だった。
「この冷凍庫の中で眠っている『飛島つばさ』だ。アルバトロスの、たったひとりの愛娘だ」
バーディーは画面の前で立ち尽くす。
これが、アルバトロスの――。
眠っているとは、どういうことか。中央塔の人間ならば、時が止まったままでここにいるというのだろうか。たったひとり、とは。では自分は何なのか……。
いろいろなことが一度におこり、頭の中が疑問で渦巻いていた。
全ては、自分とはまったく関係がないことのようにも思う。しかし、渦中のもっとも中心に自分がいて、揺さぶられているような気もする。かつて、知らなかった世界を知ることは喜びだった。だが、ここから先は未踏の地であり、足を出せば背後の扉はきっと閉じられてしまう。
それでも訊ねなければならなかった。
「伊吹さん、どうして、あたしにこれを? ホムンクルスってなに? あれを見てると悲しくて泣きたくなるの! あたしたちが名前を名乗ってはいけないのは何故!」
バーディーの叫びに、伊吹雄介は目を伏せた。
それは――と、低く静かな声と同時に、後ろの扉が開く。長い銀髪をなびかせながら入ってくる女、いや、本当は飛島海渡という名の男の足音に、バーディーは振り向いた。くすぶり続ける炎のような怒りを含みながらも、孤独に耐えてきた黒髪の男の表情が、ほんの一瞬見えた気がした。
「よお。また会ったな伊吹。うちの娘を返してくれ」
思わず、ディスプレイの中の赤ん坊の顔を見る。
だが、アルバトロスの左手はバーディーの肩に置かれていた。その右手には拳銃。伊吹雄介に狙いをつけている。その伊吹には慌てる様子もなく、武器をとりだす気配すら感じられない。
「鳥になってここへ来たのか。だがどうやって帰る? 貴様では抱えて飛ぶこともできないだろう」
「飛べるさ」
「……強がりか、まあいい。ならば、別れを惜しむ時間をくれてやる。期限は二週間後だ。それまでにバーディーを再び連れてこい。皐月五郎と、師走一子の身柄はこちらが確保している」
「それは脅しか」
「俺の考えではないとだけ言っておく。行くなら行け、凪美由紀に見つからないうちにな。車庫に幌が壊れたロードスターがある、エンジンがかかるかどうかまでは知らん」
アルバトロスはじっと伊吹雄介をにらみつけると、バーディーの手を強く引いた。
扉から出る前に振り返る。伊吹は微動だにせず、怒りでもなく、まるで憐むような視線をこちらへ向けていた。アルバトロスに連れられ、バーディーは扉をくぐり通路を駆け抜けた。昇降機に飛び込むと箱が下降する。二人の間に静寂が訪れたが、何をどう訊ねたらいいのか分からなかった。
口を開いたのはアルバトロスのほうだった。
「……昔、俺にはカミさんがいた。環境適応者だった。だが、俺がしくじって塔から落ちた夜、俺のあとを追って屋上から飛び降りて死んだ」
「え……」
「憶えてるか? バーディーと初めて会ったとき、青い石のついたレンズを持ってたろ? あれは、俺のカミさんの持ち物だった。それに、バーディーもインビジブルが見えると知ったとき、俺は……」
昇降機がかすかに揺れて止まった。
扉が開くと最下層だった。バーディーは手をひかれて箱から降りる。
そこは大きな車庫になっていた。二宮楓が乗ってくるようなジープもあれば、もっと大きくて無骨な機械のついた車両もある。
静まり返った中を歩き、アルバトロスはある一台の車の前で立ち止まった。車高が低めで平らな形状で、他のものとちがい屋根がない。鍵がついているのを確かめると、扉をあけてバーディーを車内へ誘導した。
「あのとき俺は、バーディーを娘として迎えられたら、どんなにいいだろうと思ったんだ。もしかしたら、本当の血のつながった娘――つばさは、あの冷凍庫にいるのかもしれない。だとしたら、二人とも俺の娘にしよう、ってな」
アルバトロスが操作する車は、狭い隙間を縫ってゆっくり進んだ。
シャッターがみえてきたあたりで、床を這っている玉に気が付く。蜘蛛玉だ。端末をつかって警戒を解かせていたのだが、その効果が失われているらしい。こちらを警戒しているようだ。
「バーディー、スリングと弾を持ってるか」
「うん、服の下に……」
「用意してくれ。まずい、虫どもが飛んでくるかもしれん」
着衣の中に隠してあったスリングと弾を取り出した。蜘蛛玉たちがいる背後に注意を向ける。金属がきしむ音がして、前方のシャッターが開きはじめた。外の世界にはインビジブルがいるが、前方はアルバトロスが見ているだろう。
蜘蛛玉たちは騒がない。刺激しないように、車はゆっくりと外へ滑り出す。
車の前照灯をつけたその時だ。
「なっ――八坂銀次郎!」
アルバトロスの声に振り向くと、一人の男が銃口を向けていた。
シャッターのすぐ外。体格の大きなその姿が見えると同時に銃声が響く。弾はフロントガラスにめりこんだ。アルバトロスが応戦するも的を外す。
バーディーは無意識にスリングを引いていた。弾が放たれ、男は握っていた拳銃をとり落とす。
「すまん、助かる!」
アルバトロスはアクセルをいっぱいに踏みつけた。
整備されたアスファルトの上を駆け抜け、砂利道に入ったあたりで、背後の男はみえなくなった。バーディーはようやく胸をなでおろす。あとは野生のインビジブルがいるだけで、敵意に満ちた人間たちよりは余程ましだ。
そう、例えば――バーディーは思い出す。ほんの一瞬しか見えなかったが、あの八坂銀次郎の目はやけに虚ろだった。演説のときに見ていた顔とはどこか違う。感情のない人形のような。
砂利の敷かれた道すら外れ、車は森へと入っていく。時折大きく揺さぶられながら、アルバトロスは口を開く。
「伊吹雄介と話しただろ。あれは俺と考えが違うってだけで、悪い男じゃない。稼ぎもいいはずだ。どうするのかはお前が決めていいんだ、バーディー。……だが、どんな男だったとしても、娘は一生嫁に出したくないのが父親ってもんでな……」
そこまで言うと自嘲の笑みを浮かべる。
「ああ、この格好じゃなぁ」
独り言のようにつぶやいたアルバトロスは、相変わらず女性の姿をしていた。
たくましく日焼けした肌に銀の長い髪、胸の膨らみ。それなのに、やはりバーディーには見えるのだ、跳ね返った癖のある黒髪の男の姿が。あるいは、月の光が照らし出す幻影なのか。助手席で揺られながら、二つが重なり合った横顔を黙って眺めていた。
バーディーは思う。楽観的で強情で、自分たちはまるで血のつながった親子のようにそっくりだ。
〈第四話 おわり〉