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4-3 記憶

「なんだ、こいつは……」

「カラスでしょ、見てのとおりよ」

「凪。俺はそういうことを聞いたんじゃない。何故ここにいるのか、だ」

「今朝、森で拾ってきたんですって。飛島海渡が」

「トビシマ?……ああ。いたな。奴は自然保護官(レンジャー)なのか?」

「違うわよ、まあ知らないでしょうね。彼の本職は……」


 物音に気付いて目を覚ます。

 瞼をあけると視界が光であふれた。上から自分を覗き込んでいるのは、人間がふたり。(デモ、チガウ)と思う。腹が減った。自分はきっと、別のだれかを待っている。うずくまって伏せた姿勢から、足に力を入れて立ち上がった。ともかく、これができないと食事にありつけない。


「人を怖がらないんだな」

「雛なんだそうよ。そういうこともまだ知らないの」

「これで子供なのか。成鳥と姿かたちは変わらないようだが……」


 足音が聞こえて、ある予感にうれしくなり鳴いた。

 二人が話し込んでいる後ろから、別の人間がやってくる。自分の羽とおなじ、真っ黒な髪の毛。指でつまんだものを差し出され、反射的に嘴で食いついた。

「よし、こいつは口に合うみたいだ」そう言いながら、食べ物を千切って少しずつよこす。空腹だったのですぐに飲み込んでしまった。

 もう、あの顔と足音を覚えた。人間の別の個体と間違うことはぜったいにない。


「こいつ、嘴の付け根と内側が赤いだろ? まだ子供のしるしだ」

「だからといって拾ってきたのか? お前は、レンジャーでないのなら生物研究者なのか」

「違う。……あっ、食ったら眠くなったみたいだ。なんか可愛いよな」


 食べて満足して、もう立ち上がる気もなくなってきた。

 羽毛を膨らませて目を閉じる。首のあたりを指でこりこりと撫でられて、かつて共に育った兄弟がいたことを思い出した。

 枝にかかった皿のような巣の中で、あれとも頭や羽をつくろい合った。どういうわけか親が姿を見せなくなり、一緒に腹を減らした挙句のある朝、彼は冷たくなって動かなくなっていた。自分もいずれそうなるのだと思って、怖いわけでもなくただ納得した。

 ところが、どういう縁かこの人間の手によって拾われて、見慣れないところへやってきたのだ。


「こいつの名前、ネーロにしたんだ。黒いって意味だ」

「トビシマとか言ったな。お前は何者だ。さては愛玩動物と猟犬のトレーナーか」

「ああ、いや。それが……」


 飛島海渡は、ばつが悪そうに頭を掻いた。

(ネーロ……トビシマ……)

 小さなカラスは、うとうとしながら頭の中で反復した。大事な名前は覚えなければ。他はあとまわしだが、いずれはそれも覚える。少し茶色の毛の人間も、毛がまっすぐで長くて、やや小さめの人間も。

 ああ、眠ってしまう。次に目覚めたときに、また食事がもらえたら幸せなのだが。自分の保護者らしき人間の声を聴きながら、また意識は沈んでいく。


「俺は……冷凍庫のセールスマンなんだ。つまり、ただの民間会社所属の保守管理屋にすぎないってわけで……。よろしく頼んます、伊吹護衛官どの」




 いきなり目隠しをされ、翼ごと布で包まれて、身動きひとつできない暗闇の中をネーロは耐えていた。

 自分にこのような酷い仕打ちをしたのは、親代わりの飛島という男である。男というのは人間のオスだ――ということも知った。鼓膜にひびく爆音も黙って我慢し、上下左右の揺れにも鳴き声ひとつあげなかった。

 しばらく経って、やっと暗闇から解放されたとき、目の前に一人の女がいた。女とは人間のメスだ。毛の色は金色で長くて柔らかそうで、その女はネーロをみるなり満面の笑顔になった。


「すごーい、本当にカラスなんだね! 触っても平気?」

「あっ、いや待て。ご機嫌しだいではつつかれるから……」

「そうなんだ? でも平気そうじゃない? ねえ……」


 飛島の手に乗せられたまま、いきなり近寄ってきた女に、ネーロは羽を開いて後ずさった。

 人は自分の扱いをしらない。最初に頭を押さえつけようとしたり、おびえて騒いだりする。だから、知らない人間に顔を合わすのは苦手で――と、思っていた。だが、金の頭髪で青い目の女は、ネーロの前にかるく握った手を出すと、人差し指だけを立ててお辞儀のように上下に振ってみせた。


「初めまして、ネーロくん」

「……あっ? 鳥のあいさつの仕方なんて、よく知ってたな」

「あたしは瑠璃。この名前は飛島さんがくれたんだ。きみと同じだね」


 ルリ。その響きを反芻しながら、ネーロは呼応するように頭を上下に動かした。

 何かうれしくなって、ネーロは飛び上がり、四方を窓に囲まれたフロアを一回りしてみせた。ここは東塔の展望室だ。ただのカラスには理解できないことだが、ここで何を話そうが、蜘蛛玉たちの逆鱗には触れないようになっている。飛島がそうしたのだ。

 ふたたび飛島のところに舞い降りて、嘴を彼の腕にすり付けてみせる。すると、瑠璃も指先を嘴に見立てて同じことをしてみせた。仲間のしるしだった。

 これで、ネーロと瑠璃は友達になった。




「なんですって? あなた、いま何を言ったか分かっているの? 睡眠シフトは二百年先まで決まっていて、いまさら変えられないわよ」

「いやいや、落ち着いてくれ美由紀。俺はなにも、眠る順番をだれかと変わってくれなんて言ってない。ただ、さっぱり寝る気にならないってだけで……」


 彼らが、ミーティングルームと呼んでいるフロアでのことだった。

 冷たい壁に全方位を囲まれた、青白い光が照らす部屋。ネーロが存分に飛び回るには少々狭い。それに、あまりばたつくと叱られるので、ネーロはおとなしく飛島海渡の肩に乗っていた。

 飛島は、彼がいつも美由紀と呼ぶ人間となにやらもめているようだった。


「ああ……落ち着くのはあなたよ。どういうわけなの? 皆で決めたじゃない。残された人数だけでここを管理できるよう、交代で眠って千年を待つのだ、って」

「あのとき、俺は反対票を入れた」

「座して全滅を待つ以外、どう考えてもあの計画しかないの。理由はなに? 隠しても無駄、噂になっているんだから!」


 紺色のスーツ姿の凪美由紀は泣きそうな顔をしていた。反論しているのか、ただわめいているだけなのかも判然としない。フロアの隅には他の人員も少しいたが、誰もが聞こえないふりをして、机の上の仕事とにらみ合っていた。


「知らないとでも? あなたが、東塔の水無月十五子に名前を与えたってこと。いいえ。そんな呼び方すら勿体ない。あれはただの、Eの0615のF号でしょう。あれにこだわるなんておかしいわ!」


 ネーロは一瞬だけ寒気をおぼえた。

 飛島が、怒りに我を忘れて、相手が女性といえども掴みかかるのではないかと思ったのだ。しかしそうはならなかった。握りしめた拳を下ろし、大きく息をついたあとで、彼は静かに口を開いた。


「水無月十五子は環境適応者(エボリューション)だ。俺は彼女をこっちに招いて、共に暮らそうと思う」

「な……なんですって? そんな報告はなかったはずよ」

「『見える』ことを親が口止めしていたせいで、分からなかったんだ。近いうちに、正式な審査を受けさせる。環境適応者となら婚姻しても良かったんだよな?」


 言葉を失い、立ち尽くす凪美由紀に、飛島海渡は背を向けた。

 用は済んだとばかりに、自動扉を開閉してフロアを出る。だれも引き留めはしなかった。ミーティングルームから遠ざかるとき、ネーロにだけは聴こえていた。人間よりも鋭い耳で、凪美由紀がひとり、恨めしそうにつぶやく声を。


「飛島くん、どうして、わたしでは駄目だったの」




 人間の雛、いわゆる赤ん坊というのは、小さくて柔らかくて、しばしば大声で泣きわめくのだ。

 ネーロは時々、おっかなびっくりしながら、それに近寄って嘴を寄せてみる。戯れに翼を広げてみると、きゃっきゃっと声を出して笑った。飛島はそのたびに落ち着かない様子を見せていたが、母親の瑠璃は平然としていた。


「お……おい、ネーロ。絶対につつくんじゃねえぞ、洒落にならん……」

「大丈夫。人よりも鳥のほうが、そういうところは賢いかもしれないよ。ほら、子守りが上手みたい。つばさも喜んでるでしょ」

「ふーむ……」


 飛島が疑いを含んだ目線をベビーベッドの上によこしたので、ネーロは顔をあげ、姿勢を正して翼を畳みなおしてみせる。

 とりあえず安心したのだろうか。飛島は、再び小さな作業机の上に目を落とした。そこには、赤いマーカーで縁取られた透明で薄いものがあった。トンボの羽をふた回り大きくしたような形。それを、飛島瑠璃が指でつまみあげる。どうやらごく軽い何からしいが、ネーロの目にもそれの全体像はみえなかった。


「インビジブルの虫の羽。これを透かしてみると、私にもインビジブルの姿がみえなくなるみたい。不思議」

「それは発見だ。研究室に二宮楓っていう博士がいるから、こんど話してみる」

「こんなのが役に立つかな?」

「あの女博士は、インビジブルに興味津々だそうだ。役に立つ立たないは問題じゃない」


 父親と母親が話し込んでいるうちに、赤ん坊がぐずり始めた。

 ネーロはくしゃくしゃになりかけた顔をのぞき込み、頭を振ってみせたが、どうにも効果がない。大声で泣き始めたときに、ついに瑠璃がやってきて抱き上げた。ネーロはふわりと飛び上がり、瑠璃の肩にとまって、赤ん坊の様子を間近で観察する。飛島たちのように細かい発音をせず、単純な音しか出さないのが新鮮で、ずっと聞いていても飽きなかった。


「ネーロ、お前もそっち側か。俺は寂しいよ」


 作業机にひとり残された飛島海渡は、見えない虫の羽をもてあそびながら笑っていた。




 飛島海渡は階段を駆けて登っていた。

 その形相は尋常ではない。妻の瑠璃が産気づいたと知ったときの慌て方とは異なる種類だ。息を切らし、怒り、悲しみ、失望といった負の感情を顔にさらけ出している。ネーロはその爪で、振り落とされないよう肩にしがみついていた。


「畜生……やたらと早く決めやがって! 今夜には、ここを脱出できるはずだったんだ!」


 蜘蛛玉に拾えないような小声も、ネーロの耳には届く。

 飛島は展望室を駆け抜け、狭い階段をのぼり屋上へ出た。すでに日が沈んでいて、冷たい風が塔の上を吹き抜けている。月がやけに明るい夜だった。

 そこには待っている者がいた。紺色のスーツに黒い髪。凪美由紀だ。


「美由紀……! 強引に法案を通したのはあんただな?」

「あら、いけなかった? 環境適応者の遺伝子は貴重なの。あなたひとりに独占させるわけにはいかないわ。だから、皆で『共有できるようにした』のよ」

「その馬鹿げた話を撤回しろ、美由紀!」

「馬鹿げているのはどっち? あなたたちが東塔に『亡命』しようっていう計画はお見通しなの。滅多に発生しないあれを持ち逃げされたんじゃたまらないわ!」


 凪美由紀は、懐から拳銃をとり出して飛島へと向けた。

 ただのカラスであるネーロに、その意味はわからない。怒りを必死でおさえている飛島の震える肩に、ただじっと止まっていた。


「……瑠璃をどこにやった」

「騎士団長の伊吹雄介のところよ。二人のために、いい部屋をとってあげたの。あれはそろそろ、次の子どもを産める頃合いでしょう」

「……ふざける……な!」


 飛島は腰に手をかけ、素早く体をひねる。

 銃声がした。鋭く叫んでネーロが跳び上がる。飛島は身を翻し、振り向きざまに拳銃を突き付けた。いま発砲したばかりの美由紀の銃口もまた、彼の頭をしっかり狙っている。互いに動けない。


「あなたは殺せないでしょう」

「行かせてくれ。俺は瑠璃を返してほしいだけだ」

「愚かね。私は撃てるのよ!」


 美由紀が引き金をひこうとしたときだ。

 空から舞い降りたものがいる。黒い影、ネーロだ。

 飛島の肩にとまろうとして、その翼が二人のあいだに割って入った。視界が覆われた一瞬に、飛島は膝で蹴り上げる。凪美由紀の手から拳銃がはじかれた。小さな悲鳴をあげて彼女はのけぞる。

 すまん、と心で詫びながら、振り向いて駆け出した。下への階段がもう目の前で、そこへ飛び込もうとしたとき、背後から強烈な重さがのしかかってきた。振り向くも、何もみえない。美由紀は倒れたままだ。


――インビジブルか、こんなときに!


 恨み言すら発することができない。姿のない何者かに胸を圧されて苦しい。

 見当をつけて、でたらめに銃を放った。二発、三発。押さえつける力がゆるんだところを立ち上がるが、鞭のような衝撃がきて弾き飛ばされた。グアッと濁った叫びを耳元で聞く。抜けた羽を大量に散らしながら、鳥の影が塔の外壁を越えて落ちた。


「ネーロ! おい嘘だろ――」


 叫ぶ間に、飛島の体は宙に浮きあがっていた。

 きっと刹那の出来事だった。強大な力に振り回されて放り出された。銃は手から離してしまい、上も下もわからない。体が回転して明るい月が見え、目の前にある塔の外壁が上に流れていく。

――落ちる。

 足元には何もない。高層の塔の屋上からでは、人は成すすべもなく落下するのみだ。

 黒い羽根が舞う。瑠璃、つばさ、そしてネーロ。大切なものたちの名を呼びながら、飛島は落ちた。遥か下の暗い樹海に吸い込まれるように、その姿は消えていく。

 あとにはただの静寂が訪れた。

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