4-1 来るべき時
その瞬間は、あまりにも唐突にやってきた。
午後の巡回のときだった。バーディーはいつものように、庭をまわりながら石の管理をしていた。
北塔の一件以降、騎士団に回収されると思われていた長月三十日は、いまだアルバトロスの隠れ家に留まっており、狩りや農作業の手伝いをさせられていた。普段ならバーディーのポニーテールにくっついているカラスのネーロは、彼特有の事情のため留守番をしていた。
隠れ家にきてしばらく経ち、巡回にも慣れたバーディーにとって、この仕事は散歩のようなものだった。万が一、また大型のインビジブルに遭遇したとしても、大怪我をすることなく逃げ延びるくらいの自信は持っていた。
しかし、まさかこんなことが――いや。どこかで、こんなことがあるのではと覚悟していたようにも思えた。
「やほー、お久しぶり。アルバトロスんちの小鳥ちゃん」
外縁の魚の列を乱しながらやってきた一台のジープが止まった。運転席の窓だけが開き、やけに明るい声をかけてきたのは、二宮楓だ。きょうも水色の髪をふわふわ揺らしている。これが、中央塔所属の科学者だなどとは、一見しただけではとてもわからない。
バーディーはいやな予感がしていながら訊ねた。
「楓さん。取り立てに来たんですか? でも、期日はまだ先でしたよね?」
「それがねえ、今日は別の用事なんだよね。小鳥ちゃん、ちょっとわたしとドライブしよ?」
「ドラ……イブ? ですか?」
「えっと、車に乗ってするデートみたいな……ああ、ちょっと違うか。女同士とかでもするしね。ま、とにかく乗って!」
楓は助手席の扉を開け放った。その目は笑っていない。
ついにこのときが来た。
直感がする。おそらく、楓は自分を中央塔へ引き渡すつもりだ。楓のジープから逃れるには、木立の間を駆け抜ければ可能かもしれない。しかし、隠れ家まで知られているのに、それをしてどうなるだろう。これ以上、自分ひとりの我儘が通るとも思っていなかった。
覚悟を決めたバーディーは神妙な面持ちで聞く。
「これから、伊吹さんって人のところに行くんですか」
「うん」
「楓さん、あたし逃げません。最後にアルバトロスと三十日……どちらかだけでもいいです。お礼を言わせてくれませんか」
「ごめんね小鳥ちゃん。それはできない」
少し悲し気な目をして楓はうつむく。今までは、自分とそれほど歳が変わらないのではと思うほど無邪気だったのに、急に大人びたようだった。拳銃をとり出し、ちらりと見せてからまた腰のホルダーに格納した。
「わたし、小鳥ちゃんをこれで脅したくない。もしもアルバトロスに知られたら、あいつ自分のことなんか関係なく向かってくるでしょ。あいつに大怪我でもさせて、借金の取り立てができなくなったら困るし」
「……わかりました。でも、ずいぶん突然だったから……」
バーディーはステップに足をかけ、楓のジープに乗り込んだ。
扉を閉めると、外界から急に遮断された気がした。ゆっくりと発進した四輪駆動車は木の根を踏み越え、魚の列を崩しながら進む。アルバトロスの庭から離れていく。
バーディーは思う。いままで、いやなことから逃げてきた。自由に生きたいと思った。たまたま、それを皆が許してくれ、後押しをしてくれた。自分は幸せだった、もう充分なのだと。
また、塔に戻る。もとの暮らしに戻るだけの話だ。
「……わたし、女の子に泣かれたの初めてかもしんない。男ってこんな気持ちなのかな?」
前方を見てハンドルを握ったままの楓がひとりでつぶやいた。
バーディーはいつのまにか涙を流していた。何が悲しいのか、自分でもわからない。思えば、初めて東塔を飛び出した夜もこうして泣いた。みっともない話だと思う。多くの下級民は、自然のままの地面に足をつけることすら叶わないというのに。
「……楓さん、あたし……。わかってたんです、いつかこうなるって。でも……」
「伊吹のヤツが、あんたの顔見たいんだって。いい歳の男がさ、わざわざ呼びつけてそれだけ、って話はないだろうってわたしは思う」
「……うん……」
「そう悪いやつじゃないよ、伊吹は。中央のほかの男よりはずいぶんマシ」
森を抜け、砂利混じりの荒れ地に入る。アルバトロスの隠れ家からはずいぶん離れてしまった。結局、騒ぎを起こして事態を引き延ばしただけで、運命は逆戻りだ。中央塔と、その周辺構造物が見えてきたころになっても、バーディーはまだ赤い目をこすっていた。ハンカチを渡しながら楓は言う。
「わたしもさ、初めて男の車に乗ったときは散々泣いたよ。こんな思いするくらいなら、黙って研究だけしとけば良かったって後悔してさ。……んで、それ以来、好きなことだけで生きようと思った。結果も出した。あんたはそれすらも選べないんだね」
陽は沈みかけ、塔は切り絵のような黒い影になっている。バーディーの涙が乾かないまま、車は中央塔の搬入口へと吸いこまれていった。最後に扉を開ける前、楓は小声で呟いた。
「……ごめんね。多分わたしのせいなんだ。全部わたしのせい」
見たこともないような、何と形容したらいいかも分からない部屋だった。
強いて言うなら、ふかふかだ。床の敷物――絨毯というものだが――は毛足が長くて暖かく、革張りの長椅子もずいぶん柔らかい。壁にはきれいな紙が貼られている。透明なテーブルや、色彩が美しい絵画、作られた花が飾ってある。こんなに鮮やかで豪華のものは初めて目にした。
そしてバーディーは、楓に渡された長いドレスを身に着けている。
結婚式につけたものよりは地味だったが、これも、下級民は誰も持っていないような高級品だ。こんなものを着ていると居心地が悪くて仕方ない。まるで自分が自分ではないようだ。髪にはスプレーをふりかけられ、黒い髪は明るい茶色に変わっていた。
それに、この落ち着かない部屋。現実感がまるでない。
楓は言った。伊吹はおそらく、遅い時間にやってくるだろうと。それまでの退屈しのぎに、映像データでも書籍でも、好きなものを閲覧して良いと。
じっと黙っていても、不安ばかりが募って仕方ない。
バーディーは記録再生システムを操作し、見慣れているオールド・アース時代の自然映像を選ぶと、壁のモニターへ映し出した。
これを見ている間だけは、現実を忘れられる。はるか遠い世界に生きた鳥たち、獣たち、魚や虫たち。澄んだ青の中を泳ぐイルカの群れや、長い空の旅をする鳥たちの姿を見るのが、子どもの頃から好きだった。彼らは失われた存在ではなく、いまも地上で生きている。
昔はそれが不思議だった。しかし、バーディーはいつまでも幼い子供ではない。知らないことは勉強をした。
ここは、ニュー・オールドアース。二つの世界は、時代が違うだけで同じものだ。
「……きみは、そういう映像が好きなのか、神無月十子。平面アニメーション映画のほうが、まだ楽しめると思うが」
扉が開き、一人の男が部屋に入ってきて声をかけた。
バーディーはヘッドホンをつけたまま、気づかないふりをしていた。これから何が起こるというのか、まったく想像できないほど幼くもない。一度逃げたことを謝るつもりはないし、媚びた笑顔で出迎えるというのも妙だ。
いや、嘘でもいいから泣きながら詫びるというのが賢いのかもしれない。それも分かってはいたが。
「ああ……名前が違うのか。こう呼んだなら返事をしてもらえるだろうか、バーディー。本当の髪色は黒だと二宮楓から聞いている」
やや俯いたバーディーの目の前に現れた男。
おずおずと顔を上げてみる。三十路過ぎの騎士団長だと聞いて想像していたよりは、洗練されて若々しい。清潔感のある短い髪はやや茶色がかっていて、切れ長の目は知的な印象さえ受ける。確かに、長月三十日が悪くないと言うほどのことはあった。その名は聞かずとも予想できた。
「騎士団の伊吹という者だ。俺が寝ている間に、誰かが勝手にきみを許嫁にしてくれたようだな。無礼かと考えたが、お互い顔くらい見知っておいてもいいだろう、とな」
「…………」
「なんというか……きみは、想像通りだな。俺の肩書きがあれば、もう少し媚びるなりされると思ったんだが。どうやら俺の自惚れだったらしい」
「……あの、あたしは……!」
もしかしたら、話が通じる男なのかもしれない。
どうせ籠の鳥となるなら、最悪の中の最善を模索するべきだ。いつまでも泣いているわけにはいかない。バーディーは思いを口に出してみる。
「あたしは、困ってるんです! いきなりお嫁さんになれとか言われて。どうして、目のほかに何も取り柄のないあたしなんですか? 目がそんなに大事っていうなら、あたしは騎士団に入りたいです! 開拓のために一生懸命働くならいいでしょう? お給金が少なくても、鍛錬が厳しくても我慢します。だから……」
「――女性蔑視。立派な人権侵害だ。そして職権濫用、未成年者略取」
「え、……え?」
ふう、と、大きなため息をついて、伊吹という男はソファーに座り込んだ。背もたれに体を預け、気怠そうに天井を見上げながら、うんざりした様子で言った。
「オールド・アースの価値観だ。俺がきみを強引に娶ったとしたら、そういう不名誉で不道徳なことになる。どうやら、俺たちはこの世界で色々勝手をしているうちに、もとの感覚が薄れてしまったらしくてな」
「…………」
「もはや、どちらが良かったなどと言うべきではないな。きみがいま閲覧していた映像は、オールド・アースの日本の風景だ。その白いやつらはハクチョウという鳥で、飛行が可能なうちでは最大の鳥類といわれる。春と秋には長い渡りをするんだ、懐かしい」
バーディーに語り掛けているようで、届かないほどの遠くを見ているようでもあった。
そういえば、先ほど車中で二宮楓も似たような表情をしていた。もしも、伊吹の言葉をそのまま受け取るとしたら――バーディーの中である推論が形を成す。
「伊吹さんは、オールドアースの時代を知っているんですか」
「俺も二宮楓も、勿論あの阿呆鳥も、みなオールドアースから来た者だ。冷凍庫と電子レンジを往復しながら、このとおり無様にも生き永らえている」
「中央塔の人たちが不老不死だなんて嘘なんですね?」
「少なくとも俺は嘘を言った憶えがない。どこかで誰かが、いい加減な説明をしたおかげで、デマが広がったんだろうな。……もっとも、あの阿呆鳥の不老不死というのだけは本当らしいが」
「伊吹さん、アルバトロスを知ってるんですよね? 前は騎士団の人だったんですか?」
「……あきれたな。奴は過去のことを全く話していないのか」
深く腰掛けたソファーからおもむろに立ち上がると、伊吹雄介は、バーディーについてくるよう促した。やけに裾がひらひらしたドレスが気恥ずかしいが、どうも、この男性は不埒なことを考えているようには見えない。
バーディーは意を決して立ち上がると、伊吹のあとについて部屋を出た。