1-2 番号の無い少女(1)
スリングショットの、Y字型の軸の部分をしっかりと持つ。
ゴム紐に小さなつぶてを挟み、思い切り引き絞る。狙いを定めて離す。つぶては勢いよく飛んでいき、コウモリの絵が描かれたパネルを倒した。
黒髪の少女は顔をほころばせた。一方、隣の赤毛の少年はがっくりと肩を落とす。
「やった! 四連続命中」
「げげっ、マジかよぉ」
「フルーツゼリーは、あたしがもらったも同然ね! 約束したよね」
「ま、まだこれからだろ! つぎはおれの番だし!」
少年は、自分のスリングを取り出して的に向かい構えた。
彼の名は長月三十日。その名の示すとおり、九月三十日の生まれである。鮮やかな赤い髪の毛と、やや吊り上がった猫のような目のおかげで生意気そうに見える。
長月三十日がつぶてを飛ばす。しかし、弾は的から逸れてしまった。先攻の三十日が五回目を外したので、次に少女が的を射とめれば勝ちが決まる。
少女はスリングを構えた。狙うのは、いちばん的の小さいトカゲである。
「――え? それ撃つの? もっと大きい標的も残ってるのに……」
「うるさいっ」
少女は狙いを定め、弾を放った。トカゲは勢いよく後ろへ吹っ飛んだ。
勝負はついた。得意気に微笑む少女に対し、三十日はうんざりした様子だ。二人はスリングの練習場を片付けると、次の目的地へ向かうため、コンクリートのフロアを歩きだした。
「あーあ、相変わらず嫌味な奴。わざと、小さい的を狙いやがったろ」
「そういうんじゃないもん。練習のためだもん」
「どうだかね」
「何よ。三十日こそ、棒術の練習のときは手加減するじゃない。自分が得意だからって」
「ふ、ふん。いまその話は関係ないね」
長月三十日は、とにかく一種目でも女の子に負けるというのが我慢ならないようだ。
ふたりは年齢が同じで、さらに「特別な目」を持っていた。大人たちから将来を期待されるうちに、二人は自然と、お互いを意識し合うライバルになっていた。
棒術では自分が優位であることを思い出し、満更ではないとにやついている三十日を見て、少女はおかしくてたまらなかった。この少年、揺さぶりにもおだてにも弱い。つまり、単純なのだ。
毛先の跳ね返った黒髪を揺らしながら、少女はご機嫌に階段を昇り、上を目指した。
さて、この少女には名前がない。
厳密に言うならば、この東塔で暮らすおよそ三百人の住民全員には、名前がない。あるのは、生まれた月日を記し個人を識別する番号だけ。それを便宜上、名前のように使っているのだ。本人にも親にも命名権はなく、それを破ることは、強大な権力を持つ中央塔に対する反抗とみなされる。
この、スリングショットの小さな名人である少女は、赤ん坊のときに、東塔の中で置き去りにされていたという。出生日はもちろん、本当の両親も不明である。
運良く引き取り手が決まったものの、この子に対する命名権は、東塔の誰にもなかった。
困った当時の塔長が、中央塔へ事情を説明しお伺いを立てたのだが、返事がこれまた素っ気ない。――そんな、誰の子とも知れない赤ん坊の番号なんて知ったことか。「ナンバーレス」とでも登録しておけ、と。
ついでに、塔の風紀が乱れているのではないか、今後ナンバーレスその二や、同その三が発生したら酒の配給もやめ、取り締まりを強めるぞ、などと脅されたものだから、やぶへびを恐れた塔長は、それきり黙ってしまった。色々とうやむやのまま、赤ん坊の名は「ナンバーレス」となった。
やがて赤ん坊は成長し、十二歳の元気な少女になっていた。
階段を一気に五階ぶん駆け上がり、少年少女は息を切らしながら、ある一つの部屋へ飛び込んでいった。そこは学校区画であり、教師たちが残務処理をするための作業室となっていた。
「皐月せんせーい! スリング終わりました!」
「おやつ下さい! ふたり分!」
机の上で、生徒たちの答案の採点をしていた皐月五郎は、鼻にかかっていた眼鏡をくいっと上げ、赤鉛筆を置いて立ち上がった。
「おお、三十日とナンバーレスか。毎日よく頑張ってるな」
「とーぜん! おれ、未来のスナイパーだから」
「違うって。スナイパーはあたし。三十日は棒っきれで殴る係でしょ」
「それ、なんか馬鹿っぽいんっすけど」
皐月五郎は、少年少女の元気そうな様子に頬を緩めた。こんなコンクリートの塔に閉じ込められたままの人生であっても、子供たちの笑顔は希望を与えてくれる。
五郎は、冷蔵庫から小さな丸い器をふたつ取り出した。中身は白いぷるぷるした菓子である。それを見て、少女の顔が曇る。
「先生、これ何?」
「今日はフルーツゼリーじゃないよ。乳酸菌のムースさ」
「えー、あの酸っぱいやつ? あたし苦手。三十日にあげる」
「食べなさい。健康にいいんだよ」
酸味に顔をしかめながらムースを食べる少年と少女に、皐月五郎は封筒をひとつずつ差し出した。表にはそれぞれの保護者の名前が記されている。
不思議そうな顔をしている少年たちに、五郎は優しく言った。
「これ、おうちの方へお手紙だよ」
「何? 読んでもいい?」
長月三十日が律儀にもそう訊ねている間に、ナンバーレスの少女は封筒の中から一枚の紙を取り出していた。それを見た三十日は抗議の声をあげたが、少女のほうはお構いなしであった。
「んーと? ……中央塔の能力なんとか担当者が……? 先生、これ何のこと?」
「あーあ、仕方ないなあ」
皐月五郎はため息をつき、壁のほうをちらりと見た。
銀色にぎらぎらと光る球体が貼りついている。蜘蛛玉だ。
それらは、こちらの言動を常に監視しており、中央塔に対して反抗的な態度を察知した場合は、にょきっと脚を生やして威嚇しにやってくる。それでもなお逆らった者がどうなるのか、少なくとも皐月五郎は知らないし、知り合いにもわかる者はいなかった。
この近くにある蜘蛛玉は、三体とも青いランプを点灯させている。
――まあ、あれらが警戒態勢にならないうちは、話しても構うまい。皐月五郎はそう判断し、口を開いた。
「どうせすぐにわかることだから、君たちには教えてあげてもいい。でも、他の子たちには内緒だ。それでも聞くかい?」
子供たちは、うんうんと頭を縦に振った。
「きみたち、さっきもスリングの練習をしてきたよね。そのほかに、棒術の訓練もしている。これは一体、なんのためだと思う?」
「はい先生! 塔の外の世界にいる『インビジブル』をやっつけるためです」
ナンバーレスの少女は、即座にそう答えたが、長月三十日が口を挟んだ。
「……ちがうよナンバーレス。おれたちの役目は、あくまでも『見る』ことだよ。スリングと棒術は、ただの護身術。『インビジブル』をやっつけるのは、中央塔の開拓騎士団、でしょ?」
「――へえ。これについては、三十日のほうが勉強しているようだね」
長月三十日は誇らしげに胸を張る。少女はつまらなそうに口を尖らせた。
――『インビジブル』のことなら、図書館ですこしは調べたのに。
それは、ふつうの人には見えない、この世界の厄介者たちだ。正式には不可視生命体群という。
はるか昔のこと、人間たちは「最初の地球」で暮らし、繁栄を極めていた。
しかし、最初の地球の時間は永遠ではなかった。やがて、居住環境的な意味での寿命を迎えようというときになり、人間は前人未到の旅をした。その末に、現在の世界へたどり着いたという。
無人の荒野を開拓しようとしたときである。相次いで「見えない猛獣」の襲撃を受け、甚大な被害が発生した。得体の知れないものに恐怖した人々は、やたらとあちこちに出向くのをやめ、巨大で頑丈な「塔」の中で暮らすことにした。
しかし、やられっぱなしでもいられない。
人々はある時、噴霧器や高圧洗浄機などを持ち寄って、そこらじゅうに塗料をまき散らしてみた。見えないものを見えるようにするためだ。
そうしたら、蟻のように小さいものから、象のように大きなものまで、実に多種多様の見えないものが生息していることが判明した。
塗装調査作戦はいちおう成功した。しかし現実には、朝から晩まで一年中、ペンキを撒きながら暮らすわけにもいかない。結局、インビジブルは熊や狼よりも余程おそろしい存在となり、人は塔の中でしか暮らせなくなってしまったのだ。
「――君たちには、インビジブルを見るための特別な目が備わっている。だから、開拓騎士団の人たちがインビジブルを退治するときに、助けてあげなくてはいけない。――そうなったときには、君たちも騎士団の一員と言えるだろうね」
少年少女は、互いに顔を見合わせた。そして次には、興奮に頬を紅潮させ、教師を質問責めにした。
「せ、先生! あたしたち、将来は開拓騎士団に入るの?」
「――ってことは、中央塔に行けるってこと? それっていつ? 超エリートじゃん!」
騒ぐ子供たちを、皐月五郎は穏やかな笑顔でなだめ、落ち着かせた。そして、さきほどの封筒を指さして言った。
「と、いうわけで。――きみたちが騎士候補生になれるかどうか、中央塔のえらーいお方が、視察に来られるんだ。手紙は、このことを保護者の方に説明したものだよ。滅多にないチャンスだから、体調と準備を整えてくるようにね」
封筒をひとつずつ握りしめ、少年と少女は、住居区画へ向かうため階段を降りていた。ふたりとも、期待と興奮で胸がいっぱいだ。話題は尽きることがない。
「凄いぞ! おれたち、騎士団に入れるかもしれないぜ! ナンバーレスはどうする? もしもさ、偉い人が、いますぐにでも中央塔に来てくれって言ったらさ」
「そんなことってあるかなあ? まだ考えられない!」
「おれは迷わず行くね。んでもってまっ先に、自分の名前をカッコいい名前にする。――あ、そうだよナンバーレス! おまえこそ、ちゃんとした名前ほしいんじゃないのか?」
「そっか、名前かぁ!」
踊り場の隅っこにうずくまっていた蜘蛛玉が、黄色い光をちかちかと灯した。
三十日はそれに気づくと、何事もなかったように話題を変えた。ナンバーレスの少女も、蜘蛛玉を見ないふりをして通り過ぎた。この監視役どもは、なぜか名前のことになると神経質である。それの何が、中央塔への反逆だというのだろうか。
「――騎士団に入ったらさ、このへんからインビジブルを全部追い出してやろうぜ。奴らがビビって、二度と戻ってこないくらい、こてんぱんに懲らしめてやるんだ」
長月三十日は右の拳を握りしめた。
ふたりは次の蜘蛛玉の前に差し掛かったが、それは青い光をともしている。危険は過ぎ去ったようだ。ほっと胸を撫で下ろし、少女は答えた。
「それからどうするの?」
「決まってるじゃん! みんなで、塔の外に降りて暮らすんだ!」
「そういうのって、もっとずーっと未来の話じゃないの? ずーっと……そうね、たとえば百年後とか」
「きっと、意外とすぐだぞ。地上に降りたらきっと、農業も工業も、すっげえ発達するんだ! まるで、最初の地球の頃みたいにさ」
少年と少女は、お互いの居住区へ到着するまでの間、将来の夢について話し、外の世界に思いを馳せた。
このコンクリートの塔から解き放たれたなら。
空を見上げ、土を踏みしめ、風に吹かれながら暮らすのは、どんな感じだろうか。塔の中で目にするものは人工物ばかりで、ほとんどの区画では窓さえもない。
今まで、彼らが外の世界に触れる機会は、滅多に訪れることがなかったのだ。