3-2 侵入したもの
「何とか助けてあげられないの!? ――そうだ、インビジブルは? クイーンは、ネーロみたいにはなれない?」
ネーロは最初、バーディーは何を言っているのだろうと思った。
彼女の言わんとしていることは、クイーンをインビジブルの共生体にして延命してやれないのか、ということだった。かつて、重傷を負って死にかけていたネーロが救われたように。
しかし、それは難しいとネーロには思われた。
「――インビジブルは既に、僕という代弁者を獲得しているし、それ以前にクイーンが拒否すると思う。モズは誇り高い一族なんだ。とくに彼女は独身だろうし、他の種族に情けをかけてもらってまで生きようだなんて……」
彼女にとってみれば生き恥をさらすことにしかならないだろう。ネーロはそう思いつつも、自らと共生しているインビジブルに問いかけてみる。すると、思いがけない答えが戻ってきた。
「――なんてこった! 彼女、未婚だけど『ヘルパー』だったんだ」
「『ヘルパー』? ……どういうこと?」
「いま説明する。クイーンはインビジブルを受容するって。いま死ぬわけにはいかないんだって」
ものの数分で終わるはず、というネーロの言葉に従い、バーディーは地に倒れたクイーンをそばで見守っていた。どういうわけか、散らばった羽もなるべくかき集めてほしいというので、そのとおりにした。ネーロも嘴に羽毛をたくさん集めて、クイーンの近くに持ってきた。
折られて広がったままの、血に染まった片翼が痛々しい。それまで、なんとか飛び立とうともがいていたクイーンは、急に静かになり、力なく目を閉じてしまった。
もしかしたら、このまま息絶えてしまうのかと思われたときだ。
クイーンの小さな体の周りに、輝く粒子が集まってくる。抜け落ちた羽はぼうっと光りだし、細かく砕けた。それらは一か所に集まり、瀕死の小鳥をすっかり包み込んだ。
「大丈夫だ。きっと、彼女は助かるよ」
ネーロはクイーンを見守りながら、インビジブルを通して聞いた、その雌のモズの身の上を話し始めた。
「彼女、この早春に産まれたばかりの若鳥だったんだ。無事に巣立ちを迎えて、一人でなんとか狩りができるようになったところで、弟たちが産まれた。そこまでは良かった。
急に母親が死んじゃったんだ。
彼女の父ちゃんは巣を守らなくちゃいけないから、ろくに狩りにも出られなくなった。このままだと、父親が巣を丸ごと見捨てて失踪しかねない。彼女は家族を助けるため、母ちゃんに代わって必死に狩りをしていたんだ」
つまり、クイーンがこの畑に毎日来ていたのは、自分の食糧を採るためだけではなかった。弟たちの食い扶持を稼ぐためだったのだ。それが途絶えれば、父親は弟たちを見放すだろう。
残酷なようだが、自然界とはそういうものだ。
「だから、いまは死ねないって思っているんだね」
クイーンには、素知らぬ顔をして自由に生きる道もあったはずだ。
今年産まれたばかりで、人間に例えればまだ少女。狩りも覚えたばかりだろう。
瀕死の大けがをしてしまったのも、もしかしたら、少しでも多くの食糧を確保するための、無謀な狩りに及んだ隙を突かれたのかもしれない。
「そんなふうに、子育ての手伝いをする若鳥を、ヘルパーっていうんだ。モズにもヘルパーがいるなんて、僕も知らなかったけど。インビジブルは、そんな彼女たちの生態に興味があるみたい」
ネーロの話を聞きながら、バーディーは心配そうにクイーンの様子を見つめていた。
いつのまにか、抜け落ちたはずの羽毛はひとつもなくなっていた。クイーンを包む光は輝きを失っていき、代わりに、本来のクイーンの姿がはっきりと見えてきている。折れた翼は元通りになり、いつものようにきれいに折りたたまれていた。
突然、クイーンは弾かれたように起き上がった。
バーディーとネーロが声をかける間もなく、彼女は地面を蹴って飛び立った。そして、一瞥もせずに森の中へと飛び去り、消えてしまった。
呆気にとられていると、キィー、キリキリキリ、という甲高い声が響いてきた。
「クイーンの声だ! きっと、お礼のつもりなんだよ」
ネーロはそう言うと、ガア、ガア、と鳴き返した。嬉しそうに、首を上下に振っていた。
バーディーは胸を撫で下ろした。クイーンが飛び込んだあたりの茂みをしばらく見ていたが、さっきの今である。姿を現す気にはならないのかもしれない。
水を補給しようと、いつものように井戸へ向かった。ポンプを押しながらバーディーは考えた。
クイーンの身の上を知った今では、彼女が助かって本当に良かったと思う。しかし、自分はイタチを撃ってその獲物を取り上げてしまったばかりか、もしかしたら怪我をさせてしまったかもしれないのだ。
自分が――人間が、感情的に自然界に介入し、その理を変えてしまう。
クイーンはお礼をくれたけれども、良いことをしたなんて、思わないほうがいいのかもしれない。バーディーはそう自分に言い聞かせた。
袋の中を見ると、小石はまだ半分も残っている。周回しながら、これを全て置いてまわらなくてはいけないのだ。
とにかく今は、自分を助けてくれたアルバトロスの力になることが大事だ。結晶を育てれば、黒いインビジブルに対抗する力にもなるし、楓からの借りを返すことにもなるのだから。
まだまだ、勉強しなくてはならなかった。この庭のことも、世界のことも。
「ねえねえ、水くみ終わり? ここに残った水で水浴びしてもいい?」
バーディーの返事を待たずに、ネーロは窪みに溜まった水の中に飛び込むと、豪快に羽を震わせた。
飛び散る水しぶきがバーディーにも及ぶ。文句を言いかけたが、ネーロがやたら陽気なのに気がついた。もしかしたら、沈んだ気持ちを察し、励ましているつもりなのかもしれないと思った。
休憩は終わりだ。すっかり湿ったお喋りカラスを頭に乗せて、バーディーは再び歩き始めた。
≪騎士団へ緊急連絡。非常事態発生につき、至急最下層まで集合のこと。昇降機制御パスワードは……≫
それは明け方近く、北塔の騎士団員専用の寝所でのこと。
まどろみの中、けたたましい警報音が聞こえる。次に、壁の蜘蛛玉が連絡事項を伝えた。
長月三十日は飛び起きると、装備一式を身に着け、先輩の如月という男とともに部屋を出た。ほとんどの住民は寝静まっており、誰に会うということもなかったが、念のため走ったり騒いだりしないように気をつけた。
「きっとまた『あれ』だ。一般住人に感づかれたらまずいんだとよ」
「その間に、被害が出なければ良いですが」
如月と長月三十日は、小声で話しながら、なるべく速足で歩いた。昇降機を操作して、指示どおりの最下層へたどり着いた。
そこには既に、小隊長である睦月十四郎が待っていた。
「蜘蛛の網に、インビジブルがかかった。第三階層以上は、非常扉で隔離した。これより巡回、インビジブルの掃討を開始する」
やっぱりな、という表情で、如月は三十日に目くばせをした。そして、それに続いた睦月隊長の言葉も、やはり予想通りであった。
「インビジブルの侵入経路は不明。塔の外壁および窓には損傷なし。不審な侵入者なし。標的の殲滅をもって任務終了とする。――作戦開始!」
――またか。完全に封鎖されているはずの塔の中に、インビジブルが出現するなんて。
長月三十日は頭の片隅に疑問を抱えたまま、用心して通路を進んだ。
行く先のところどころで、蜘蛛玉が色付きの霧を吹いている。常に噴霧しているわけにもいかないが、緊急時となれば惜しんでもいられない。そのせいで、廊下の一か所がオレンジ色に染まっていた。
最下層は、その大部分が車両などの格納庫だった。数日前に中央塔から物資を運んできたトラックもその中にある。三人は念入りに調べたが、とくに変わりはなかった。
階段を使い、二階へ昇った。
通路に、何かの足跡らしきものがある。しかし、熊やオオカミのようなはっきりした足跡ではない。長いものが這ったような、引きずったような跡だ。
薄暗い通路を歩いていると、時々、足にもやもやしたものが引っかかる。蜘蛛玉が警戒のために張り巡らした網だ。インビジブルは、これにかかり感知されたのだ。
「俺が行きます」
「気をつけろ、長月」
長月三十日が率先して前に出る。それを気遣うのは睦月隊長だ。
女子供では扱えないような、強力なゴム製バンドのついた特製のスリングショットと、伸縮性の護身棒を携えている。相手がどこから飛び出してくるのか分からないのは怖いが、『目』があるというお陰で、厳重に守られているのは御免だった。
後ろについた如月に、睦月隊長が声をかける。
「――分かっているな、如月」
「ご心配なく! 例えこの身が噛み千切られようが、『環境適応者』様だけはお守り致しますんで」
そう答えながら、如月は虚無的な笑みを浮かべた。
「いや、如月。お前も気を付けろ。見えないんだから特にだ」
さも当然のことのように、睦月隊長はさらりと言った。
へえー、と、如月は心の中で感嘆していた。いままで、こんな上官に出会ったことはなかった。『目』を持たない騎士など掃いて捨てるほどいるのだと、どこに行っても粗雑な扱いを受けていたのだから。
長月三十日は、長く伸びた通路に目を凝らしていた。『視力』を発揮するため、既に照明は暗めに落とされている。
先のほうで、なにか鈍く光るものがゆっくりと動いて、視界から消えていった。
「――いました。向こうの角を曲がったようです。地を這うものです」
「よし……長月はマーキングを頼む。撃ったらすぐに退くんだぞ」
「はい」
三人は、長月三十日を先頭にして、慎重に通路を進んだ。三十日が発見したものの他にも、インビジブルが潜んでいないとは限らない。フロアの入り口に差し掛かるたびに、横からの襲撃に怯えなくてはならなかった。
ついに曲がり角の手前までやってきたとき、如月が声をかけてきた。
「長月、マーキングをしたら本当にすぐに引っ込め。あとは俺がやる」
「……はい」
長月三十日は最初のうち、そういう如月の態度が、手柄を自分のものにしたいがためだと思っていた。しかし、実際は違うのかもしれない。話してみると根はいい男で、後輩の面倒見もよかった。
長月三十日はマーキング弾を構えた。
思い切って一歩を踏み込み、角の向こうへ踊り出る。
――いた!
それは黒く長い体をもった巨大なヘビだった。
胴回りは、人間の大人とおなじくらいありそうだ。体長は十数メートルはあるか。その体は、床と壁、天井にまでぐるりと螺旋を描くように貼りついており、頭はこちら側を向いて、まさに鎌首をもたげているところだった。
「前方十メートル先!」
言うと同時に、マーキング弾を発射した。
弾は頭部に命中したが、それは着色用の弾で、殺傷力はほとんどない。激昂した黒ヘビはこちらへ向かってきた。
巨体にしては驚くほど速い。長月三十日は身をかがめて後ろへ飛びすさった。
「マーキング確認、撃ちます!」
如月が機関銃を構え、浮かび上がる目印に向かい弾を連射した。
射撃は大蛇の頭部に集中している。
色がついて見えるようになったのが、顔面と胴体のごく一部であるから当然だ。ふつうのヘビならば絶命しているところだが、その怪物は悶えながらも、さらに口を開けてこちらへ向かってこようとしていた。
「敵の損害は軽微、危険です、如月さん!」
「――るっせえ、当たってんだろが!」
如月は一歩も退こうとしない。
長月三十日は、睦月隊長が携行していた高圧噴射器を半ば強引に奪い取ると、制止されるのも聞かず、如月の隣についた。そして、出られるぎりぎりまで踏み込み、前方へ思い切り噴射した。
「あぶねえ長月、何を――」
着色用の霧が通路に充満した。
天井のセンサーが微粒子成分を感知し、換気用の高速ファンが唸る。
視界は一瞬で晴れた。そのとき、睦月隊長と如月は、はっきりと見た。全身が黄色に塗りつぶされた大蛇の姿が、薄暗い照明の下にくっきりと浮かび上がっていたのだ。
「――でけえ」
「後退! 赤ラインまで下がれ、早く!」
睦月隊長の号令で、如月は我に返った。三人は後ろを見ずに全力で駆けた。
床に一直線に引かれた赤線を踏み越えたところで、長月三十日が振り返った。角を曲がってきた大蛇が、もうそこまで迫っている。何を思ったか、睦月隊長は赤線の上で立ち止まり、蛇に向かい拳銃を発砲した。
「隊長! 早くこちらへ――」
「いや、引きつける気なんだろ!」
蛇の長い体がすっかり角を抜けたとき、隊長はようやく、壁の緊急用ボタンを押下した。
重い音が響き、廊下を分断するように鋼鉄の壁が降りてきた。隊長は、素早い身のこなしでその下をくぐり抜け、ようやく三十日たちの近くへやってきた。
「手投げ弾を使う! 二人とも離れろ!」
三十日と如月はさらに後方へと退避する。
睦月十四郎は手榴弾のピンを引き抜いた。閉じかかったシャッターの下のわずかなすき間から、滑り込ませるように投げ込む。そして、自分も身を翻して後方へ駆けた。
鉄の壁が閉じる。それと同時に重い衝撃音が響き、足元が揺れた。
あとには、完全な静寂が訪れた。
「――あの手投げ弾は、二宮博士から特別に支給された、正真正銘の奥の手だ。しかし、まさか使うことになるとは」
全員の無事を確認しながら、睦月隊長は言った。
隊長は、騎士としては小柄な男だ。すでに中年になっているにもかかわらず、優れた判断力と身のこなしをみせたはかりだったが、その顔には疲れの色が見えていた。
無理もない。北塔では、この種の騒動が頻発していたのだから。
「仕留めたんでしょうか?」
廊下を隔てた壁を眺めながら、長月三十日は言った。あれから、向こう側では物音ひとつしない。
「わからない。あの手投げ弾を使うほどの化け物が出るとは、まったく想定されていなかったんだ。――いずれにしろ、我々にはこれ以上どうしようもない。あとは、中央塔からの指示待ち待機だ」
睦月隊長はそう言うと、なにやら左腕の小型端末を操作し始めた。
ここまでやったのに、敵がどうなったか見届けることもできないのか。少々の不満を抱えつつ、長月三十日は如月と顔を見合わせていた。
しかし、やむを得ないのである。シャッターの中に監視用の蜘蛛玉は一匹もいないし、その蓋を開けずして中の様子を確認する手段がないのだ。
まもなく、折り返しの音声通話着信があり、隊長はことの顛末を説明した。傍らでは、気の抜けたように立ち尽くす如月と長月三十日の姿。
通話を終えると睦月隊長は言った。
「二人とも、そのまま待機だ。まもなく伊吹団長が来られる。――失礼のないようにな」