2-7 二宮楓
仕事も半ばで、急いで戻ってきたバーディーとネーロだったが、隠れ家の前では異変が発生していた。
『自動車』が停まっているのだ。
バーディーにとって、その実物を目の当たりにしたのは初めてだったかもしれないが、名前は知っていた。かつての世界では、誰もが当然のように所有し、足代わりに乗り回していたという代物である。
ついでに言うならば、それは悪路をものともしないジープ型の四輪駆動車だ。かつて、アルバトロスが作業用ロボットを持ち込んだこともあるというのだから、その車両がここまでたどり着けたとしても不思議ではない。
その物体を目にして、ネーロが何かを察知したように言った。
「まずい奴が来てる! お嬢、森に隠れ――」
「はい、ネーロちゃん見っけ!」
時すでに遅し。車の陰から、ひとりの女性が現れた。
その出で立ちから、中央塔の人間であるとわかる。大きな襟のついたラベンダー色のブラウスに、膝の上でふわりと広がったスカート。顎のラインで切りそろえた髪は淡い水色だ。バーディーはこんな髪色の人間を、いままでに見たことがなかった。
その女性は、無邪気な笑みを浮かべたまま駆け寄ってきた。体型は華奢で、バーディーとおなじくらいの少女のようにも見えるし、ずっと年上かもしれなかった。
「やば、見つかっちゃったよ!」
「まずいの?」
ネーロの焦りようを見て、森の中へ取って返そうとしたバーディーだったが、その女性の動きをみて立ち止まった。
「アウトぉ! 動くと撃っちゃうかもよ!」
彼女は『拳銃』をこちらに向けていた。特別に訓練を受けていたバーディーには、それがどれほどの射程と殺傷力を持つのかわかっていた。
降伏と無抵抗を示すには両手を挙げるべきなのだが、そこまでの知識はない。
とにかく、バーディーは逃げるのをやめた。もしかしたら、自分に差し向けられた追手なのかもしれないし、降伏すれば命まではとられないかもしれないと思った。
「――あらら? 噂の『環境適応者』かな? こりゃラッキーかも!」
銃口を向けたまま、フリルスカートの女性はにやりと笑った。バーディーの頭の上でネーロが懇願した。
「頼む、今は見逃してくれ! お嬢は今後の稼ぎ頭なんだ!」
「へー。信用できないなあ」
「ほんとうさ! ――お嬢、さっきの石、ひとつそいつに渡して」
バーディーは、ポケットの中に入れていた乳白色に輝く石をひとつ取り出し、『目』を持たない人間にも見えるように紐をくくりつけてから、女性の足元に放り投げた。銃を構えたまま、それを片手で拾い上げた女性は、手の平で石の感触を確かめていた。
「口止め料のつもり? ――いいよ。とりあえず、黙っていてあげても」
「そりゃ有難いことで」
「ところで、アルバトロスは留守? 中で待たせてもらうからね」
まったくあいつ、返済期限のこと忘れてんじゃないの? ――などと、その女性はぶつぶつ言いながら、隠れ家のほうへ向かった。施錠してあったはずなのだが、手の中の針金のような器具を使ってあっさりと扉を開けてしまった。
呆気にとられているバーディーを、ネーロが促し、一緒に隠れ家に向かった。
「彼女、もう安全だと思う。きょうのところは」
――と、ネーロは言ったのだが、バーディーにはさっぱり状況が飲み込めなかった。そして続けてこう嘆いた。
「黒毛熊が侵入していたのは、あいつのジープのせいさ。車が通過したせいで、魚群が一時的に乱れたのさ。僕がもっと早く気づくべきだったよ」
水色髪の女に続き、ネーロを乗せたバーディーも隠れ家の中に入った。
今度は忘れずに靴を脱いだ。ダイニングに入ると、女が勝手に保冷庫を開け、飲み物を取り出しているところだった。
その様子を見ていたバーディーは、ひとつの可能性に思いあたった。主の留守に鍵を開け、無断で上がり込んだ上に、この勝手知ったる振る舞いである。しかも女性だ。武器をしまいこんだ相手に、少し安心したバーディーは訊ねた。
「あの、もしかして、アルバトロスの彼女さん――だったりします?」
水色の髪の女は、飲み物をあやうく吹きだしそうになった。
そして次には、大口を開けて笑い始めた。心底可笑しそうな様子で、腹を押さえ身をよじりながらも笑い続けている。
「うひゃははは! マジで!? あいつ、もう男だってバレてんの? 恰好悪う!」
笑いすぎて涙まで滲ませている彼女をしり目に、あきれた様子のネーロがバーディーに言った。
「――彼女、中央塔所属の研究者で、二宮楓っていうんだ。アルバトロスとは、借りたり貸したりの利害関係者。敵になるか味方になるかは、その時の損得次第ってわけ」
バーディーは、さきほど石ひとつと引き換えに、楓が自分を見逃してくれたことを思い出した。腹筋の痛みに悶えている楓を、冷めた様子で見下ろしながらネーロは続けた。
「これでも凄腕の科学者なんだ、けど……。インビジブルの研究をするために、石や結晶がたくさん必要なんだってさ。それで時々、情報やら物資やらと引き換えに、アルバトロスから石を巻き上げてるってわけ」
「……ふうー。巻き上げる、とは失礼ね! 正当な対価を要求してるだけじゃない。だいたい、この場所を黙ってあげてるぶんは徴収してないんだから、良心的でしょうが。ああ、わたしってなんて慈悲深いんだろ!」
楓はそう言いながら、これも勝手に食糧庫から出してきたナッツをぼりぼり食べている。貴重な栄養源のはずだが、一切遠慮がない。ネーロはため息をついた。
事情がわかったところで、思い出したようにバーディーが口を開いた。
「あの、ところで、『エボリューション』? ――とかっていうのは、あたしのことですか?」
「そ。環境に適応し、進化して、インビジブルが見えるようになった者たちのこと。いわば、突然変異的なものね。今のところ、突発的に生まれてくるのを待つしかなくって、失踪したあんたのことも、中央幹部が血眼で探してんのよ」
バーディーの質問に、世間話でもしているかのような気軽さで楓は答える。ネーロは、もの欲しそうな目で楓の手元を見ていた。
「幹部って、凪美由紀さんのこと?」
「凪美由紀って! ――なるほど、あんた、あの女に目をつけられたわけか。それはご愁傷様! あいつきっと、昼でも見える『第二次環境適応者』をボスに差し出すことで、得点稼ぎを狙ってるんだわ」
クルミの殻を割りながら、二宮楓は「あのハゲに媚びるなんて、相変わらず、つまんない堅物女ね……」などと、ひとりでぶつぶつ言っていた。その反応から察するに、二人は知り合いではあるようだが、仲良し同士というわけではないらしい。
楓自身は、バーディーに特別な興味を持っているふうには見えない。中央塔の人間とはいえ、皆が同じ考えではなさそうである。そういえば、アルバトロスと知り合いということは、そのアルバトロスも中央塔の関係者ではないのだろうか。
バーディーはそれとなく訊ねてみた。
「楓さんは、アルバトロスとは古い知り合いなんですか?」
「……? ははーん。アルバトロスの奴、まだちゃんと言ってないんだ? やつのこと知りたい? 教えてあげてもいいけど、その代わり、こ・れ!」
楓は自分の手のひらを上に向けて差し出した。何のことかと戸惑っているバーディーに対し、軽くウィンクしながら言った。
「情報料に決まってるでしょ! そうね、白結晶みっつかなあ。黒ひとつでもいいけど」
きのうまで東塔にいたバーディーがそんなに結晶を持っているなどと、楓は思ってもいない。
つまり、教える気はなくて、半分は冗談のつもりなのだ。返答に困ったバーディーは硬直していた。呆れてネーロが言い返す。
「勘弁してくれよ! 白はともかく、黒なんて貴重すぎて、アルバトロスだって持ってないよ」
「ふーん。本当はどっかに隠してんじゃないの? このへんとかに」
楓は、手近な棚や引き出しを開けて中を覗きこんだ。
主人の留守に部屋を荒らされてはたまらないと、ネーロは楓の肩にのって、ガアガアとわめき始めた。楓はネーロの反応を楽しんでいるらしい。どうやら、人をからかうのが彼女の趣味らしいということが、バーディーにも分かってきた。
ネーロが可哀想になり、話題を変えようとしてバーディーが言った。
「そういえば、毒針つきのエイを採集してらっしゃるのも、楓さんの研究の一環なんですか?」
「――? エイですって?」
「はい、お車の中に三匹ほど――」
二宮楓は、顔を真っ青にして立ち上がった。
そのまま扉から外に飛び出していって、自身が乗りつけた四輪駆動車の中を覗きこんでみた。エイどころか、虫の一匹も見当たらない。バーディーの言うのがインビジブル生物であることに気が付くと、楓は携帯していた麻酔スプレーを取り出した。
楓を追って、バーディーとネーロも車の周りにやってきた。
「ちょっと、『環境適応者』! エイってどこにいる? いま動いてる?」
「ええと、じっとしています。前のガラスに二匹と、横にいっぴき」
「こ……これ、小動物を眠らせる薬! あなたに貸すから、取り除いてよ!」
バーディーは楓からスプレーを受け取ると、ゆっくりと車のドアを開いた。
毒持ちのエイは、眠っているのか動かない。一体ずつ、しゅっと催眠剤をひと吹きしては、そっと剥がして草の上に置いてやった。これの毒針はおそらく護身用のもので、エイたちの本来の性質はおとなしいようだ。
なおも疑いの消えない様子の楓は、草の上に着色剤をふり撒いた。
すると、手のひらほどの小型なものではあるが、尾の付け根に鋭い針を持ったエイの姿があらわになった。間違って触れていたら大事になっていただろう。
一体、いつから車の中にいたのか。二宮楓は震えあがった。
「ねえ、あなた! ついでだから、他にも車の中にいないか調べて!」
「いいですよ」
バーディーは言われたとおり、小型ライトを借りて車の中を隅々まで調べた。エイはもういなかったが、小さなカナヘビと、丸っこい甲虫が見つかった。無害なものだと思われたが、取り除いてやった。
「たぶん、もういません。――もしかして、森の中で扉を開けませんでした? きょうはエイの大群が泳いでいましたから」
「ああ、窓なら開けたかも……」
インビジブルの見えない楓は、半信半疑の様子で車の中を覗きこんでいたが、いまはバーディーを信用するしかなかった。
「まさかとは思うけど、あなたが自分でエイを張り付けたわけじゃないよね。――まあ、そんな小細工するタイミングなんてなかったか。いずれにしろ、一本とられちゃったかな」
楓は、ポケットの中から紐のついた小石を取り出し、バーディーに手渡した。一体どういうことかと、不思議そうな顔をしているバーディーに楓は言った。
「毒針エイの駆除代金。これで精算済みにしてくれない? ――んーと、あなたの名前なんだっけ、神無月……?」
楓が、名前を思い出そうとしているのだということに気づいたバーディは自ら名乗った。こんなこと、東塔の中では許されなかった。少し嬉しいような、照れくさいような感覚だ。
「あ、あたしの名前、バーディーです」
「バーディー? へえ、どうせアルバトロスが命名したんでしょ! あいつらしい発想だわ」
そう言いながら、二宮楓は微笑んだ。敵にも味方にもなるというこの女性を、心から信用したわけではないのだが――その少女のような笑顔につられて、思わずバーディーの頬も緩んでしまった。
「――ところで、その服どう? 本当の女の子用だっていうんで、あたしが見立ててあげたんだけど」
「そうなんですか!? こんな立派な服、生まれて初めて着るので、よく分からなくて……」
「じゃあ、好きな色は? ――たとえば今わたしが着てる服なんてどう思う? こんど頼まれたときには、なるべく好みのやつを見繕ってあげたいじゃない!」
そこからは、雄であり鳥類であるネーロの理解を超える、女同士の会話が始まった。
二宮楓は元から派手好きらしく、ほんとうは、もっと鮮やかな色合いのものや奇抜なデザインの服を選びたかったらしい。しかし、アルバトロスの猛烈な抵抗により、しぶしぶ無難なものに収めたということだ。彼女自身の、水色で目立つ髪の色は染色であるという。
そんな立ち話をしているとき、丘へ続く小道のほうから物音がした。アルバトロスが人間の姿に戻って帰ってきたのである。
「あっ、楓!? ――す、すまん! 支払いがまだ……!」
まるで天敵にでも出くわしてしまったかのように、アルバトロスは後ずさりをした。黒毛熊と遭遇したときよりも、よほど怯えている様子だ。楓はにやにや笑いながら、ゆっくりと歩み寄った。




