2-6 庭の巡回(2)
バーディーは、汗だくになりながら森の中を歩いていた。
アルバトロスが用意してくれた杖は、山歩き用の、軽く堅い木製のものだった。それにもたれかかったりしてみるが、ほとんど休憩にならなかった。先導する黒い影を追い、時には木立で見失いそうになりながら、必死についていく。きっとこんな歩きでは、アルバトロスの足元にも及ばないのだろう――そう考えて、気を引き締めながら歩き続けた。
ふと、森が途切れ視界が開けた。
小さな畑がある。傍らには井戸と、粗末な小屋があった。
「お疲れ! ここで休憩できるよ」
大きな木の陰に、ただ丸太を横たえただけのベンチがあった。小さな小屋の中を覗いてみると、農作業用の物置場になっていた。井戸から冷たい水を汲み、水袋に補給すると、バーディーは丸太に腰かけた。
「この畑は、アルバトロスが手入れをしているの?」
「そうだよ。専門知識があるわけじゃないから、収穫はごくわずかだけどね。いずれ、みんなが塔の外に降りた時の参考になればいいんだってさ」
バーディーは、低木の枝にとまっている一羽の小鳥をみつけた。
背中のほうは茶褐色で、白っぽく見える胸のあたりには鱗のような模様がある。スズメよりもちょっと大きいけれど、ハトよりはずっと小さい。長いしっぽを振りながら、下の畑のほうをじっと見張っているようだ。
資料映像で見たことがあるような気がする。あの鳥はなんといったか――バーディーが記憶をたどっていると、視線に気づいたネーロが言った。
「ああ、彼女ね。この畑の番をしているモズさ」
「モズ? あの小鳥のこと?」
「そ。ちっちゃいけど、自分とおなじくらいの体格の獲物も仕留めちゃうんだ。最近、この畑を縄張りにしてるみたい。ネズミをとってくれるし、ムクドリも追っ払ってくれる。僕と母ちゃんは『クイーン』って呼んでるんだ」
「へえ、頼りになるんだね」
クイーンが一瞬こちらを見たような気がした。
しかしすぐに、とまっていた小枝を揺らし、バネで弾かれたように飛び立った。そのまま林の中に隠れてしまい、戻って来る気配はない。怯えた様子でネーロが言った。
「……まずいな。僕がちっちゃいって言ったもんだから、怒っちゃったみたい。僕、前に彼女に蹴られて、頭の羽根が抜けちゃったことがあるんだ。――ああ、そのへんで待ち伏せしてたりして」
「怖いなら、あたしにくっついていれば?」
「それでも蹴られるかもしれないよ。彼女、そういう女なんだ」
以前蹴られたとき、よほど痛かったのだろうか。ネーロは気配を消そうとするかのように、固まったまま動かなくなった。自慢の毛並みも、心なしか張りがなく、しんなりしてしまったようだ。
いつもよりやや小さく見えるネーロを頭に乗せたまま、バーディーは腰を上げ、杖を手にして歩き出した。
畑を抜け林の中に入ってから、もう一度振り返ってみた。クイーンがいつのまにか元の枝に戻っていて、尾を振りつつ見張りを再開していた。
束の間の休憩を終えたバーディーは、ふたたび歩き続けていた。
細い道の脇を、沢が通っているのだろうと錯覚していたが、違っていた。それに気づいたのは、ネーロが言ったからだ。
「お嬢、見えるだろ。ここが庭の外縁さ」
バーディーは、今の今まで水の通り道だと思っていたあたりを、目を凝らして見た。
流れているのは、小さな魚の形をした光の集団だった。水など一滴も流れておらず、数えきれないほどの魚たちが、青白く輝きながら列をなして、空中を泳いでいるのだ。さながら地面から浮き上がった小川である。
胸元のレンズで確認する必要もない。インビジブルの見事な群舞だ。よく見ると、輝く粒子の大きな流れがあり、それに沿って魚たちも遊泳しているのだ。
「すごい大きな群れだね。あたし、初めて見た」
「この光る魚たちはいつも、だいたい決まった道のりを周回しているんだ。『庭』は、その軌道の内側にある。黒い獣たちは、こいつらに触れるのを嫌って、なかなか入ってこられないってわけ」
「だから、庭の中は安全だって言ってたんだね」
魚たちの集団遊泳は、ずっと眺めていても飽きないように思われたが、とにかく今は仕事を終わらせるのが先である。ネーロに導かれ、魚の群れを背にして、ふたたび歩き出す。まもなく、目印の紐が結びつけてある木をみつけた。
「ここのやつは、そろそろ結晶化が近いと思うよ」
頭に乗ったネーロの言葉を聞きながら、バーディーが木の根元に石を探しているときだった。視界の端に何かが動いた気がした。
ネーロはするどく鳴いて、頭上の木の枝に飛び移った。
「――いる! 武器を持って!」
思わず、山刀ではなくスリングショットを構えてしまったのは、バーディーにとって武器といえは子どものころからそれであったためだ。反射的に金属球を持ち、ゴム紐をいっぱいに引き絞った。
茂みのなかから飛び出してきたのが、顔の半分が崩れた漆黒の熊だということに気づいたのと、弾が放たれたのは、ほぼ同時。
黒毛熊の額の真ん中に、弾は命中した――はず。
獣は一瞬怯んだように見えたが、それだけだ。手負いの熊は、こちらに向かってくる。
――そうだ、山刀を!
焦りながらも、なんとか山刀を鞘から抜き、その刀身を熊に向けて威嚇した。
黒毛熊は動きを止めた。唸りながら牙をむき出しにして、間合いをとって低い姿勢を保っている。おそらく、きのうアルバトロスに頭を吹っ飛ばされた獣だ。バーディーの持つ怪しく光る山刀には見覚えがあるはずで、迂闊に近寄ると痛い目を見ると記憶しているのだろう。
しかし状況は悪い。一瞬でも隙を見せれば、獣の跳躍ひとつでその爪が届いてしまう。
――失敗した。中途半端に弾で撃ったりしなければ、興奮させなくて済んだかもしれないのに!
あるいは、一撃目で躊躇なくインビジブルの石を撃ちこむべきだったのだ。
刃を構えながら、バーディーは身動きひとつできなかった。いまからでも化石を撃てば撃退できるのかもしれない。しかし、人間ごときが行うその動きを、この野生の獣が待っていてくれるのだろうか。
アルバトロスが石をぶつけた時は、相手が怯んで間合いをとったタイミングだったし、つぶて撃ちの動作のほうが無駄がなく、きっとはるかに速かった。
足元には頑丈な木の杖が転がっている。
棒術の心得があるバーディーは、それを武器として扱うこともできた。しかし、いまとなってはしゃがみこんで拾う度胸もないし、ただの棒っきれによる突きが、重い金属弾の射撃をものともしない相手に通用するかどうか。
――あきらめて立ち去ってくれないかな……!
バーディーは、望み薄とわかっていながらもそう祈っていた。背中を冷たい汗が伝い落ちる。こうなったら運を天に任せ、山刀による捨て身の攻撃を仕掛けるしかないのか。
そう覚悟を決めたときだった。
頭上でかさかさと音がする。ネーロだ。
黒毛熊はバーディーに狙いを絞っているようで、カラスの動きなどは眼中にないようだ。ネーロはひらりと木の根元に降りると、木の葉の中から何かをつまみ出し、飲み込んだ。
「お嬢、僕が注意を引きつけるから、その刀を杖の先端に差し込むんだ」
地面から飛び上がったネーロの体は、燃えるような輝きに包まれていた。
木の枝を巧みに避けながら上昇し、高く舞い上がったと思うと、黒毛熊の顔を目がけて急降下し、蹴りをお見舞いした。そのまま頭にしがみつき、片目を嘴で攻撃している。
黒毛熊はネーロを振り落とそうと試みるが、ネーロも必死に食らいついている。時々、熊のするどい爪がその体をかすめているようだが、不思議と傷ひとつついていない。山吹色に輝くその姿は、まるで小さな火の鳥だ。
「長くはもたないんだ! はやく!」
振り落とされかけながらネーロが叫んでいた。
アルバトロスから与えられた杖の先端に、山刀の柄をはめ込む。最初から、ぴったりとはまるように作られていたのだ。杖は、棒術用の棒としてはやや短めだったが、それでもバーディーにとっては心強い。
長い柄の先に刃のついたその武器の形状は、バーディーの知識の範疇では『槍』に近いと言えた。しかし、薙刀のようだと表現したほうがより的確かもしれない。
「離れて、ネーロ!」
両手で柄を握り、構えたまま黒い獣へ一気に間合いを詰める。ネーロが飛び上がった。
よく鍛錬された素早い動き。刃の軌跡が弧を描いたかと思うと、次の瞬間、その切っ先は黒毛熊の喉元をとらえていた。
刀身から青白い火花が散り、獣の首から上が吹き飛んだ。
頭を失った胴体が地に崩れ落ちる。それは、ほんの数秒すらも原型をとどめずに、無数のムカデや小さなヘビの形となり、散り散りにその場を走り去っていってしまった。
その先端に刃をつけたままの棒を握りながら、バーディーは呆然としていた。
ネーロが舞い戻ってきた。もう、元の黒い鳥に戻っている。どこも怪我はしていないようだ。
「お嬢、大丈夫だった?」
「――うん」
バーディーは山刀を見た。血も肉片もついていない、きれいなままだった。
「――ああ、その短刀、力を放出しちゃったから、半日は威力が戻らないと思うよ」
ネーロの言う通り、さきほどよりも刃の色が濁ってみえる。バーディーは黙ってゆっくりと鞘をはめ直し、杖から取り外した。そして元通りに、山刀を腰にとりつけ、杖を握った。
その間、ネーロは木の枝に結んであった紐をほどいていた。
「僕、ここの石を食べちゃったんだ。印をはずしておかないと」
「ネーロが光っていたのは、そのせいなの?」
「うん。一時的にだけど、結晶が溜め込んだエネルギーを高速に循環させ続けて――まあ、早い話が、不死身になれるんだ」
聞こえているのかいないのか、バーディーは黒毛熊の消えた地面をずっと見ていた。
虫や蛇はもう一匹も見えないし、熊が存在した痕跡もない。強いていうなら、獣の足に踏みしだかれて倒れた草があるだけだ。
初めて野生のインビジブルを一人で駆除したというのに、バーディーに喜びの表情はなかった。
「ネーロ……。あの熊って、死んじゃったの?」
「死ぬ、の定義によるけど……。彼という個体が消滅し、二度と現れないのは確かだね」
「やっぱり、インビジブルでも死ぬんだね」
危険だからもうまっすぐ戻ろうと言うネーロに従い、バーディーは細道を歩いた。こんな戦いのあとでは、虚勢を張って仕事を続けたいなどとは、とても言えなかった。
まるで独り言のように、頭の上でネーロが話し続ける。
「インビジブルに近い僕らの感覚でいうと、大きな流れの中に還っていったんだよ。崩壊してすぐなら、彼を再構成することもできるかもしれない。――この世界のこの命に、よほどの執着があったというなら、あるいはね。
……でも、あの熊、きっと孤独なはぐれ雄だ。本人の意志はともかくとして、彼に固執する身内もいなかったと思う」
だから、彼を呼び戻す者もいない。だから死んだ。
その結論は、バーディーの心に冷たく忍び込んできた。塔の中で、訓練用のインビジブルを倒したときとは違う。今は、自分が自分の意志で、ひとつの命の灯を消してしまったのだ。
歩き始めると、ふたたび額から汗が流れ落ちる。それでも、気持ちのどこかに、暗く小さい風穴があいたような気がしていた。
「――それにしても、なんであんなに大きな黒いのが侵入していたんだろうなあ」
頭の上でネーロがつぶやいていた。
一緒にいるのがアルバトロスだったとしたら、考察のひとつやふたつ引き出せたところだったかもしれない。しかし、きのう地上に降りたばかりの少女に、その疑問を解決する術はなかった。
しかし、長年アルバトロスに付き添っていたネーロならば、そこからある可能性を導き出していて然るべきだったのかもしれない。




