2-3 塔から降りた日(3)
「まず、俺とネーロのことを説明するべきかな。
いくら東塔の中で育ったとはいえ、もう気づいているだろう。鳥に変身できる人間などありえない。人と会話できるカラスなんているわけがない、ってな」
バーディーは頷いた。
あの頃は、塔の外の世界にはいろいろな不思議なものがあっても、おかしくないと思っていたのだ。しかし、変身する人間や喋るカラスについて、いくら調べてみても、何一つ情報が無かったのである。結論は「ありえない」だった。
「俺は普通の人間じゃない。インビジブルに寄生されているんだ。――いや、共生関係って言ったほうがいいかな」
バーディーの顔色が変わり、椅子から立ち上がりそうになっているのを見て、アルバトロスは意識して明るい笑顔を作った。
「……え? インビジブル……なの?」
「ああ、でも、大丈夫なんだよ! ぜんぜん怖くない奴だから」
自分が訊ねておいて、怖気づいてはいけない。バーディーは意地でその場に踏みとどまった。何を今更である。一緒に鍋をつついていたところではないか。
どことなく寂しそうな様子でアルバトロスは続けた。
「これを話すと、大抵の奴は怖がって逃げてくか、攻撃してくる。魔物に取り付かれた奴だ、とか、インビジブルと結託した裏切り者だ――ってな。そりゃそうだ、ふつう不気味に思うよな」
バーディーは、インビジブルだと聞いただけで逃げ出したくなったことを恥じていた。
考えてみれば、空を泳ぐ美しいウミヘビも、気ままに漂うカゼクラゲたちも、自分たちに悪さをしかけてきたことなど一度もない。もっと幼い子供だった頃は、素直にきれいな生き物だと感じていたはずなのに。
バーディーは首を横に振った。
「ごめん、だいじょうぶ。続きを聞かせて」
アルバトロスは、ひとつ頷いてから、ぽつりぽつりと話し出した。喋りながら言葉を選んでいる様子だった。
「俺だって元々は、ふつうの人間だったんだ。話すと長くなるんだが、十何年も前だな。ちょっとしたいざこざがあって、俺は塔から落っこちた。
不幸中の幸いで命は助かった。それでもまともに動けないくらいの怪我をした。しかも、インビジブルが徘徊する森の中でひとりきり。もう絶望的さ。
これで死ぬんだと思ったときだ。あちらさま――インビジブルのほうがさ、俺に取り引きを持ち掛けてきた。自分をあんたの体に寄生させてくれたら、肉体の損傷を修復した上に、老いることのない体にしてやる、って。おまけに、インビジブルが見えるようになるっていう特典つきだ。
――いやいや、そんなうまい話があるものか、って思うだろ? 絶体絶命の危機のくせに恰好つけて、俺は訊ねた。『それをして、あんたらに何の得がある?』――ってな」
バーディーは時折うなずきながら、真剣な顔で話を聞いている。先程までの恐怖は忘れたかのように、未知なるものへの興味で一杯の様子だった。
「――インビジブルは俺に、人間との間の交渉役をやってほしいと言った。インビジブルたちにも派閥があってさ、俺に話しかけてきたグループは、人間との共存を望んでいる。中央塔の人間の出方次第では、原野開拓に協力するのもやぶさかではないというわけだ」
じっと聞いていたバーディーだったが、思わず口を挟んだ。
「でも、そんなこと誰も信じないと思う。さっきの黒毛の熊だって、あたしたちを襲ってきたし、インビジブルの声なんて、あたしは聞いたことない。第一、インビジブルってしゃべるの?」
「ここにいるよ、しゃべるインビジブルみたいなのが」
バーディーの背後から声がした。竹竿の上にとまっていたネーロである。
「僕はインビジブルの代弁者さ。母ちゃんが塔から落ちたとき、僕も巻き添えで瀕死の大けがをした。僕の場合は虫の息だったんで、選択の余地なく強制的に寄生された。そのせいか、母ちゃんよりもインビジブルの影響を強く受けているみたいで、彼らの声を直接聞くことができるってわけ」
つまり――アルバトロスとネーロは、一見してもわからないが、インビジブルとの共生体というわけだ。アルバトロスが言うには、形態を変えることができるのもその恩恵であるという。ただし、昼間のネーロのように、著しい巨大化をするには、それなりの用意が必要ではあるということだ。
「バーディーには見破られちまったが、俺が女の姿をしているのも、それが都合が良いからだ。理由はそのうちにわかる。そして、大事なのはここからだ。俺たちがどうして、バーディーを助けるのか。それを話さなくては始まらないな」
バーディーにとって、その理由はずっと謎のままだった。そもそも、本当に迎えにきてくれるかどうかすら、半信半疑であったのに。
引き締まったアルバトロスの表情は、揺るがない決意に満ちているようだった。本来の男性らしさが垣間見える気がしたが、そこにいる人物は凛とした女性そのものだ。年頃のバーディーにしてみれば、そのほうが有難い部分もある。
「俺は、いまの中央塔の支配体制には反対だ。バーディーは東塔の中のことしか知らないだろうが、南塔や北塔も似たような有様だ。インビジブルからは守られているが、住民たちはろくな身分も権利も与えられず、いわば飼い殺しさ。それでいて、特別な目を持った子供が出ると、強制的に招集しちまう。
俺はせめて、一矢を報いてやりたかった。なんでも奴らの思い通りにさせてたまるか、ってな。老いを知らない体になった今なら、時間もたっぷりある。少しは世界を変えられるかもしれない。そう思ったんだ」
この逃走計画は、アルバトロスが中央塔に放った嚆矢なのだ――と、バーディーは思った。なぜ自分だったのかは聞くまでもないことで、特別な目を持っているからだろう。中央塔にとって大事なのは『目』だ。もしかしたら、長月三十日のほうがこの立場だったかもしれないのだと思った。
自分の逃走をする手助けをしてくれた理由には、とりあえず合点がいった。
「アルバトロスは、これからどうするつもりなの? 反抗運動を起こすの?」
「いや、べつに中央塔と敵対したいわけじゃない。いずれは、周辺の各塔から賛同者を募って、地上に降りて暮らす人々の街をつくるつもりだ。――まあ、それを中央塔が許すはずもないから、結果的には反逆者扱いなんだけどな」
アルバトロスは自嘲気味に微笑むと、すっかり冷めた鍋をかき回しはじめた。米を入れてもう一度煮ると美味いぞ、と勧められたが、バーディーは既に充分に食べたので遠慮した。すこし和らいだ表情を取り戻したアルバトロスは言った。
「正直言うと、バーディーが俺んとこに居てくれたら嬉しいんだ。……でも、バーディーの目標は開拓騎士団入りだったな。それを望むなら、俺が必ず話をつけてくる。すぐにとはいかないかもしれないが……約束だったからな」
「騎士団……かあ」
バーディーはつぶやいた。
急に、幼い頃から競い合うように訓練に励んできた少年、長月三十日のことが思い出された。彼はどうなっただろう。首尾よく騎士団の仲間入りができればよいのだが。そして、皐月五郎は中央塔のお叱りを受けていないだろうか。
バーディーの表情が不安で曇るのを察したアルバトロスは、大袈裟なほど明るい口調で言った。
「なに、いますぐに決めなくても大丈夫だ。俺はさ、バーディーには、自分の気持ちで決めてほしい。いずれは誰でも、自分の人生は自分の意志で決められるような世の中になるんだからな! どこの塔に生まれようがだ。
――そう、バーディーだけじゃない。五郎ちゃんも、三十日とかって坊主も、みんな自由であるべきなんだ。これからは、そういう時代になるぞ!」
目を輝かせて強気なことを言うアルバトロスだったが、バーディーには、その半分以上は虚勢であるような気がしていた。まったくの出まかせを言っているとは思えない。ただ、ずっと塔の中で、蜘蛛玉の顔色を伺いながら暮らしていたバーディーには、とても実感の伴うものではなかった。
ただ、アルバトロスを傷つけないよう、無理やり笑顔をつくることしかできなかった。
塔の外で過ごす、一日目の夜はなかなか眠れなかった。
分厚いコンクリートの壁で、完全に外の世界から隔絶されていた塔の住居区域とは違った。毛布を頭からかぶってみても、鉄線入りの強化ガラス一枚を隔てた外の音が聞こえてくる。風が吹き木々がざわめく音や、合唱のようなカエルたちの鳴き声。防虫香を焚いた匂いがかすかに漂っている。
アルバトロスは自分の寝台で、ネーロは竹竿の上で丸まって、静かに眠っているようだ。
バーディーは、東塔に置き去りにしてきた人々のことを思った。
きのうまで一緒だった、師走一子の顔が脳裏に浮かぶ。黒髪剛毛のバーディーとは違って、しなやかな長い金髪が綺麗だった。今朝だって、まるでいつも通りのような笑顔でバーディーを送り出してくれた。
長月三十日は、子供のころは生意気さが目立っていたけれど、近頃は背丈も伸びて男らしくなり、頼りがいもある良き友人だ。鋭かった目つきは柔らかくなった。ただ、赤く目立つ髪の毛だけは幼いころのままだった。
皐月先生は、塔長という地位についてからというもの、めっきり会話する機会も減っていた。屋上では久しぶりに会ったというのに、ろくに話もできなかった。逃走計画を相談しなかったのは、バーディーなりに皐月五郎の立場を考えた判断だった。
みんな今ごろどうしているだろうか。
バーディーの頬を不意に涙が伝う。中央塔へ嫁ぐことを選択していたとしても、当分のあいだは会えなくなっていた人々だ。何故、あのまま皆と一緒に暮らすことが出来なかったのだろうと思った。コンクリートに閉じ込められたままでも、別に構わなかったのではないか。
――もしも逃げ出さなかったら、あたしはどうなっていたんだろう。おとなしくお嫁に行けば良かったのかな。
答えの出ることのない問いが、頭の中をぐるぐる回っていた。それでも、慣れない山歩きのせいで体が疲れていたのだろう。毛布にくるまって、いつのまにか眠ってしまった。