1-1 塔の上の花嫁
緑豊かな平原の中に、巨大なコンクリートの塔が立っていた。
それは高さ三百メートルに及ぶ、孤独な塔だ。近隣に、ほかの建造物や、人の生活をにおわせるようなものは何もなかった。
六月にしては、珍しい青空。さわやかな風が渡る屋上に、百人を超える人々が集まっていた。彼らは、この「東塔」と呼ばれている高層建造物の住民である。皆、式典の幕開けを待ちわびる参列者であった。
屋上の一角に、法衣姿の男が姿を現した。
人々の視線が一斉に注がれる。男はこの塔の長で、住人たちの最高責任者である。名を皐月五郎といった。
「これより『結婚式』を執り行う。中央塔より選ばれし名誉ある花嫁を、送る式典である」
皐月五郎がそう宣言すると、大きな拍手が沸き起こった。
屋上の中央あたりには、赤いじゅうたんが細く長く敷かれて道を作っていた。参列者たちはその両脇に並び、階段の下から花嫁が姿を現すのを、いまや遅しと待っていた。
――六月の花嫁は幸せになれる、だなんて。そんな事、いったい誰が最初に言ったのかな。
純白のドレスに身を包み、頭から薄羽のようなヴェールを垂らした少女は、浮かない表情のまま頭上を見上げていた。
目の前には昇り階段。まぶしさに目を細めながらも、一歩を踏み出す。
「――では、高貴なるお方に選ばれし、幸運な花嫁を紹介しよう。神無月十子。さあ、こちらへ来なさい」
屋上のほうから、皐月五郎の声がした。
大きな拍手と歓声が聞こえる。これが、出ていくタイミングであることも承知していた。渋々、一歩ずつ階段を上る。靴の底が硬い音をたてる。
皐月五郎の声はさらに続いていた。
「さて――神無月十子は、皆が知るとおり、優れた『目』の持ち主である」
階段をのぼりきり、塔の屋上に立つ。
大勢の人々が、赤いじゅうたんの脇を固めるように、ずらりと並んでいる。
皐月五郎が、裾の長いきらびやかな法衣姿で、道の先に立っていた。それを見て、少女は思わず吹きだしそうになる。
――まるで、大昔の西洋の僧侶みたい。
じゅうたんを踏みながら、白いドレスの少女はゆっくり進んでいった。
「――女性でありながら狩りの訓練を怠らず、狙撃術の腕前は一級品である。彼女の夫となられるお方は浮気をなさらないほうがよろしいだろう。高貴なお方といえども、彼女の放つ『スリングショット』の一撃から逃れる術はない」
人々のあいだから、くすくすと笑い声が漏れた。
塔長なりの冗談話を披露したのだろうが、少女にとっては面白くない。
そもそも、神無月なんとか、などというのが自分の名前であることなど、彼女は認めていなかったのだ。
ヴェールが顔を覆い隠してくれているのが幸いである。愛想笑いは疲れるからだ。
彼女が赤いじゅうたんを端まで渡りきると、皐月五郎は咳払いをひとつしてから、その場の全員に聞こえるような大声を張り上げた。
「――さて、清らかなる乙女、神無月十子よ。汝は幸運にも、中央塔の高貴なるお方に選ばれし花嫁である。その身と持てる才能の全てを、崇高な理想と人々の未来のために捧げることを、ここに誓うか?」
厳かなる宣誓のときがやってきた。
祝福、興奮、羨望、嫉妬――住人たちの様々な思いが熱い視線となり降り注ぐ中で、少女はきっぱりと返事をした。
「あたし、誓えません! 見ず知らずの男の人といきなり結婚するなんて、無理です!」
「――え?」
まるで、時間が停まったようだった。
その場の全員が呆気にとられ、石のように硬直していた。静寂の中を、風だけが吹き抜けていく。
彼女の言葉の意味を、瞬時に理解できる者など誰もいなかった。皐月五郎は顔面蒼白だ。それでも気を取りなおし、かろうじて声を絞り出す。
「……あの、神無月十子? いま何て言った?」
「だから、無理です! 知らない人のお嫁になんてなれませーん」
「あ、えーと……嘘だろう? 中央塔のどなた様かは分からないが、嫁になりさえすれば、贅沢三昧の生活が保障されているんだ。大出世だぞ? それも、わざわざあちら様からご指名頂いたというのに――」
そう。
ここ東塔は、個人の名前を名乗ることさえ許されない、下級民たちの暮らすコロニーであった。中央塔へ行くことが、下級民脱出の唯一の手段である。万が一にもお呼びがかかって行けるものなら、誰だって行きたいのだ。そうしなければ、東塔を出られないままに生涯を終えてしまう。
だから、誰にも信じられなかったのである。
純白のドレスに身を包んだ少女が、乗れる玉の輿に乗らずに、蹴り飛ばそうとしていることが。
「えーとね。その、相手が誰だかわかんないってとこが嫌なの! それならあたし、別に、生涯独身でも構わないんで」
「ああ、そういう問題じゃないんだよ、十子……。見なさい周りを。誰だって、どんな手段を使ってでも、中央塔に行きたいんだ。しかもきみは特別に目がいいから、きっと大事にしてもらえる。断るなどとは、正気の沙汰とは思えない」
皐月五郎はうろたえた。参列者たちからも痛いほどの視線を感じる。しかし、少女の決意はまったく揺るがない。
「じゃあ、旦那さまがひどい暴君だったら、どうしたらいいの? とんでもない変態趣味の人かもしれないし、もしかしたら、明日にも死にそうなおじいちゃんかもしれないし」
少女の反論に、負けじと皐月五郎も言い返す。
「相手なんてどうでもいいじゃないか。ここにいる限り、我々は名前さえ名乗れない。十子、なんでもいいから中央塔に入るんだ。それで、ようやく人間扱いしてもらえるんだぞ……!」
二人が言い合う様子を見て、人々がざわつき始める。
不安そうに、きょろきょろと周りを見回す者、何かに怯えるようにしゃがみこむ者がいる。子連れの母親は、我が子をかばうように抱きかかえた。
そのとき、屋上を囲む縁石から、ごとり、と銀色の玉が転がり落ちてきた。
握りこぶしほどの大きさの球体が、次々と床を滑り、皐月五郎の周囲に集まってくる。五個、六個……。球体は赤いランプを点滅させている。おそらく、不穏な発言に対する警告だ。あちこちで小さな悲鳴が上がる。
屋上に備え付けらえたスピーカーから音声が発せられた。
『住人識別番号〈E-0505-M〉に指導。中央塔への反逆の疑いあり。言動を慎むように』
〈E-0505-M〉という番号は、皐月五郎のことを示している。
これ以上、反抗的な言葉を口にしようものなら、いかに塔長といえどもただでは済まないだろう。皐月塔長は、ため息をつきながら、苦々しい顔で少女に一言告げた。
「そうだ。中央塔に行けばきっと、綺麗な名前もつけてもらえるぞ。有難いお話じゃないか」
「――いらない。名前なら『アルバトロス』がくれたもの」
少女は、頭部を覆っていたヴェールを取り、空高く放り投げた。
色白の肌に、好奇心に満ちあふれた黒い大きな瞳。後頭部の高めの位置で束ねられた黒髪は、まとまりがなく奔放に跳ねている。どんなに櫛で撫でつけようとも決して言うことを聞かない剛毛は、年頃の彼女にとって悩みの種のひとつであった。
「アルバトロスと言ったのか? 十子、その名を一体どこで――」
「あたしは『トオコ』じゃない。『ナンバーレス』でもない。あたしは『バーディー』。小鳥っていう意味なんだって。ねえ、可愛いでしょ!」
キィン、キィン――と耳障りな音が鳴る。
足元に転がっていた銀色の玉から、四対の脚が生え、本体と思われる球体を床から浮かせた。それは金属製の蜘蛛と表現するのがふさわしい。中心のランプは依然として赤い光を灯し続けていた。
『住人識別番号・仮〈E-1010-F〉に警告。識別番号を詐称することは禁止されている。主張を続けた場合、攻撃または拘束する』
スピーカーから音声が流れる。下級民は、勝手に名前を名乗ってはいけないのだ。
次の行い次第では、蜘蛛玉たちはいっせいに彼女に襲い掛かることだろう。どの程度、彼らが手加減をしてくれるのかは、誰にも分からない。
少女は、じりじりと後ずさりをした。
蜘蛛玉たちは、少し距離を開きながらも、ゆっくりと彼女を追った。警戒しながら様子を伺っているのだ。少女は徐々に塔の縁へと追い詰められていって、いよいよあとがなくなった。
「えーっと……ご、ろく、七体か。――キツいかなあ」
「何をしている十子! 早く、嫁になると誓うんだ! そうすればきっと警戒が解かれる」
「だから、トオコじゃないってば」
背中のファスナーで留めてあっただけの花嫁衣裳を脱ぎ捨て、高く投げた。
その下には普段着をつけていた。Y字型の持ち手に、弾を飛ばすためのゴム紐が取り付けられた小型の武器――隠し持っていた『スリングショット』を取り出し、構える。
無理だ。一人で七体の蜘蛛玉を相手にするなんて。その場の誰もがそう思った。
不敵な笑みを浮かべながら、つぶてを取り出そうとポケットを探ったとき――彼女の顔に焦りの色が浮かんだ。
「あ、あれっ? ――忘れちゃった」
「――はあ?」
「弾、持ってくるの忘れた……」
「えーっ!?」
なんという阿呆。皐月塔長は天を仰いだ。
どんなスリングショットの名手といえど、弾がなければどうしようもない。絶対絶命の危機とも言えたが、塔長は内心、彼女の戦闘手段がなくなったことを安堵していた。
「十子! もうあきらめるんだ! 結婚を誓いなさい!」
「いやー! 絶対いやー!」
『住人識別番号・仮〈E-1010-F〉に警告。塔長の命令に背くことは許されない』
懸命に説得を試みる塔長と、崖っぷちで意地を張る花嫁候補の少女。そして、彼らを取り巻き警告を発し続ける蜘蛛玉たち。
彼女は、誰ともわからないお偉いさんに嫁ぐのか、さもなくば蜘蛛玉の餌食になるか。それともいっそ、純潔を守り塔から身を投げてしまうのか。
少女の決断やいかに。
屋上の人々は固唾を飲んで、事の成り行きを見守っていた。
そもそも、彼女が中央塔の誰かさんに見初められてしまった切欠については、幼い子供時代にまで話を遡らなくてはならない。彼女は小さいころから活発で、かつて教職についていた皐月五郎の教え子であった。
東塔で唯一、名前を与えられなかった娘。その特殊な才能は、早くから中央塔の目にとまっていたのだった。