後編
私が海面に向かって石を投げつけてやろうとしたその時、高い声が浜に響いた。
「あれ?岡崎?何してるのこんな所で。」
その声の主は、クラスメートの一人、黄泉浜であった。私はびっくりして、持っていた石を手から落としてしまった。修学旅行中の夜中にホテルを抜け出して砂浜に来るような奴が私の他にいるなんて想像もしなかった。彼はジャンパーを羽織って階段を降りてきた。
クラスの皆は彼のことを普段は『ヨミ』と呼んで親しんでいた。面倒見が良く優しい奴だった。私と彼とは仲が悪いことはなかったが友達と呼ぶには半端な関係だった。一緒に遊びに行ったりしたことはないし、部活も違う。しょっちゅう会話するわけでもないが、たまに一緒に帰ったりする。その程度の仲である。
「うん…ちょっと散歩しに来ただけ。ヨミのほうこそ何で?」
ここに来た理由をあまり詳細に説明したくなかったし、説明した結果面倒な奴だと思われたくなかったので、私はそう答えて聞き返した。ヨミは少し口ごもった。そして、
「僕も。散歩しに来ただけ。考えること同じだね。」
と笑って言った。砂浜を歩いてくる間に目が暗闇に慣れたのか私の服装の酷さに気付いたようだ。何しろ私は部屋を出てきたままの寝巻き姿だった。ヨミは着ていたジャンパーを脱ぐと、黙って私の肩にかけてくれた。ヨミが人から好かれるのはこういう、何も言わずに優しいことを他人にするところだったと思う。
ジャンパーは温かかった。私は砂浜に座っている間寒さも忘れていたのだろうか。
「あ、ありがとう。」
「うん。」
なのに私はほんの一言礼を言ったきり黙ってしまった。ヨミと何の話をすればいいのか分からなくなってしまったのである。
ヨミは私の隣に座った。彼も黙っていた。普通に会話すればいいのに何故か気まずい雰囲気が流れる中、二人は黙って暗い海を眺めた。真夜中の海は相変わらず、私達に何一つ語りかけてはこない。
しかし、私は彼がここへ来てくれたことが実は嬉しかった。普段からもっと彼と仲良くしたいと思っていたからだ。私は人と話すのがあまり得意な方ではなかったので、どんどん積極的に話しかけていくというのが出来なかった。だから会話の機会を日頃から伺っていたのである。肝心の会話が今出来ていないが、とりあえず私は偶然にも彼と話す機会を得たわけだ。
私は彼がなぜここへ来ようと思ったのか考えた。まさか彼の言うように、ただ散歩したかったからという理由ではないはずだ。修学旅行中に部屋を抜け出して外出するなんて、そんな軽い気持ちではしないだろう。実際抜け出した理由を聞かれた時彼は少し戸惑って誤魔化したように見えた。
それはもしかしたら自分と同じ理由なのではないだろうか。曖昧な寂しさを紛らすため。あるいは底知れぬ将来への不安を紛らすためではないだろうか。
そう推測はしたがそれを確かめようとは思わなかった。一度誤魔化したのは人に言いたくないことだからだろう。それ以上詮索して嫌われたくはなかった。
「なんだか、海って夜になると怖いよね。」
ヨミが口を開いた。
「え?」
「夜の海ってどんな感じかなって思って見に来たんだけど、真っ暗で何も無いみたいで怖い。」
真夜中の海についての、私と同じ感想を言った。
「うん。さっき俺も同じこと思った。光が反射しないから崖みたい。」
「崖…。」
私は気の利いた返事も出来なかったが、崖という言葉にヨミが反応した。ヨミの表情はいつのまにか曇っていた。それから私は、ヨミがホテルを抜けてきた本当の理由を知ることになったのである。
「え?どうかしたの?」
「……。」
ヨミは急にか細い口調になった。
「あっちの方にさ、崖があるでしょ。見た?」
「いや、見てない。何かあるの?」
「ここに来る前にちょっと見てきたんだけどさ、本当に見てきただけなんだけどさ…看板が立っててね。」
「看板…?何の?」
私は無頓着に聞いた。
「自殺防止の。やっぱりああいうのって役に立つのかな。」
「さあ。直前で思い留まるような変な人もいるんじゃない?」
「…うん。本当に効果はあるんだって思った。」
「……!」
そこまで聞いてやっと私は、ヨミがホテルを抜け出した理由、そしてヨミの言おうとしていることを理解した。なんてことを。私はなんて鈍い人間だったのだろう。私は半ば反射的に彼の細い肩を抱きしめていた。彼が何を苦悩していたのかは分からないが、私より何倍も深刻なのは明らかだった。
「えっ?お、岡崎?どうしたの?」
突然のことにヨミは驚いていたが私は手を離さなかった。ヨミも跳ね返そうとはせず、手を私の背中に回してきた。ヨミの体は風に吹かれて冷たかった。彼は一体どれくらい長く崖の上にいたのだろう。
つまりは、彼は遠回しに私に助けを求めたのである。
何らかの悩みを独りで抱え自殺まで考えたのを直前で思い留まり、今にも押し潰されそうになりながらここへ来たのだ。何日も前から独りで悩み続け限界まで耐えてそれでも他人に不満を言おうとせず、その上私が寝巻き姿なのを見て自分のジャンパーまでかけてくれたのである。なんて優しく心の広い人間なのだろう。
それに対して私はそれを察せずに危うく彼をさらに傷付けるところだった。私は自分の弱さと至らなさを恥じた。
私はさっきまでの自分の不安など忘れてしまっていた。私が彼を支えなければいけないという責任感だけが私の中にあった。
「ヨミ。」
「何?」
「崖に行く前にさ…絶対俺に言えよ…。その…何が出来るか分からないけど。」
「……そうする。」
雲に隠れていた月がいつのまにか、暗い海面にエメラルド色の光を落としていた。