前編
高校の修学旅行の最終日の夜、私はふと、ホテルを抜け出し砂浜を歩こうと思い立った。
そのとき私達は、見回りの先生が通り過ぎた後部屋で友人達と麻雀を打っていた。夜中だというのにワイワイと賑やかなもので、夢中になって牌を引いては捨てを繰り返し、誰かが勝ったり負けたりする度に拍手喝采の大騒ぎであった。いかにも男子校といった感じだろうか。
しかしそんな混沌とした騒がしさの中、私は唐突に、本当に唐突としか言いようがないほど唐突に、深い深い虚しさに襲われたのである。ざわざわしていた教室が何の前触れも無く突然静まり返る謎の現象を幾度も目撃していたが、それがちょうど私の心の中で起きたような感じだった。突然にして巨大な虚無感。その得体の知れない虚無感は、麻雀に興じていた私を一気に夢から現実へ引き戻したかのように冷めさせた。
もちろん先生に見つかれば酷く叱られるかもしれないとは思った。しかしこのまま遊んでいられるような高揚した気分では、もはやなかった。頭から冷水でも被ったように意識がはっきりして、周りにある何もかもが無意味な物に思えた。そしてその結果、さっきまで一緒に騒いでいた友人達さえも自分から遠く無機質な存在に感じたのだ。それはまるで自分と彼らとの間を分厚い水晶の壁が隔てているような深い孤独感だった。絵画の中に閉じ込められたような寂しい気分だ。部屋にいるのが息苦しい。かと言って眠気はなく、私は自分の他人には説明しがたいモヤモヤした感情をもて余した。ただただ独りになりたい気分であった。
部屋で麻雀に興じる友人達にはもう寝ると嘘を言った。友人達は「ふーん。」と言ってまた牌を取り始めた。
私は部屋を出てホテルの非常階段をゆっくり下りた。もう先生に見つかったって構うものか、と思いつつ足音はたてぬようにゆっくり下りた。しかし幸いホテルのロビーには誰もおらず、私は案外あっさりと出口にたどり着いた。
自動ドアが開くと、北海道の寒い風がスーッとロビーに吹き込んできた。寝巻きのままなのを少し後悔しつつ外へ出る。夜中なので真っ暗で外の灯りも点いていない。
私は軽く深呼吸してみた。冷たく澄んだ空気が肺を満たしゆく。心地よかった。とりあえず部屋の中の息苦しさはなかった。私は誰もいない寒い外の世界へ出ていった。
バスの停まっている駐車場の脇の階段を下りた。そこが海であった。夜の海はひたすらに広く暗く、まるで世界の端のようだ。波のさざめきが無ければこれを海ではなく崖だと思うかもしれない。私は砂浜に腰を下ろした。感傷的な気分に浸った。そしてどこまでも無限に広い黒曜石色の海を眺めてため息をつき、うつむいてしまった。
私は自分の感情を理解した。私はこの光景が見たかったのだな。この大きな暗闇ならば自分の虚しさを受け入れてくれ、気分を立て直してくれると思ったのだろうな。海に意思があるわけではないから正確には、ここへ来れば気分が良くなることを期待したのだ。
しかしそうはならなかったのである。何もかも飲み込みそうな暗い海のせいで私は孤独をかえって増大させた。
私はこの修学旅行の数日間のことを回想した。
北海道への飛行機の中で観た映画のことから、皆と歩き回った札幌の街並み、酪農体験で触れた大きな牛と広大な牧場、流氷の博物館なんかもあったし、ホテルの夕食は北海道の海産物が選り取りで今まで行った旅行の中で一番美味しいと感じた。
だがそれらが楽しかったのは何より、友人達との修学旅行だったからだろう。小学校も中学校も修学旅行はあったがこれで最後。高校を卒業したらもう二度と修学旅行という行事は来ない。もちろん知っていたがその時になって私はやっとそれを実感した。
私は友達は多くいた。クラスはいじめもなく皆仲が良かった。日本中探してもこんなに雰囲気のいい学級は無いんじゃないかと思う。中高一貫校だから五年間彼らと一緒に過ごしてきた。そのせいか私は彼らにとても愛着を持っていた。修学旅行を楽しめたのも当然そのおかげだ。
修学旅行に限らずいくつも思い出がある。そう言えば学園祭なんてのもあったな…。今年は焼きそばの露店を出した。学園祭はあと一回残っているがそれで最後だ。体育祭もあった。遠足も年に何回かあった…。思い出を挙げればきりがない。
今までこんなことを考えたことなんて無かったのに。漫然と日常を送ってきただけだったのに、その時はそれら全てがとても愛おしく思え、同時に、それらが二度とないことがとても悲しかった。麻雀をしていた時の突然の虚無感はこれだったのだ。麻雀を打っているこの夢の時間が永遠でないことを悟ったのだ。
友人達もそうだ。学生としての生活が永遠でないのなら、友とも永遠に一緒にはいられない。いずれ別れが来る。それは卒業かもしれないし、大学が同じなら社会人になることかもしれない。いずれにせよこの関係はいつか途切れるのだ。
あと何年もしないうちに何もかも夢のように終わってしまう。その虚しさを否定し消し去りたかった。だから私は海を見たくなったのだろう。しかしやはり海は黒い海面で私の感傷を嘲笑っただけで何の助けにもなりはしなかった。
暗闇の中、海はとにかく黒かった。それは虚しさと孤独に苛まれた私の心の内のようであり、同時に私の行き着く未来のようであった。
私は自分の将来を考えた。俺はこれからどうして生きてゆけばいいのだろう。将来の夢なんて無かった。と言うより思いつかなかった。決めろと言われたとして、そもそも自分に何ができるのか分からないじゃないか。
私は自分の未来が想像できなかった。他の友達は将来の夢なんてあるのだろうか。あるんだとしたら皆どこへ行ってしまうのだろうか。逆に考えれば、友達と離れる離れないを考えるだけで一喜一憂する自分など彼らから見ればただ女々しい弱虫なだけなんじゃないのか。
そう考えると絶望感が襲った。私は顔をあげ海を見つめた。海からナイフが刺すように冷たい風が私に向かって吹いてきた。すると一つの情景が目に浮かんだ。
暗い広い広い海に私一人だけがポツリと取り残され、その周りには誰もいない。私の周りに存在するものは何もない。ただ孤独だけがそこにある。
私は傍らに落ちていた石を拾い上げるとその手を高く振り上げ、それを海面に叩きつけようとした。聞き覚えのある声が聞こえたのはその時であった。
ワイワイ騒いでる時に突然、霧が晴れたように意識がはっきりしたり悟りを開いたような謎の気分になることってありますよね。
無いですか?俺だけですか、そうですか。
兎にも角にも短い小説二つ目です。前編後編の2部しかないですが、感想、批判、批判、罵詈雑言、何でも今後の参考になるので書いて頂けたらすごく嬉しいです。