第二章「アルデュイナ魔術学院」 3
東西南北の方角にそれぞれ建ち並ぶ四つの学院塔。
それらの対角線が交わる中心部に設けられた共有塔の二階。
総生徒数約三千人が在学する学院の食堂はいつものことながら、多くの生徒たちでごった返していた。
おばちゃんたちが自慢の腕を奮った学食のランチは生徒間でも絶大な人気を誇っている。
毎日、日替わりメニューとして用意されるランチには飽きが来ず、どれも舌を唸らせる絶品料理ばかりだ。席を確保するだけでも一苦労である目の前の光景はもはや戦場そのものである。
幸い教室を真っ先に飛び出したエレナが透かさずお得意の影魔術でこの人並を潜り抜け、逸早く人数分の席を確保してくれたおかげで難なく落ち着いて食事にありつけそうだった。
当のエレナは四人分の席を前に「ふぅ、いい仕事したよ~」と、とても満足気な表情を浮かべている。
雷斗が席番を買って出てくれたので、時雨、リンネ、エレナの三人は一足先に学食の注文コーナーで本日のメニューなどが書かれた立て掛け式の献立板を前に考え込んでいた。
「今日の日替わりランチは豚肉の生姜焼き定食か。スタミナ抜群で美味そうだな」
「たしかに日替わりも美味しそうだよね。だが、しか~し! 私は、学食と言えば親子丼と決まっているんだよ! あのとろ~りとした卵と鶏肉のしっかりとした歯応え。鶏肉ということもあってヘルシーで女子には病みつきの一品だよ」
時雨とリンネがそれぞれにメニューを決めたなか、リンネは注文表にずらっと並ぶ魅力的な品々に釘着けになっていた。
「はぁ、これ美味しそう。でも、あれも美味しそうですし、ああ、そっちのもいいですね。う~ん……」
独り言のようにぶつぶつと呟くリンネに時雨はある提案を持ちかける。
「リンネ、一気にこれだけの料理を食すなんてことは不可能だぞ。今日のところは一つで我慢して今後の楽しみにしたらどうだ? しばらくは俺が奢ってやるし、何なら俺の生姜焼きと半分交換して二種類の料理を半分ずつ食べるってのでもいいぞ?」
「え、いいのですか?」
「あぁ、リンネが構わないなら全然問題ないぞ」
「じゃあ、私が選ぶメニューは時雨も食べたいものがいいですよね。これなんてどうですか? すごく美味しそうですよ」
リンネが指差したのは結構大きめの丼にイクラとウニを豪快に盛り付けた海の幸を堪能できる海鮮丼。ちょっと値段が張るものの学食のおばちゃんの計らいで最大限の低価格設定で提供されているため、お買い得であることは間違いない。
「そうだな。俺も食べる機会とかあんまりなかったし、海鮮丼と豚肉の生姜焼きってことでいいな?」
リンネは期待に胸を膨らませた眼差しを向けてこくこくと頭を縦に振って頷いた。
時雨たちは長い列の最後尾に並び、各自トレイを手に取って自分の注文した料理を待つ。
厨房裏での手際の良さが光ってか列はスムーズに流れ、時雨たち三人は各自が注文した定食及び丼をトレイに乗せて雷斗が席番をしてくれているテーブルへと引き返した。
雷斗は時雨たちが帰ってきたのを確認すると入れ替わるように、人混みの中へと進んでいく。
テーブルの上に並べられた料理はどれも美味しそうで食欲をそそる。
昨日まで時雨は【依頼任務】で深い森の中を越えて特区外まで依頼を受けに行っていた。そのため、簡単な栄養食品ばかりを口にしていたこともあり、ちゃんとした食べ応えのある食事は久しぶりなのである。
リンネもひどく待ち切れない様子で、箸を片手にまだかまだかとうずうずし出して海鮮丼と豚肉の生姜焼きを交互に見詰めていた。
しばらくして雷斗が鯖の味噌煮定食を持って戻ってきたところで、一同は眼前に用意されたそれぞれの料理を咀嚼する。
「うま~。トロフワ卵とじと鶏肉の相性が抜群だよ~♪ 絶妙な幸せ加減♪」
うっとりとた様子でまったりと目を細めてエレナ。
「この鯖の味噌煮、学食のおばちゃんの温厚な心を感じる旨さだな。安心する味と言うべきか。味噌汁が薄口なのがまた良い感じだ」
味噌汁のお椀を持ってしみじみとおばちゃんの愛を噛みしめて雷斗。
「おっ! この生姜焼きも中々美味しいぞ。下味がしっかりと付いてて食べ応えがあるな。豚汁も丁度良いサイズにごぼうやら大根やらがカットされていて食べやすい。恐るべし学食のおばちゃん。これが真の女子力ってやつか」
豚の生姜焼きを咀嚼し、豚汁を啜ってバランスの取れた定食を眺めて感心するように時雨。
「はわぁ~。何ですかこの美味しさ! こんなの食べたことないです! 口の中いっぱいに色々な食感と旨味が広がって幸せすぎます! ふぅ、海鮮丼なるもの、これは革命的料理ですね。メモメモっと」
初めて食べたようで「驚愕の旨さ!」と絶賛したかと思えば、どこからともなくメモ用紙を取り出し、何やら真剣な趣で書き始めてリンネ。
それぞれに満足の声を洩らし、食欲をそそってか揃って箸が速やかに進んだ。
時雨とリンネは互いが半分程の量まで平らげたところで食器を交換する。
すると、リンネが急にもじもじとした様子でこちらを一瞥したかと思うと、顔を赤らめるようにして口を開いた。
「これ……よく考えたら間接……キスなのでは……」
微かに零したその言葉は時雨の耳に届くことはなかったが、リンネは自分で声に出して発音しただけで先程以上に顔が火照ってしまっていた。
「おい、大丈夫かリンネ! なんだかすごい顔が赤いぞ?」
「いえ、そんなことはないですよ? 平気ですよ、大丈夫ですよ? 時雨ったら大袈裟ですね。あー、今日はなんだか暑い日ですねー、あはは」
リンネは見るからに慌てた様子だったが、本人は何事もないかのように手をぱたぱたとさせて「暑い、本当に暑いなぁ、今日はー」と棒読み口調で誤魔化すように風を仰いでいる。
対して時雨は「そうか? まぁ、水分補給は一応しとけよ?」とだけ返して、まだ口をつけていない自分の分の水をリンネに差し出し、平然と海鮮丼に手を付け咀嚼を始める。
そんな二人を反対側の席から眺めていた雷斗は、何食わぬ様子で親子丼をもぐもぐと幸せそうに堪能するエレナにぼそっと呟く。
「あれって、どう考えても間接キスなんじゃないのか。呑気に親子丼食ってていいのか自称時雨の嫁さん?」
「ふっふ~ん、私を侮らないでほしいね。私は許容あり、包容力あり、気品ありの理想の妻三大要素を網羅する有能な逸材なんだよ。そんな間接キス程度のことで嫉妬なんてしたりしないよ!」
エレナは悠然とそう答えると、長く纏めた方の髪を片手でふぁっさと払い、お嬢様のつもりなのか胸を張り出して凛とした姿勢を取り始めた。少々、ドヤ顔気質なところが妙に癪に障る感じだ。
「まぁ、包容力はともかくとして実際少なくとも許容や気品といった言葉はエレナとは縁遠いものだろ。どこぞのお嬢様かは知らないが、その仕草もとことん似合ってないな」
「えぇー、ひどいなぁ。私ってそんなに気品がないかな?」
「有るなしで言えば百人中百人が、なしと答えるだろう」
「加えてひどいよ! いくら楽天的な私でもさすがにへこむよ!」
雷斗は時雨をからかう時と同様に動揺するエレナの反応を見て細々と嗤っている。
リンネと取り換えた海鮮丼を時雨が咀嚼していると、エレナは机に身を乗り出すようにして「シグレは私の味方だよね!」とすごい剣幕でよく分からないことを言う。
おそらく自分の知らない間に雷斗にからかわれでもしたのだろう、と時雨は自己解決をして「……あぁ、そうだな」とだけ呟いて適当に言葉を返した。
すると、エレナは席に落ち着くなり突然長く束ねた方の髪をふぁっさと払い、お嬢様ポーズを決め始める。
まったく理解が追いつかない時雨は何も見なかったように豚汁をすすった。
五臓六腑に染み渡る感覚に浸っている間も、幾度とお嬢様のように振る舞うエレナだったが、時雨はひたすら無視を決め込むことにする。
最終的に、隣に座っているリンネが「エレナさんは先程から何をされているんですか?」と奇異とも取れる行動に対して真面目に訊いて来るので、さすがに痛々しくも思えてしまう。
以前にも似たようなことがあり、「ノンストップ! エレナさんは、構ってくれるまで同じ動作を何度だって繰り返し続けるよ!」と理解不能な決め台詞を吐きながら二時間近く迫られたこともあったが、無視するのを通り越して存在自体を消去していたことに、泣きじゃくりながら「ほんの少しでいいから興味示してよ~」と懇願してきたこともあった。
どれだけ構ってほしがりなのかを正直疑ってしまう程のしつこさがあるが、どこか憎めない愛嬌のようなものもあったりで、気づけばいつの間にかエレナのペースにはまってしまう時雨は、いつも結局その話に耳を傾けてしまうのだ。
そして今回もそんなエレナに呆れながらも、ふと口が開いていた。
「で、さっきからのソレは一体何なんだ?」
「ライトがワタシには、気品が全く感じられないって言うんだけど、どうかな? 時雨にはワタシのこの貴族の令嬢を思わせる優雅な雰囲気が伝わってるかな?」
エレナは期待を膨らませるような瞳で時雨を見詰める。
「いや、気品どころか……なんかバカっぽい?」
「え、バカっぽい? そんな……ワタシが絶対的信頼を寄せるあのシグレフォーカスですら私の溢れんばかりの気品が感じられないなんて……」
「もうシグレフォーカスとか言ってる時点で十分にバカっぽい、と思うぞ?」
「リンネはどう思う?」
生姜焼きをちまちまと咀嚼していたリンネに対し、もう一度先程の一連の動作を繰り替えして見せる。
酷評が続いてもう後がないのか、さすがにエレナもごくりっと喉を鳴らす。
すると、リンネはやれやれといった様子で首を横に振った。
「全然なっていませんね。私が本物を見せて差し上げましょう」
味噌汁をさらっと流し込むと、リンネはゆっくりと席を立ってドンと構えてから腰まで伸びる透き通った空色の髪を撫でるように払った。
瞬間、翻った空色の長い髪がふわりと流れ、光が乱反射を起こしたかのように光の粒子が瞬き、花のような優しい香りが宙を舞って三人の鼻腔をくすぐる。
あまりの優雅さに気付けば食堂にいたほとんどの視線がリンネへと集まっていた。
エレナすらも恍惚とした様子で硬直していたが、やがて自分とのあまりもの差に打ちひしがれたのか愕然と肩を落としてわなわなと震えていた。
リンネが「どうです?」と感想を促してきたので、時雨は「すごく綺麗だ」と短めに述べると、リンネはいつも通りの赤面癖を発揮して静かに席に座り直した。
雷斗がすっかり落ち込んだエレナの肩に手を置き、「ドンマイ」とだけ言って励まそうとしていたが、その姿はどう考えても悪意に満ちていた。表情を見た限りでも十分に面白がっている様子だ。
それに対して、エレナの机に頭を打ちつけるようにして倒れ込む姿は、完全に燃え尽きた敗者のように儚かった。
事の発端はエレナ本人であることから、自爆にも等しい結果なわけだが、自称『許容あり、包容力あり、気品ありの理想の妻三大要素を網羅する有能な逸材』の三大要素の一つ『気品』に関して散々であることが証明されてしまい、何とも悲しい結末である。
その後、昼食を平らげた時雨、エレナ、リンネは学院の案内を兼ねて院内を巡回することに、雷斗は何やら大事な用があるらしく別行動するということになり、午後の講義が始まる十分前にも関わらずごった返す人並を掻き分けて食堂を出ると軽く手を振りあって雷斗と別れた。