第一章 「天使降臨」 2
アルデュイナ魔術学院。
世界に幾多と存在する核心術育成機関の一つだ。
核心術とは一般的に、魔術、妖術、忍術、神術、獣術、科技術、召喚術、呪術の八つの術を総称したものとされている。
それらの核心術はそれぞれに違った特性を持ち、術者の絶え間ない鍛錬と応用次第で汎用性をどこまでも高めることが可能である。
一般的に、一人の人間が会得できる核心術は原則として一つとされ、《核心術の才覚》が発現する時期に至っては人により個人差があり、各々がどの核心術に目覚めるかは《核心術の才覚》が発現してみるまで分からないと言われている。
また、核心術は専門家の間で天術とも呼ばれ、神が人間に分け与えた特殊な力であると言う説もあり、個人の体質や家系の血筋等がその《核心術の才覚》に大きく起因するものだと考えられている。
核心術育成機関はそれぞれの専門分野に特化したカリキュラムに分かれ、未来に活躍できる有能な術者を育てるための施設として運営されている。
ここアルデュイナ魔術学院は、文字通り魔術に特化した施設として知られている。
学院によって、その授業方針は異なるが、アルデュイナではランク制というものが適用されている。基準は大きく分けて、妖精級、霊獣級、騎士級、術者級、天使級の五段階で表される。
それぞれのランク付けは、この学院に入学する際に実施された実力試験により決定されることになっており、与えられたランクは、学院での活動成果や能力の向上、年に一度だけ催されるランク昇格試験によってランクアップすることが可能だ。
だが、最高ランクである天使級は、通称《神童八器》と呼ばれ、世界でも限られたものだけが到達できる領域だと言われている。
現在では、八席のうち六席が埋まり、空席が二席という状態に落ち着いている。
彼らは世界でも活躍するエリート術者たちだ。
少なからず、学院に通う生徒たちの憧れの存在であることは間違いないだろう。
妖精級ランクに格付けされた、天枷時雨もそんな《神童八器》に憧れる生徒たちのうちの一人である。
あの後、なんとか担任の講師が来るよりも前に学院長室から教室に駆け込むことができた二人は、軽く呼吸を整えてから自分たちの席に着いていた。
クラスの連中には、色々な顔ぶれがいる。
妖精級ランクと霊獣級ランク、騎士級ランクに術者級ランク。
このアルデュイナ学院では、入学仕立ての生徒である一期生からその先輩方にあたる二期生、三期生、四期生のクラスがフロア別に四つずつ設置されているが、各クラスに配属された生徒たちのランクは一種に留まらず様々に振り分けられている。
どうやら、シャルデオ学院長の意向によれば、異なるランク同士が同じ環境にいることで、相対的力場が発生し、生徒たち個人の潜在能力を効率よく引き出してくれるらしいとの考えがあってのことらしい。
実のところ真偽に関しては謎であるが、学院長が言うのであればそうなのだろう。
間もなくして前の方の扉が開くと、担任の講師が姿を現し教室の中は途端に静かになる。
出席名簿に目を通しながら、担当講師はいつもの段取りで点呼を行う。
そこから、今日の講義に関する注意事項や先生のちょっとした小話を挟みつつ、ホームルームが終わろうとしていたその時。
「えぇと、突然ですが、今日からなんと! このクラスに編入生が来ることになりました!」
「「「おおおおおおぉぉぉ!」」」
編入生という言葉にクラスの連中は歓喜の声を上げる。
「編入生だってさ、シグレ」
後ろの席のエレナが人差し指でつんつんと時雨の腕を突きながら楽しそうな様子で言う。
「なんだか嬉しそうだな」
「それはそうだよ。もし、美少女が編入でもしてきたら大変だよ?」
「ん? 何が大変なんだ?」
「もしも、シグレに色仕掛けをしようものなら、私の陰影魔術で軽く三途の川を見て来てもらわないといけなくなるってことだよ、うふふ♪」
「いや、怖いから。更に言うと愛が重すぎるから……。編入生がいきなり不登校にでもなったらどうする気だよ」
時雨が渋った表情を浮かべて答えると、エレナはきょとんとした様子で――――――
「え? どうもしないよ。当然の報いだよね♪」
「……そうか。がんばれよ」
こうなったエレナには何を言っても無駄だ。
全身からどす黒いオーラを漂わせているのが何となくだがわかってしまう。
エレナとは、幼い頃からの付き合いであるだけに感情の起伏が激しいことを時雨は熟知しているつもりだ。
現に、満面の笑みを見せながらも、編入生が入ってくるであろう扉の方をまるで兎を狩る虎のように睨み付けている姿は、相変わらずだと言わんばかりである。
「でも、気をつけろよ。逆にエレナが痛い目に合わされる立場になるってことも無いわけじゃないんだから。あんまり恨みを買われないようにしろよ」
「え、それってもしかして私のこと心配してくれてる?」
「……まぁ、付き合いも長いしな。そりゃあ、心配くらいはするだろ」
時雨がそう答えると、エレナの黒いオーラが花を咲かせたように明るくなり、両端の左右非対称に結ばれた髪がぴょこんと嬉しそうに跳ねる。
「ふふ。やっぱりシグレは私の嫁だ! シグレ好き好き愛してる~!」
「誰が嫁だ! 誰が女の子みたいだ! そして、くっつくな!」
「シグレは男子というより女子のような顔立ちしてるからね。肌もすべすべ~」
「だ、だから、エレナ近い! 顔が近いってば!」
「ほほぅ。これが百合ってやつか。朝から仲睦まじいスキンシップだな。がんばれよ時雨!」
エレナが時雨に頬ずりをしながら甘えていると、隣の席に座っていた茶髪で毛先の尖ったツンツン頭と首から提げたプラチナ製のヘッドフォンが特徴的な男子生徒・雨宮雷斗が何やら感慨深そうに腕を構えると、親指を立てて呟いた。
「雷斗、傍観してないで助けてくれよ」
「いいじゃないか。スキンシップはお互いを知る上でもとても大切なことだ」
「いや、それ付き合いの長い俺たちに至っては関係ないだろ!」
「……時雨。お前が真に男ならこの状況は嬉々として喜ぶべきだ。抱き返したところで罰も当たらないだろう。だがもしも、お前がクールな男だとするなら、この程度のことで動じることはないよな」
「……クールな男」
時雨はその言葉に目を輝かせると、凛とした姿勢になり平常心を保とうとする。
だが、如何せんエレナの顔が近いため、長い髪からシャンプーの甘い香りが漂い、時雨の鼻腔をくすぐる。
普段では意識こそしないが、エレナは一般的にスタイルもよく元気で明るい美少女だ。
平常心を意識するあまり、返って可笑しな感覚に捕らわれ始めていた。
「おい、時雨大丈夫か? なんか茹で上がったタコみたいだぞ?」
「……大丈夫だって。クールな男ならこのくらい余裕だ」
「やは~。照れてるシグレもまた可愛いな~」
「…………」
「エレナさんとっても幸せだよ~。スリスリ~、スリスリ~」
「……すまない……エレナ、もう勘弁してくれ」
時雨が白旗を上げるように呟くと、エレナはとても満足気な様子で開放してくれた。
そんなとき、クラスの連中の声がふと時雨の耳に届く。
「(時雨×エレナ、やっぱりこの組み合わせはいつ見ても萌えるわね)」
「(あぁ、エレナが攻めで時雨さんが受けだな。実に良い光景だ)」
「(いや、オレ的にはその逆ってのも見てみたい気がするぞ?)」
「(何言ってんだ! 時雨さんが断然受けに決まってんだろうが!)」
口々に紡がれる妙な会話。
(……クラスの連中の俺への認識が完全に間違っている気がする)
自分自身、女らしい外見をしていることは十分に理解しているつもりだ。
だが、時雨はそのことをひどく気にしている。
できれば、あまり聞きたくはなかった話だ。
時雨はなるべく意識を遠ざけるようにして窓の外に視線を移した。
(あぁ、今日も空が青いな)
時雨は現実逃避を決め込んでゆっくりと空に漂う雲を眺め始める。
青い空に浮かぶ白い雲を見ていると、なぜだか少し気持ちが落ち着くようだ。
時雨が、意味もなく雲の数を数え始めようとしたところで、担当講師は制するように手を叩いた。
「みなさん静かにしてください。転入生のためにも適切な空気というものを作ってあげましょう。それと、大変緊張していると思いますので、暖かく迎えてあげて下さいね。それでは編入生さん、入ってきてくださいな」
講師が合図をすると、扉が自動的に横に滑り始める。
扉が開くと同時、編入生は少しそわそわとした様子で教室に足を踏み入れた。
海のように深くも色鮮やかなサファイアの瞳。
ぱっちりとした女の子らしい眼に、小柄ながらも整った健康的な肢体。
腰まで伸びた長い空色の髪は、鈴の付いた髪留めでツーサイドアップで纏められている。
少女は、教卓に佇む先生の側まで来ると、黒板に魔法で名前を書いてこちらに振り返った。
「初めまして。私の名前はリンネ・アス・レイヴィアと申します。皆さん、これからどうかよろしくお願い致します」
リンネと名乗った少女は、自己紹介を済ませると皆の方に軽く一礼をして顔を上げる。
すると―――――
「「「おおおおおぉぉぉぉ!」」」
「なにこのすっごい美少女! 髪の毛さらさら~」
「まるで、お人形さんみた~い」
「超可愛い! てか、可愛すぎ! 神様ありがとう!」
「よくぞ、俺たちのクラスに来てくれた!」
再びクラス中が歓喜の声に包まれる。
最後の学院生は喜びのあまり涙まで流すありさまだ。
いつ間にか賑やかな雰囲気になっていることに気付いた時雨は、視線を窓の外か
ら黒板の方へと移した。
そして――――
「なっ!」
時雨は一瞬、目を疑うかのような光景に変な声を洩らしてしまう。
サファイアの瞳に、空のように澄んだ髪色をした特徴的なワンサイドアップ。
見間違えるわけがない……。
あの日、時雨が気を失ったあの夜の日。
竜神に神楽を奉納するために、森に術式結界を施していた巫女服を身に纏った少
女。
その彼女が今、自分と同じ制服を身に着け目の前に立っている。
……なんで、あの子がこの学院に。
時雨は、あの日の夜のことを鮮明に覚えているわけではなかった。
ただ抽象的に、断片的な記憶が残っているだけだ。
あの日、竜神と出会い、彼女と出会い、そこで何があったのかは覚えていない。
だが、彼女が神楽を踊っていたことは覚えていた。
それは、彼女が神に携わる人物であることを示しており、なお、竜神と接触できるだけの親密な関係性にあったということを物語っていた。
それに、あの高度な術式結界。
彼女はあの夜、一級の術者にしか扱えないはずの術式結界を展開していた。
おそらく、術者級あるいは天使級に匹敵する力を持った人物であることは間違いないだろう。
だが、リンネ・アス・レイヴィアという名前は《神童八器》の中でも聞いたことがない。
ただ一点だけ気がかりがあるとするならば、魔術結界の崩壊を招いてしまったことだ。
神楽を妨害してしまった責任を時雨は十分に理解している。
本来、神様に奉納するための儀式である神楽は、巫女などの神儀に精通した者が端麗な舞いを踊ることで清らかな魔力を供給する働きをしており、それによって神様の蓄積した疲労や汚れを癒し浄化するために行われる祭儀である。
それがもし、中途半端な形で中断されたとなれば、神様にそれなりの負荷が掛かったはずだ。
その後、竜神がどのような影響を受けたにせよ、当事者には一度ちゃんとした謝罪をしなければならない。
彼女がこの学院にどんな目的があって訪れたのかは正直なところ定かではないが、これだけはしっかりとけじめをつけなければいけないことなのだ。
「じゃあ、リンネさんの席は、エレナさんの隣の席ですね。一番後ろの窓から二番目の席になります」
「ご丁寧にどうもありがとうございます」
リンネは先生に軽く頭を下げると、エレナの隣の席まで歩き始める。
無論、その通過点に時雨の席もある。
時雨は妙な緊張感に駆られ、リンネがこちらに近付いて来る度に動機が激しくなる。
そして、リンネが時雨の席の隣を通過しようとした、その時――――
「あ、あの!」
「は、はい?」
時雨は気が付くと、起立の動作と同時にリンネを呼び止めていた。
リンネも突然声を掛けられたためか非常にびっくりした様子だ。
だが、時雨はどうしても彼女に確認しておきたいことがあった。
「俺のこと、覚えてるかな? 昨夜、精霊の森で会ったと思うんだけど」
恐る恐る尋ねてみると、リンネは姿勢を正してから時雨の眼を真剣に見つめ、しばらくしてから多少の笑みを浮かべて口を開いた。
「はい。覚えていますよ。あの時は本当にありがとうございました」
リンネは深々と頭を下げてから顔を上げると、にこっと笑う。
その愛らしい表情に時雨は思わずドキッと脈を打った。
そして、次の瞬間。リンネはほんのりと顔を赤らめて――――
「私もあんなことは初めてで、少しばかり取り乱してしまいましたが、あなたが私のために誠心誠意を尽くしてくれて、人と交わるというのは正直初めてだったのですが、初めての相手があなたで良かったと思っていますよ」
照れたような仕草で時雨のことを見詰める。
「(……え、初めてって?)」
「(誠心誠意尽くした……だと?)」
「(人と交わるって……まさか時雨さん、転入生とそういう関係?)」
「(エレナさんに加えて、あんなおしとやかそうな女子まで)」
「(これは、新たなカップリング誕生なのか? 誕生してしまうのか?)」
「(この場合、あの子が受けで時雨さんが攻めかしら?)」
教室が騒がしい空気に包まれ、盛大な勘違いを含んだ会話がヒソヒソと聴こえてくる。
またもや、時雨が女子ということになっているが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「悪い。ちょっといいか」
「え?」
時雨はリンネの手首を強く握る。
リンネはいきなり触れられたことに驚いたのか、更に顔を真っ赤にしていた。
時雨は半ば強引にリンネの手を引き、後ろの方の扉から教室を出ていく。
すると、再び生徒たちは「愛の逃避行だ」とか「強引な時雨さんも素敵」などと適当な会話で盛り上がり、教室は一層賑やかさを増した。
「いやぁ、あそこまで動揺した時雨を見るのも久しぶりだな。まぁ、相手は美人だし仕方ないかもしれんが」
この状況を傍観者のごとく眺めていた雷斗は、何やら楽しそうな表情を浮かべて呟いた。
「これはうかうかしてられないな、エレナ……って、もういないか」
雷斗は、エレナを焚き付けるかのように言葉を吐いたが、いつの間にか彼女の姿は席になく忽然と消えていた。それを確認した雷斗は、これまた面白いことになるぞ、といった様子で顔が綻ぶ。
「これは修羅場到来だな」
ホームルームは結局グダグダのまま終了となり、担任の先生も「青春ね」の一言でこの場を片づけて、教室を後にする。
そして暫くの間、時雨、エレナ、リンネの欠けたクラス内で三角関係についての議論が開始されることとなった訳だが、時雨はそれを知るよしもない。
◇
アルデュイナ魔術学院から遠く離れた土地。
そこは、朝方にも関わらず一切の陽光も差し込まない暗がりに満ちていた。
昔は村として機能していたのだろう。古びて崩壊した建物らしき跡形には、びっしりと苔が張り付いている。
木々はひどく枯れ果て、地面には雑草が往々と生い茂り、多くの化学物質が入れ混じったような歪な臭いが辺りを充満していた。
当然、生物が活動を行える環境ではなく、暗黒とも言える空間はただただ静かだった。
その中で特別目を引くものが、廃墟の残骸を掻き集めて建てられたかのようなみすぼらしい建造物だ。長く伸びたツタが石材の合間を縫って絡みつき、外装はいつ崩れてもおかしくないほど傷んだ雑な造りとなっている。
それでも形を保っていられるのは、建造物を取り囲むようにして地に掘られた魔方陣の働きによるためであろう。
内装には、ボロボロになって使用されていない古びた暖炉。
表面の革が破けてしまい内部のバネやら綿やらがだらしなく飛び出したソファー。
消えかかって点滅を繰り返す電灯。
幾つか脚が欠けて斜面を作るように放られた木製のテーブルや椅子。
床にはカップや皿といった食器類が破片となって散らばっている。
生活観のない現状。これは家という形式を模ったに過ぎない。
建物の地下―――――そこに彼らはいた。
地上よりも深い暗闇の中、小さな灯りだけが周囲を照らしていた。
辺りには重要そうな参考資料や研究論文の用紙が数多く散乱し、鉄製の棚には危険そうな薬品やら機械の部品やらが収納されている。
猫背な姿勢と白衣が特徴的な男は、紫色をした不気味な薬品を入れた試験管を片手に持ち、卓上にある手の平サイズほどしかない小さな機械を眺めて立っていた。
男は、静かに試験体に入った液体をその小さな機械に流し込む。
すると直後、機械は薄い膜を自動的に形成して機体に触れさせることなく液体を弾いていく。
「完成……した」
男は不敵な笑みを浮かべながら呟く。
機械を優しく両の手に乗せると、輝きのない灰色の瞳で色々な角度から眺め始める。
「装着型拡散磁場機構、絶対防壁。光沢良し。性能良し。はぁ……非常に怠かったがなんとか完成したようだ」
男は気怠そうなため息を吐きながら機械の再確認を終え、浮かれているのかいないのか判断の付かない様子で撮影端末を手に取り、小型の機械を顔に近付け記念写真を取る。
「……堪らなく怠いが、今度はポーズでもつけて取ってみようかな」
男がふざけた姿勢を構えようとした時―――
「奏夜様。TODⅢ、只今帰還致しました………これは一体何を為されているのですか? 正直に申し上げます。現在のお姿の奏夜様はまるで腐敗した醜いゾンビのようです。悪ふざけも大概にしてください」
暗闇の中。奏夜の背後から甲冑や兜、ガントレットに身を包んだ小柄な少女が瞬間移動をしたかのように突然姿を現した。
透き通るように綺麗な白髪は腰当たりまで長く伸び、エメラルドのように輝く瞳は思わず目を引くほど美しい。
ただ、頑なな無表情を浮かべて冷ややかな視線で奏夜を見詰めていた。
強烈な指摘を受けた奏夜は、手に握っていた撮影端末を動かして先程撮影した写真の履歴を確認するなり顔を顰めた。
「……あぁ、本当だ。これは確かに少しキモいな。なんで私はこんな面倒な体勢を取ってまで撮影などしていたのだろうか……はぁ、済まない。話を続けてくれ」
「……まず姿勢を正してください。先程も申し上げました通り気色悪いです」
「……あぁ、本当だ。眼に毒な姿勢で話などできるはずもなかったな。済まない。だが、意外に慣れるとこの体勢の方が楽かもしれん。君もどうだい?」
「三度も言いませんよ。後、三秒でその腰を砕きます」
無表情の彼女の言葉には妙な威圧感が込められている。
構えを取り始めるTODⅢを見るなり奏夜は慌てたように顔を歪める。
「……悪かった、ほんの冗談だ。私も腰をやられては困る。姿勢を正すというのは正直疲れるがきちんとした姿勢を心掛けようではないか」
奏夜が普段の姿勢に戻ると、TODⅢは構えの体勢を崩した。
奏夜はひと息吐こうと、白衣の右胸のポケットから煙草を一本取り出すと、人差し指からライターのように火を出現させ、煙草の先端に火をつける。
「で、どうだった?」
「はい。標的はどうやら地上に降り立った模様です。現在、アルデュイナ魔術学院が保有する街・コルネリウスにて潜伏中なのを確認済みです」
「そうか。ついに……ついにこの時が来たのだな」
奏夜は白い煙を外に吐き出すと、卓上に視線を移し超機密事項の資料を眺めて不敵な笑みを浮かべる。輝きを失った瞳には不気味な闇が混沌と渦巻いていた。
まるで、先程とは別人のような殺気にも似た狂気を感じさせる。
「ひひひ、あの方もさぞやお喜びになるだろうな。彼女が地上に降り立つことは必然の断り。時の歯車は再び進み始めた」
奏夜は手に握りしめた小型の機械を自分の手首に装着すると、白衣をはためかせて振り返る。
その瞬間、奏夜の白衣は黒色に染め上がり黒衣となり、奏夜の瞳は血走ったような真っ赤な色へと変化していく。
口に咥えていた煙草も突然炎を上げて、黒い灰となって床に散っていった。
そして、口が裂けるように笑みを浮かべた奏夜は、資料にある標的の名を口にする。
「さぁて、始めようか……リンネ・アス・レイヴィア……天使狩りの時間だ」