第五章「異端の天使」 8
「――――《破壊》」
核心術の効力を受けて、厚い装甲に覆われた少女の手が紫色のオーラを纏って発光する。その魔の手は瞬きをする間にグッと距離を詰めて伸び、気付けばリンネの眼前まで差し迫っていた。
――――このままでは、回避が間に合わない。
今から身を捻じって回避を試みたとしても、運が良くて致命傷……最悪、生命活動の停止に繋がるであろうことは、おそらく必至だろう。
だが、躊躇している時間などない。もう既に脅威は目の前まで迫って来ている。
リンネは早々に追い詰められた状況でTODⅢの一撃を躱すことが不可能であると悟ると、咄嗟に地面を強く蹴って後方へと跳躍し、敵との距離を僅かに稼ぎながら自身の懐に素早く手を伸ばした。
すると、同時――――TODⅢの《破壊》を帯びた右腕は確かな手応えと共にリンネの胸部辺りを捉えると、大きな破砕音を轟かせ、派手な爆発と爆風を生んだ。
あまりの衝撃に周辺に散らばっていた小型の研究機材が爆風によって巻き上げられ、設置型の大型機材でさえも、機体の大半を酷く損壊させて大きく揺らぎ傾く。
長い年月を掛けて開発してきたはずの研究機材が無惨な姿となって宙を舞う光景を前に奏夜は項垂れるどころか紅い眼をギラギラと滾らせながら、恍惚とした表情で口の端を吊り上げ不敵に嗤った。
それは、まるで全てを蹂躙する圧倒的なまでの力を誇示するようにも見え、この《天使創造計画》において、もはや崇高対象であった《本物の天使》と自らの術によって創り出した最高傑作である《人工天使》との戦いの行く末がどのような結果をもたらすのか、その一点にしか興味がないようにも窺えた。
霧雨奏夜という研究者にとって、最も大事なのは積み重ねてきた過程や努力ではなく、あくまで現在や未来といった予測不可能な状況下における強い影響力――――《結果》が何よりも最優先とする事項に他ならないのだ。
例え、この場で幾多の研究機材が跡形もなく木端微塵に姿を消したとしても、それは彼にとって些末な事でしかない。
そう、一度失われた『物』は、また必要となった時に再び創り出してしまえば良いのだから……。
「……手応えはありました。ですが、実に妙な感覚です」
「ヒヒッ、まぁ、世界の守護者たるあの天使様がそう簡単にやられる訳はネェよな?」
TODⅢは先程リンネに対して《術》を発動した際の感触を確かめるように厚い装甲に覆われた右手をにぎにぎと繰り返す。
やがて、TODⅢの発動させた《破壊》より巻き起こった粉塵が次第に晴れていくと、奏夜は視線の先に広がる光景を前に、より一層口の端を吊り上げて愉快そうに嗤う。
「……《式札―御霊の加護―》。加えて、《神式札―式神召喚・九尾》」
「ヒヒッ、コイツは驚いた。天使様は《精霊術》なんてものもお使いになられるんだナァ?」
咄嗟の機転により、TODⅢの《破壊》を間一髪のところで防いだリンネの眼前には一枚の綻び掛けた式札による防御結界が展開されていた。防御結界の損壊こそ激しいものではあるが、ひとまずリンネは致命傷を受けずに済んでいる。
そして、その傍らには防御結界を展開すると同時に懐から取り出したもう一枚の式札によって出現した《狐》の容姿を持つ《守護精霊》が主であるリンネの身を護るかのようにどっしりと構え、九本もある黄金色の尻尾を逆立てながら敵である奏夜とTODⅢを認識すると、鋭い獣の眼を敵に向けて威嚇するかようにキッと睨みを利かせていた。
「ごめんね、九尾。突然の呼び出しに応じてくれてありがとう。お願い、私に力を貸して」
リンネが九尾の背に優しく触れながらそう言うと、九尾は主であるリンネの呼び掛けに応えるように九本の尻尾を左右にユラユラと揺らし、首をコクっと軽く縦に振って頷く。
「……敵ながら、もふもふでなんとも可愛らしい精霊、ですね」
「アァ? そうは言うが、相手は完全に敵意剥き出しの状態で今にも噛み付かれそうな剣幕してやがるゼ? 分かっているとは思うが、油断だけはするなよ」
「……承知しています。あくまで、私に課せられた使命は『天使の撃滅』。この戦闘で私はそこの天使に圧倒的力量差を知らしめ、私の方が本物の天使たる存在に相応しいことを必ずや証明してみせます」
「ヒヒッ、殊勝な心掛けで痛み入るゼェ……そうやって、ちゃんとテメェの役割を理解してんなら、別に問題はネェよ」
無表情ながらも九尾に興味を示し、一瞬だけ緊張の糸が綻んだかに見えたTODⅢの表情は何処か重みのある奏夜の釘を刺すような一言から、まるでスイッチがオフからオンに切り替わったように強く引き締まる。
(……来るっ!)
緊迫した空気のなか、リンネが相手の殺気とも取れる強い気配を肌で感じ取ると、TODⅢは瞬時に地面を強く蹴り、前のめりの状態で勢いのままに跳躍した。
そして、先程のように一気に間合いを詰めるため《人工翼》をはばたかせて加速し、同様に《破壊》を帯びた右腕を前に突き出した状態でリンネに差し迫っていく。
(……また、あの右腕……)
もはや、馬鹿の一つ覚えに等しい実に単純な戦法ではあるが、彼女の保有する《破壊》の戦闘スタイルにおいては最も厄介かつ脅威的とも言える戦法だ。
直接やり合って迎え討とうにも、触れてしまうだけで跡形もなく木端微塵にされてしまうのだから、どうにも相手に分があり過ぎる。かと言って、防御結界の式札を盾にして受け止めたところで接触時の強烈な衝撃と爆風で反撃の隙も虚しく押し返されてしまうため、結局はただのジリ貧に終わるだけだ……。
――――なら、どう対処すべきか。
リンネは落ち着いた様子で視線を敵から逸らすと、隣に寄り添う九尾の瞳を数秒覗き込むように見詰め始める。
そして、次に九尾の背中を優しくポンポンと二回程叩いてから合図を送ると、今度は九尾の式札をギュッと掌に強く握り締めて深い息を一つ吐き、まるで神に祈りを捧げるかの如く、そっと瞳を閉じた。
「――――《神式札二式―九尾之幻惑》!」
TODⅢの攻撃が迫りくるなか、リンネが静かに短めの呪文を唱えると――――次の瞬間。彼女の肢体が陽炎のようにゆらゆらと揺れ始めた。




