第三章「魔術街」 10
エレナは解答の得られない疑問を取り敢えず頭の中で保留にすると、話題を変えて一番確認しておきたかった事項をリンネに尋ねてみた。
「よし。じゃあ、話を変えよう。リンネはシグレの事、どう思ってるのかな?」
「……え? えっと……そ、それはどういった、意味で……?」
リンネは質問の方向性が突然傾いたことに動揺した様子を見せたかと思うと、仄かに顔を紅く染めて答える。
「あ、ごめんごめん、勘違いしないでね。別に今は色恋沙汰とかを聞きたいわけじゃないんだ。ただ……ね? 天使であるリンネがどうしてわざわざ学院長の誘いを――――シグレのいるこの学院への編入を受け入れたのかな、ってさ。良かったら理由聞かせてもらえない?」
翡翠色に輝く瞳は真っすぐにリンネの瞳を覗きこむ。
それは心から時雨の身を案じていることの証だろう。
万が一、リンネが天使ではなく、何かしらの計画を持ってこの学院に紛れ込んだ侵入者なのだとしたら、時雨に被害が及ぶことは現状況を見るに明らかだ。
それに、時雨の扱う魔術『五行思想』は数多くある魔術の中でも特別希少性が高いものだと聞く。
世界に核心術が根付き始めた頃、疲弊仕切っていた世界で枯れ果てた大地一面に満開の花を咲かせ、天候を自在に操ることで干上がった川や湖に水の恩恵を取り戻したと諸説にはある。また、その功績は当時の世界の発展、延いては人類の発展にとって大きな貢献を果たしたとして『古代魔術~世界再生の術~』などと仰々しい呼称付きで、魔術歴史館の目録に堂々と記載されているはずだ。
だが、あくまで『五行思想』は最高神が人類に与えたとされる八つの術の内の「魔術」に区分された一つの『術』に過ぎず、時雨にとっても『五行思想』というのは生まれながらに身に着いた何気ない力の一つという解釈でしかない。
――――故にエレナは考える。
本人の意思とは全く関係なく『世界再生の魔術を所持している』というだけで、注がれる世間からの大きな期待。それは、時雨が一人で抱え込むにはあまりに重過ぎる話だ。
たしかに誰かに何かを期待をされるということは、誇らしいことなのかもしれないが、今の世の中には内二席が空席ながらも『神童八器』と呼ばれる世界を大きく発展させるための最高機関だって存在する。何も妖精級である時雨が世界の発展なんて大それた話に必ずしも身を投じる必要はないのだ。
しかし、挙句の果てには本人の意思とは関係なく『古代魔術』に目を光らせた闇商人らが人身売買を目的に、依頼任務の帰路で待ち伏せて奇襲を仕掛けてきたこともある始末で……。
時雨は決して表情に出さないものの、少なからず負担を感じているに違いないのである。
今回のリンネの編入だって、彼女にそういった横縞な企みがないとは言い切れない。
そう考えただけで、エレナの心境はどうも落ち着かなかった。
ただ、こうして当事者である本人に直接確認を求めるのは、空き教室で感じた既視感のことも含め、先程までのリンネの振る舞いや仕草に不自然なところが見られなかったためでもある。
これは昔ながらに身についた特技であるのだが、エレナは人の様子を窺うこと、相手の内面的な思考を察知することにかけては優れた洞察力を持っている。自身の見立てでも、リンネはおそらく白でほぼ間違いないだろう。そうなると、もう後は気持ちの問題だ。
たとえ、返ってくる言葉が形式上の物であったとしても、それが本人の口から聞き出した言葉なのであれば、ひとまずこの一件に関しての気持ちに整理がつく。
エレナのいつにもなく真剣な表情にリンネも折れたのか、ため息混じりにゆっくりと口を開いた。
「はぁ、仕方ないですね。ほんとエレナは時雨のことが絡むと顔つきが一変しますね。初めに断っておきたいのですが、私がこの学院に来たことは本当にただの偶然ですよ。この世界の地理に詳しくなかった私が学院前を右往左往していたところ、それを見越したシャルデオ学院長に声を掛けられ、その場の成り行きでこの学院に編入することになりました。もちろん、時雨がここの生徒だと初めて気付いたのもクラスで自己紹介を終えた後ですし、時雨が目的で編入してきた訳でもないですよ。ただ……」
「ただ……?」
含みのあるような発言に緊張してかエレナはごくりと静かに息を飲む。
リンネはその様子を確認するや否や言葉を続けた。
「私は時雨にあの日の夜の出来事について『償い』がしたくて……本来、儀式神楽は神々が蓄積した穢れを癒して浄化するためものであるはずなのに、私の不始末で神を暴走させてしまい、あろうことか時雨まで危険な目に遭わせてしまって、ほんと申し訳なくて……」
天使は神の前で執り行う聖天神楽の際、供物を捧げた祭壇を中心に広範囲な結界を施す。
また、膨大な核力を体内に宿す天使の儀式結界は実に強力で、外部の生物は結界内に侵入することはおろか、儀式結界そのものを認識することができないようになっている。
だが――――あの日の夜だけはどういう訳か違っていた。
長年、聖天神楽を任されてきた天使が儀式の段取りを間違えたり、結界に綻びを生じさせたりするはずがない。しかし、外部から一切干渉が出来ないとなると、事の不備は内部で起こったもの――――つまりは、天使が招いた過ちと考える他なかった。
だから、リンネはそのことで時雨を巻き込んでしまったことに対して非常に責任を感じてしまっているのである。
エレナもその意図を感じ取ったのか、真剣な表情で頷いた。
「なるほど、ね。リンネにも色々な事情があったんだ……。なんか変にシグレのことで勘ぐっちゃったみたいでごめんね。冷静に考えてみれば、リンネは天使なんだから、私たち以上に大変な苦労とか事情もたくさんあっただろうに……」
「いえいえ! エレナが謝ることなんてないですよ! そもそもこの件に関しては私がもっとしっかりしていれば起こらなかった事ですし……それにエレナが時雨のことを大事に思った上で行動したことだってちゃんと理解してますから、気になさらないでください!」
あたふたと慌てた様子で答えるリンネの姿にエレナもなんだか表情が緩む。
「えへへ。そう言ってくれてありがと♪」
エレナは一番の疑問が解消されたことでいつもの明るい屈託のない笑顔を浮かべると、思い出したようにふと脳裏に浮かんだ素朴な疑問をリンネに投げ掛けた。
「そう言えば、私影に潜んで二人の会話を聞いてたから、てっきりあの日の一件についてはお相子ってことでリンネも折り合いをつけたんだと思っていたけど、実際のところは違ってたんだね」
出会って間もないはずなのに、すぐに打ち解けた様子で笑い合う二人の姿。
影から覗き見ていたエレナには、その光景が強く印象に残っていた。
リンネはエレナの問いかけに少し戸惑った様子を見せると、頬をほんのりと紅く染める。
「えっと……そのことについてなのですが、私、何分天使なもので、人と面と向かって話す機会というのがなかったものですから、とてもそういうのに憧れていて……大変恥ずかしい話なのですが、あの時はただ本当に時雨の笑顔が眩しくて、つい……お相子という形式を取ってしまって……」
「ほうほう、なるほど。つまり要約すると、リンネは人と触れ合える高揚感から場の雰囲気に流されて、そのまま見事に飲まれたって訳だね!」
「あ、あぐっ!?」
リンネはエレナの指摘に言葉にならない短い悲鳴を上げると、一瞬で顔から耳までが真っ赤に染め上がる。余程、恥ずかしかったのか、照れ隠しに左手(クレープを持たない手)でエレナの肩をぽこぽこと子どものように微弱な力で叩いた。
「も、もう、エレナ! ただでさえ恥ずかしいんですから、そんなド直球に言い直さないでください! まるで、私がアホの子みたいじゃないですか!」
「あははは。ごめんごめん、ちょっとした冗談だって~」
「もう……核心を突き過ぎていて、全然冗談どころではないですよ! あぁ~、恥ずかしい……」
「あはは。リンネの意外な一面発見だね~♪」
エレナはそう言って、リンネが赤面する姿を眺めながら楽しげに笑うと、残りのクレープを一気に口の中へと詰め込んだ。
「あ、あの、間違っても、このことは時雨には内緒にしてくださいよ? えっと、その……非常に恥ずかしいので……」
「はいはい。そんなの釘を刺されるまでもなく、分かってるって! エレナさん、こう見えても口は固い、義理も固いと二拍子揃って評判なんだよ?」
エレナはビシっと親指を立てて、意気揚々に言い放つ。
満面の笑顔。そこに不安の色は全く感じられない。
だが、リンネは彼女のその仕草や言葉を受けて直感してしまう――――こいつはおそらくダメだ、と。
食堂でも感じたこの唯ならない胡散臭さと無駄な勢いは、残念な方向へと足を運ばんとする、言わば予兆。信頼をするに至る材料としては、腐りかけの毒林檎くらいに危ういものであると、リンネは理解している。
「……あー、何もない廊下で唐突かつ盛大にすっ転ぶ勢いで、口を滑らせてしまう様子しか浮かばない……」
「わぁお。ワタシってば、全く信用されてないね……。エレナさん、なんだかちょっぴり泣きたい気分だよ……?」
「エレナには前科がありますからね。その点に関しては安心しかねます」
「ぐぬぬ。やっぱり過去の罪はそう簡単に拭えないか……でも、あれ? 待てよ? 『その点』ってことは、全面的にはワタシのこと信頼してもらえてるってことだよね! うん、これは間違いない! そうだよね?」
「……うぐっ、そ、そんなこと本人にわざわざ確認しないでくださいよ! 言葉の通り、それ以上でもそれ以下でもないです!」
リンネは照れ臭そうに視線を側面に逸らして答える。
「お? でも否定はしない、ということはズヴァリ図星だね! いやぁ、でも、エレナさんとしてはこんな可愛い天使ちゃんに好かれてとても嬉しい限りだよ~。ほんとにありがとね!」
エレナはいつものふざけた態度を取りながらも、心底嬉しそうに笑顔を浮かべて言う。
「え、えと、その……こちらこそ、です」
リンネは天使として孤独な境遇にあったこともあり、一瞬僅かに戸惑った様子を見せたが、次第に『嬉しい』という感情が胸の内から込み上げ、エレナの明るい笑顔に精一杯応えるかのように満面の笑みを返した。
天使故か、その姿はあまりに無邪気で神々しく、女であるエレナも思わずドキッとしてしまう。
「えへへ~。なんだか、私まで照れ臭くなってきちゃったよ」
「ふふふ。エレナでも照れ臭いなんて思うことあるんですね」
「そりゃ、そうだよ~。ワタシだって、こう見えても純情な乙女だから、心はまさにガラス細工のように繊細なんだよ」
「自分のことを純情とか、乙女とか簡単に言えるなんて、さすがはエレナですね。なんというか、変人っぽい……いえ、変人です!」
「今、なんで濁した言葉をそのまま言い直しちゃったの!? もう全然隠れてないよ! ていうか、ひどいよ!」
二人の距離は先程までの事を考えると、急激に縮んだのだろう。
エレナとしても時雨を取り巻く環境での蟠りがなくなり、リンネにとっては自分の悩みや不安を誰かに聞いてもらえたことで、お互いがすっきりとした表情を浮かべている。
二人が仲良く話をしている姿は今日出会ったばかりの関係とは到底思えないほど輝いて見えた。
リンネは一口がとても小さくて食べきれそうにないクレープを前に突き出して、そっとエレナの口へと運んだ。
エレナはゆっくりと口の中で味わうなり、衝撃を受けたように目を見開くと『こ、これは……クレープ革命か』と大袈裟なリアクションを取ってリンネを笑わせようとする。
だが正直なところ、エレナはゲテモノクレープばかりを普段から食しているように感じられたので、久しぶりに感じる『本当の旨み』というやつにただ舌が驚いているだけかもしれない。
リンネがそう心の中で考えていると、なんだか可笑しくなって自然と笑みが毀れた。
その様子にエレナも満足そうな表情を浮かべる。
そして、次にリンネが自分の口にクレープを運ぼうとした――――
――――その時だった。
「どうも、こんにちは。やっとこうして、出逢えることができましたね。少しだけ、今からお時間頂けませんか――――テンシ、サマァ?」
だらしなく伸びた無精ひげ、猫背に白衣が特徴的な赤い瞳をした一人の男性。
彼は気配もなく、突如としてリンネの眼前に現れると、舌なめずりをしてから狂気染みた口調で『天使』という言葉を口にした。
リンネはそんな彼を見据え、幸福を感じていた時から一転――――全身を恐怖で強張らせると、突発的に発生した白く濃い霧の中へ静かに呑み込まれていった。




