第三章「魔術街」 1
第三章「魔術街」
「……まったく、ひどい目にあった」
東塔と西塔を一直線に繋ぐ渡り廊下。
椎名と激闘を繰り広げた末に脳天を容赦なく氷弾でぶち抜かれた時雨は、すっかり冷え切った身体を手で擦って温めながら不運を呪ったかのようにそう呟いた。
椎名の氷弾に撃ち抜かれて身動きが取れなくなった時雨はあの後、無茶な策を提案し、あろうことか契約主を攻撃の手段として用いた紅焔精霊・アグニの焔によって救出された。
さすがに理不尽な結末に釈然としない時雨は、あの突飛な作戦について一応アグニを問い詰めてみた。すると、アグニは特に悪びれた様子もなく赤いリボンで装飾された黒いドレスを翻してきょとんと首を傾げると―――
「きっと、我が主は勝ち負けよりも大切なものを手に入れたはずですよ。良かったではないですか、男子ならば女子の胸を触れたという事実は偉大な功績だと思います。何も恥じる必要はありません。主は男である人生においての通過点を見事クリアして見せたのでございます。もはや事実上、主は勝ったのだとワタクシは思います。我が主の成長、ワタクシは心より喜ばしく……」
淡々と落ち着いた声色で延々と続きそうな詭弁を語り出した。
その饒舌という表現を通り越したと言ってもいい程に繰り出されるアグニの言葉の羅列に、時雨は頭を抱えて「もういい。なんとなくわかったから……」と、短めに制した。
すると、アグニは「左様ですか。我が主、ご理解いただき感謝いたします」と律儀そうにぺこりと頭を下げると、ご満悦そうな笑みを浮かべて虚空へと消えて行った。
正直、何一つ理解に及ばなかった時雨は、諦めたように嘆息して不運な事故に巻き込まれたんだ、と勝手な自己解決をして事なきを得た。
「でも、事故とはいえ椎名には悪いことをしてしまったな。また今度謝らないと」
「「じー」」
「……おまえらもいい加減その冷ややかな視線で俺を見るの止めてくれないか? あれは本当に俺にやましい気持ちがあったとか、そういうのじゃないんだって!」
時雨の後方、僅かに距離を空けて歩く二人の少女。
リンネとエレナはどちらも疑心暗鬼のような眼差しで時雨を見詰めていた。
「本当かなー。シグレも曲がりなりに男の子だし、魔が差したんじゃないのかなー?」
「時雨がまさかそんな手癖の悪い方だったなんて、私失望しました」
「いやいや、待ってくれ。俺はそんな非常識な人間じゃない、あれは単なる事故だったんだ。頼むから信じてくれ!」
時雨が必死に説得するも依然として二人は「怪しい」と疑うような眼差しを向ける。
それでも、時雨が諦めずに誤解を解こうと焦った表情で右往左往していると、エレナとリンネは互いに顔を見合わせて「ぷふっ」と思わず笑みをこぼした。
「時雨ごめんなさい。最初から時雨のこと疑ったりなんてしてませんよ。ちょっとした冗談です」
「へ? 冗談?」
リンネの「冗談」という単語に、つい時雨の口から思わず間の抜けた声が漏れる。
「そうだよ! エレナさんはシグレのことちゃんと理解しているつもりだからね。シグレのこと疑ったりなんてするはずはないよ! それに、シグレにそんな度胸があれば、ワタシとシグレとの間に可愛い子供の一人や二人、できてしまっているところだよ。いや、もうなんならワタシを今すぐ襲うといいよ、シグレ!」
「なんだ……冗談か。リンネもエレナも俺のこと信用してくれるんだな。ありがとう」
時雨は二人の柔らかな笑顔を確認すると、胸を撫で下ろして呟く。
エレナの口から、「可愛い子供」がどうたらとか「今すぐ」なんたらなんて言葉が聞こえた気がしたが、時雨は「疲労からくる幻聴の一種だ」と思うことにして聞き流した。
すると、笑顔を浮かべていたリンネが静かに口を開いた。
「でも、椎名の胸が触れてラッキーだったな、とか一度では留まらず二度、三度程弾力を確かめて楽しんでいたことに関しては目を瞑りがたい事実として記憶しておきますね」
表情は依然として笑顔を保っているのに妙な威圧感を感じるのは気のせいだろうか……。
「……あれ、リンネやっぱり怒ってる?」
「いえ、別にいいんですよ……時雨は大きい胸の方が好きなんですよね。需要のない胸なんて嫌に決まってますよね、ぶつぶつ」
時雨が恐る恐る尋ねると、リンネは表情を悟られないためか顔を背けて呟く。
最後の方は何やらぶつぶつと聞き取れなかったが、リンネの様子から察するに怒っているというよりは、どこか膨れっ面を浮かべているように見えた。
(もしかしたら、真剣勝負の模擬戦があんな結末に終わって、期待を裏切ってしまったのかもしれないな)
時雨はそう解釈すると、がっかりさせてしまったリンネのためにある提案を持ち掛ける。
「リンネ、なんか色々とがっかりさせちゃったみたいでごめんな。良ければ、学院塔の案内が終わり次第魔術街にでも行ってみないか?」
「え? 魔術街ですか?」
リンネは「街」という単語に反応すると、餌に飛びつく小動物のように目をキラキラと輝かせてこちらを振り向く。
「そうだ。魔術街は魔術を活かした経営が盛んでな。とにかく賑やかで色々な店があるし、洋服屋に雑貨屋、娯楽施設とか美味しい食べ物を売ってる店も結構あったりするんだ。気分転換にどうかなって思ったんだけど、どうかな?」
「美味しい食べ物」
リンネは恍惚とした様子で想像力を膨らませると、ごくりと喉を鳴らした。
危うくよだれが垂れそうになって「いけない、いけない」と袖で拭っていた姿を時雨は見逃さなかった。
なんて可愛いらしい生き物なのだろうか。
正直、食べ物を餌にすれば怪しい人にもついて行きそうで少し心配な面もあるが、期待以上の反応に時雨もついつい顔が緩んでしまう。
「じゃあ、決定だな! エレナはどう……する?」
時雨がエレナの方に視線を移して尋ねようとすると、不思議な光景が目に映った。
そこには、エレナがなぜだか天を仰ぐような姿勢を取って両手を広げたまま静止していた。
何かを待っているようにも見えるその姿は何を意味しているのか、時雨は先程聞き流した言葉を思い出し、不意に脳裏に浮かんだ残念な考えを速攻で消去してエレナに問う。
「……やけに静かだと思ったら、お前は一体何をしているんだ?」
時雨の問いかけにエレナは不満そうに頬を膨らませて、
「もう! シグレってば、なんでワタシを襲おうとしないのかな? ワタシが折角こんな無防備に構えてるっていうのに、どうしてかな? まさか、シーナでお腹いっぱいって……そういうことなの? ワタシではデザート感覚でスルッと頂くという訳にはいかないっていうの?」
「……いや、お前の発言は徹頭徹尾間違ってる。それもかなり捻じ曲がった方向でな」
時雨が冷たい態度でそう答えると、エレナはやれやれと首を横に振って「仕方ないね。焦らされるのもエレナさん嫌いじゃないから、今回は我慢して次回に備えるとするよ」と気持ちを切り替えて、前向き(?)な発言を残して自身の葛藤を抑え込む。
その発言に対して時雨は、背筋にうっすらと悪寒のようなものが走るのを感じた。
時雨は胸中で細やかな祈りを神様に捧げる。
どうか、その我慢が爆発して今後とんでもない事態に陥りませんように……と。
エレナとは昔から付き合いも長く、傍目から見てもスタイルは良いし、可愛らしい一面を持った正真正銘の美少女だと時雨も思うことはある。普通の男子なら、これほど熱烈なアプローチを受けてその気にならない奴も少なくはないだろう。
だが、時に異常なまでの好意は狂気にすら転ずることがある、ということを理解して頂きたい。
エレナに限ってそんなことはない、と言い切れる保障はどこにもないのだ。
それに、エレナは冗談を言って周囲の人間をからかうことがよくある。
そもそも自分にそんな度胸がないことは百も承知だが、そのような形でエレナに軽はずみな行為を働くことは彼女自身を深く傷つけてしまうことに為り兼ねない。
「だけどまぁ、このくらいならしてあげられないこともないかな」
時雨はエレナの頭の上に軽くポンっと右手を乗せると、優しくその頭を撫で始める。
エレナは咄嗟のことに驚いたのか、頬を急激に赤く染めて照れるように顔を背けた。
「……シグレはホントにずるいな」
時雨に聞こえないようにエレナはぼそっと呟くと、次の瞬間には、ふふ、と笑みがこぼれ、時雨にいつもの無邪気な子供のように微笑んでみせた。
時雨は再度エレナに魔術街へ繰り出すことを伝えると、「いいね! ワタシもついてく~」とご機嫌なご様子で返事が返ってきたので、学院案内を終えてから三人で向かうこととなった。
早いとこ学院塔内を案内して魔術街で他愛もない賑やかな時を過ごしたい。
時雨の胸の内でそんなわくわくとした気持ちが込み上げてきていた。
近頃は、依頼任務で根詰めていたからなのか、単純にこの面子で戯れることに胸が高鳴っているのか、時雨には正直なところ分からなかったが――――
(リンネも俺たちと過ごす学院生活を楽しいと思ってくれるといいな)
時雨は柄にもなくそんなことを考えていた。




