絶望と諦観
俺の横を、車が通り過ぎていく。
唸りを上げてエンジンが力を発揮し、カードレールすれすれのところを通っていく。
マフラーから排出される煙と音が、静けさを増す夜を打ち消していく。
ライトがハイビームとなり、前方を煌々と照らす。
『……こちらも手を尽くしたのですが、残念ながら……』
今日と昨日と、二回連続で聞いたその口上。
首吊りをしていた父を発見した俺は、しばらく呆けていたものの、台所から包丁を持ってきて、縄を切り、父を床へと落とした。
その後心肺蘇生法を繰り返しつつ電話を呼んで救急車を呼んだ。
俺もその救急車に同乗し、病院に搬送された結果――。
人生二回目の、霊安室への入室となった。
何も、言えなかった。
笑えもしなかったし、泣きもできなかった。
ただ頭の中が思考を放棄して現実を俯瞰的に傍観していた。
横で医者が話していることも、よく頭に入ってはいなかった。とりあえず、父は母と同じ霊安所へと送られることになった。あのときに理解できたのはそれくらいだ。
それ以降のことは、よく憶えてはいない。
これから何処へ向かうのかも、もうよく分からない。
脚の進む方向へ、任せるほか無かった。
すると突然、目の前に暗闇が広がった。
いや、違う。急に気がついたら明かりが少ない場所へきているだけなのだ。
俺は、階段を下っていた。
大通りからはずれ、鉄柵が途切れた場所から下へと延びる階段。
一歩ごとに大通りから外れていくのが分かり、視界が徐々に暗くなる。
深淵へと足を踏み入れているような、妙な感覚となった。
……ああ、そうか。
ここら辺でようやく、俺は脚が何処へと向かおうとしているのかがよく分かった。
あの家へ向かおうとしているのだ。
あの、呪われる鏡がある家へと。
少ない街頭が薄く照らす道の中で、足取りがふらつく。
路傍の小石にさえも躓き、バランスを崩す。
転びはしないものの、たたらを踏む。
蝉の声、蛙の声が頭の中で反響する。
生物の声が耳の中に滑り込み、脳内で散々脳内を蹂躙していく。繰り返される終わりの無い大合唱。
finの無い、リフレインの連続。楽譜としては不完全な、一度弾き始めたら死ぬまで続けることを強制される譜面。
それがただひたすらに、頭の中に流れ続ける。
これを、季節特有の生物の声を風流などと言いたくは無かった。今の俺には、生というエネルギーの発芽は目障りな苦痛でしかなかった。
背筋に、ぞくりと寒気がはしる。悪寒、気持ちわるさ。それを綯い交ぜにしたもの。
……段々と、その泣き声にすら、視線を感じるようになってきた。
あの、好奇のヒトミ。ねぶるように向けられる興味の証。
思わず走り出した。
気のせいなどとは理解している。ただ、周りの悪意を感じたのだ。
凄惨な状況を撮ったもの。ネットという二度と取り返しのつかないところにアップした物。それに興味を引かれ視線という武器で俺を攻撃する物。
全ては興味本位なのだろう。
だが、それ全ては俺の心を的確に抉り、傷口からは恨み節が溢れ出る。
「……止めろ、止めてくれ」
うわごとの様にそういいながら、俺は耳を手で塞いで疾駆する。
それでもなお、隙間からするりと入ってきた声までは止められず、ピアニッシモ程度の音量であれどそれは続いていた。
石を気づかないまま脚で蹴り上げ、砂利が靴の隙間に入り込む。
一歩ごとに心が締め付けられる。
何故こんなことになったのか。何故両親は死んだのか。
何故、何故、何故……。
そう、やはり俺は自問を繰り返す。
呪い。
……俺は、立ち尽くす。
初めてまともに返した自答に、それに呆然として思わず耳を手で覆うのさえ忘れていた。
オーバーヒートを起こした頭は、それすら認識できなくなっていた。
それほどまでに激しい衝撃が、俺の中を貫いた。
……そうだ、そうだった。
体は欠片たりとも動かない。ただ思考は働いていた。壊れかけの電子レンジに衝撃を与えると機能が復活するように。
壊れかけの心に、別方向からの衝撃が与えられ、俺の思考は活性化した。
直輝が話していた都市伝説は、『鏡に殺された』と書いたのは女子大生だが、その前の女子大生の両親も死んでいたはずだ。
もし、もしだが、呪われたのがこの女子大生だとするならば、すさまじく質の悪い呪いということになる。
……何故ならば、肉親を先に殺し、精神に傷を与えて肉体的にではなく、精神的に殺す呪いだからだ。
ある意味では女子大生にとっては死は救いだったのだろう。
自分の好奇心が肉親を殺してしまった、その事実にたどり着くのもそう遠くないだろうから。……女子大生に限っては、呪いで死んだ、というよりは自殺した、といった方が確信が行く。
精神に傷を負ったほうが、死ぬよりつらいということを正しく体現しているからだ。
抜け殻のような人間に背負わされた、重すぎる十字架。
両親が死んだ原因を作ったということの、自覚。自ら背負う罪。
周りは同情するだろう。それがよりつらい。その同情してもらう原因を作った者が、ほかならぬ自分なのだから。まして、他のものは呪いなどといっても信用しないだろう。両親が死んで心が病んでしまったと判断して、病院に入れられるのが関の山だ。
そう。……だれも、罰してはくれないのだ。
十字架を、刑罰、という行いで背中から降ろしてくれる人は、誰も無いのだ。
呪いを信じる信じないうんぬんではない。信じるほか無いのだ。
こんな短期間での肉親の死が、偶然のわけが無い。安全運転を心がけていた母が事故で死んだり、念押しをしておいて親族への連絡もしていた父が自殺したということが、偶然なわけがない。
必然なのだ。
その原因とは何か。
呪いだ。
だからこそ、俺はそれを信じるほか無かった。
俺の好奇心が両親を死なせてしまったという、後悔。
今さら悔やんでも、どうしようもないという、絶望。
その二つが綯い交ぜとなって、俺の心をかき乱す。
俺は、吼えた。
静かで何も無い空間で、大きく口を開いてあらん限りの空気と一緒に声を吐き出した。蝉が逃げていく。蛙も異変を察して静まり返る。
烏が、飛んだ。
胸をそらして声の放出をやめると、荒々しく息をつく。心臓が吐き出した分の酸素を要求して、呼吸を激しくさせる。
……何も、変わらなかった。
現状も、精神も、肉体も。
なにもかもが変わらなかった。精々が変わったのが、俺の周りの二酸化炭素と酸素の比率程度だろう。
思わず、虚ろな笑みが毀れそうになった。
……なにかが切れた。
緊張の糸か、堪忍袋か、ふっきれたのか、切れた物が何かも分からなかった。
だが、俺の体の中でなにかが切れた。
どこか軽快な足取りで、俺は家へと向かった。
そうすると、思いのほか早くついた。
相変わらず寂れ、崩れ落ちかけるその家。
侵入者を知らせるための石を踏みつけ、ドアを開く。
軋む音が聞こえる。
今日は懐中電灯も何も無い。そのため、ただ瞳孔が慣れるのを待つほか無かった。
暗闇が、どこか心地よかった。
やがて散瞳し、暗闇が見通せるようになった俺は、やはり目の前を見た。
家への侵入する者を歓迎する、巨大な鏡。
俺の姿が、はやり映る。
目の下には隈ができ瞳は淀んでいた。
どこを見ているのか分からないほどに、その瞳は歪んでいた。
我ながら少し苦笑した。ざずは数日でこのざまだ。
男子三日会わざれば刮目してみよ、というが、ここまでネガティブな方向に変わったものはいないのではないだろうか。
鏡正面から見る。
俺ではなく、鏡を見るようにした。
「……一思いに殺せよ……」
うわごとのようにそういいながら、鏡に近づいた。
俺の顔がアップされて、その様子が良く見える。ほほまでこけていた。そういえば、あまり食事をとっていなかった。
思考はもう働かなくなっていた。
思いついたことをただ話すだけになっていた。
「……なんで親だけなんだよ……」
鏡を泣き出しそうな顔でにらみつける。
鏡が、同じような表情を浮かべる。
「……なんで、なんで……俺は……」
両腕を鏡につけ、頭を沈める。
頬を、水が伝った。
「……なんで、なんで俺は殺さないんだよ……」
口から言葉が漏れつつ、うめき声が漏れた。それが自身の鳴き声だと認識するには、時間がかかった。
頬を伝う水の量が、増えた。口に入ると、少し塩辛かった。
「畜生……ちく、しょう……」
俺の声から、また声が溢れ出た。先程の鬱憤を晴らすものではない。
慟哭。
俺は泣いていなかった。両親が死んでも、涙は出なかった。いや、出せなかった。
その事実が精神で咀嚼され、俺の前の前に提示された。
明確な事実となって。
ああ、両親は、もういないのだ。と。
それが奇妙なまでにすとんと胸に落ちた。ようやく俺は、現実を飲み込めたのである。
泣いた。ただひたすらに啼いた。
大声で叫び、頬からはとめどなく雫が落ちる。
床に膝を突き、掌を鏡につけ、指で鏡を押した。接した部分が割れて欠片が振ってきたが、構わなかった。寧ろ、痛みが欲しかった。
なおも続くのは、罪を自覚した罪人の嘆き。哀しみと後悔と絶望と諦観がごちゃまぜになった感情が、声にならない声となって空気に溢れ出た。
不意に、それが止まった。
感じたのは、違和感。感情の濁流を塞き止めるに足りる不具合。
いや、気づいた、といった方がいいのかもしれない。
異臭が無いのだ。
前来た時にはあれほど気になっていた異臭。それがきれいさっぱりないのだ。
……どういうことだ。
疑問ばかりが俺の頭を支配する。
何故か、それが非常に気になった。感じたものが感じなくなったという、その現象が。
両親への懺悔の涙が止まるくらいに。
俺は立ち上がり、廊下を歩いていく。
すると、少しだけ広い空間に出た。リビング、だろうか。
家具は何もなく、ただ木製の床だけがそこにあった。
少し足を踏み入れただけで、軋んだ。どれだけ年月がたっているのかが、良く分かる。
しばらく歩いてみた。くもの巣があちこちに張られており、どれだけ年月がたっているのかが良く分かった。
コバエが俺の周囲をブンブンと飛び回り、五月蝿いことこの上なかった。
不気味ながらも見渡して俺の足元。それが、少し滑った。
急な事ながらも慌ててバランスを取り戻すと、滑った原因を探ろうと足元を見た。
……赤黒く変色した、血だまりがあった。
「ひっ」
などと、酷く情けない声を出してしまった。俺がみたことは――あの母のときの鮮血だけであり、このように変色してグロテスクさを増量した血液を見るのは初めてなのだ。
驚きつつ、気づいたことがあった。どうやら、思考はハローワークに行ってくれたようだ。
まず、血とコバエがいたということから、やはりここには何か腐っていた、ということ。つまり、俺の勘違いではないのだ。
……本当に直輝は気がつかなかったのだろうか。あの悪臭を。
もし、もし気がついていたのなら、あれほどまでに帰るのが早かったのも頷ける。単純に、俺をここに上げたくなかった、という理由だ。
馬鹿馬鹿しい。と頭を振る。そんなことをしたということは、直輝はここに死体があることを知っていた、ということになる。そんなことがあるわけも無い。
……何が腐っていたのか。
血液、ということからして、何かの死体、ということはまず間違いが無い。もし、それが人間のものだったとしたならば、すさまじいことになる。
……あのときの俺の予感。初めてこの家に入ったときの嫌な感じ。
あれが的中したとこになる。
そこから行われるのは、発想の飛躍。
……あの都市伝説は、ただの口実でしかないのではないか、ということ。
つまりは、呪いと称した殺人。
ありえない、と内心で首を振る。
ついに俺は頭がどうかしたか、と我ながら心配になった。
だが、呪い、というよりは殺人鬼の犯行、といったほうが分かりやすいのは確かだ。
そう思ってしまう俺が、まだいた。
事故と、自殺だ。どこに殺人鬼が入り込む隙があるというのだろう。
頭をもう一回振り、その可能性を頭から出す。
……恐らく、鼠か何かが死んだのだろう。
そう自分を納得させた。
そうするほか、なかったのだ。