嘆きと悔恨
……俺は、まだそれに納得がいかなかった。
母がもうこの世にはいない、というその事実に。
力無く家のリビングの椅子に座り、両肘を長机の上におき、溜息をつく。
天井から注がれる蛍光灯の淡い光が、その事実をより浮き彫りにするように光り輝く。
……何故なのか。
顔を机に直接つけるくらいに近づけ、頭を抱える。混乱と分からないことの苛立ちを表すかのように、頭を激しく掻く。
どうして母が事故など起こしたのか。
なんど繰り返したのかも分からない、その自問。
一人しかいないリビングは、どこか広く思えた。
その時、がちゃり、というドアノブを開く音がした。
いまだ母の死の実感が湧かない俺は、いくばくかの希望を持ってしまった。
「……ただいま」
廊下とリビングを隔てるスライド式のドアを開いて入ってきたのは、母ではなく重い表情を浮かべた父だった。
目の奥底には淀んだ光が見え、頬はこけてもいないのに薄暗く見える。
……恐らく、今の俺の表情も似通った物だろう。
「……お帰り」
希望を無残にも打ち砕かれた俺は、落胆の表情をありありと浮かべていることだろう。だが、それに対しては父は何も言わず、ただジャケットを脱いで傍らにあった木製の服をかける物にかけて、溜息をつきつつ俺の目の前の椅子に座った。
いや、何も言わなかったのではなく、そもそも気づかなかったのかもしれない。目の前の息子の顔すらろくにみれない精神状況の可能性はきわめて高い。俺でさえこれほどまでに陰鬱になっているのだ。夫ならさらに傷は深いだろう。
「……死亡届、出してきたよ。口座も凍結された」
父はゆっくりと口を開いた。
死亡届は、死亡診断書と共に、七日以内に出さなければならない物だ。
何も当日にする必要ない。
……なにかしていないと、母について考えてしまうのだろう。
それがどうしようもなく心に圧し掛かるということは、一番今の俺が良く分かる。
既に済んだことなのだ。どうしようもないことなのだ。
だが、どうしようもなく考えてしまう。
人間だから。
家族だったから。
「……そう。お疲れさま」
父の言葉に、俺はそれだけしか答えれなかった。
他にいえる言葉はあった。だが、下手な慰めや同情を言葉に載せて吐けるだけの余裕は俺には無く、また父の傷を抉る物も言えなかった。
消去法、でしかない。
「ああ……母さんは霊安所に行ってもらった……正直、また見たら泣きそうでな」
ははは、と情けなく笑う男がそこにはいた。
ばりばり職場で働き、一定以上の水準の生活を家族に与えている大黒柱の姿は、そこには無かった。
「……そうだね」
あくまで、俺は肯定する以外の言葉を発さなかった。いや、はっせ無かった。
何を言えばいいのか分からないのだ。
なにせ、肉親が死ぬなど初めてなのだから。
寧ろ、自分が慰めて欲しいくらいなのに。
それを流石に今の父に求めるのは酷だろう。父である前に、男なのだから。
「……ばあちゃんとかには連絡をしたの?」
ズボンのポケットから煙草を取り出し、底を叩いて煙草を一本取り出している父に、そう問いかける。
父は煙草を口に咥え、煙除けとして手で先端部分を覆いながらライターで火をつける。
ふぅ、と落ち着いたように息を吐き、口から煙をくゆらせる。
「ああ。ちゃんと連絡したさ……泣いてたよ」
哀しそうに笑みを浮かべながら、父はそう呟いた。
やはり、俺はそう、としか言えなかった。
哀しいのだろう。娘なのだ。それは死ねば哀しい。泣くほどに。
……俺も死ねばだれかに泣いてもらえるのだろうか。
などとくだらないことを考えてしまう。
「……ごめん、俺、もう寝る。明日も学校だから」
そういうと、父は時計を見る。俺も目の片隅で見るが、もう午後の11時を回っていた。
病院に行ったりなんだったりと、精神的にも肉体的にも忙しく、流石に疲れた。
「ああ、それはいいが……明日くらいは休んでも良いぞ、学校は」
そう優しく述べられる父の言葉に軽く首を振る。
「……つらいけど、日常を変えたくは無いんだ。それに、何かしてないと嫌なことばかり考えちゃうから、さ」
学校に行き、帰ってきて、飯を食べて寝る。
このサイクルのどこかが狂えば、その時点で母の死が明確となる。
恐らく、夕食の段階で崩れるだろう。母が作っていた物だからだ。
朝と昼は購買やコンビニで何とかなるが、家族が集まって食べることが通例となっていた夕食においては、母の欠落は否が応でも認識せざるを得なくなるだろう。
つらいことは先延ばしにしたくなるのが人情だ。今回くらいは、少しくらいは甘えても良いんじゃないかと思う。
「そうか……良く分かるよそれは。……俺はいつからこんなにネガティブになったんだろうかと、そう思ってしまうくらいだ」
父は少しだけ笑いながら、おどけるように笑えない事を言う。
しかし俺も返すように、少しだけ無理をして口角を引き上げる。筋肉が上手く働かず、ひきつった笑みしか出来なかった。
「……じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
父と息子の間でそう挨拶が交わされたのを確認すると、俺は椅子から立ち上がった。
無言となり静かな部屋に、床の軋む音がよく響く。どれだけここが広かったのか、俺たちに知らせようとするように。
人がいない教室のように、一人がいないだけで広く感じた。
雰囲気も重く感じ、廊下までの扉までがやけに遠く思えた。
「……父さん」
何歩かは分からないが、そこそこ歩いた。
ドアに手をかけたタイミングで、振り向きもせずに父に話した。
父は何も言わず、ただ俺の言葉を待っていた。
俺はさまざまな思いを、ただ一言にこめた。取っ手が、少し軋んだ。
「……死なないでくれよ」
「……ああ」
その肯定するだけの言葉が、やけに重く俺の心に響いた。
少しだけ軽くなった心をつれて、ドアを開いた。
※
……朝から、どこか騒々しい。
俺は今、学校にいた。二時間目の休み時間。
朝は父よりも早く起きて、コンビニで適当に惣菜パンを買って頬張りながら登校してきた。
その道すがら、どうも奇異な目線を向けられることが多かった。
好奇心の塊。知りたいことがあるけれど我慢しているような、心の中に一物抱え込んでいる雰囲気。
なんなんだこれは、と思いながら俺は登校の道を急いだ。
ゴミを捨てに外に出た主婦。開店準備の為シャッターを開こうとする男性の店主。
だれもかれもが、俺がすれ違うだけでこちらを見る。
何が面白い。なぜ見ている。
……分からない。不愉快極まりない。
見て分かるほどに眉間にしわを寄せながら、なるべくこの視線を振り切ろうと早歩きになった。
そのかいもあってか、いつもより早めに学校につくことができた。
これであの不気味な視線から逃れられただろう、そう思っていた。
……が。
寧ろ、学校についてからの方がこの視線は多かった。
学生だから、というべきか。その幼い自制心からか、より視線は集中しているように思えた。
自意識過剰かもしれない。
だが、仲睦まじく話していた女子生徒が俺がすれ違ったら会話を辞めてこちらをみたり、たむろしている男子生徒が俺を見ながら少しひそひそ話をし、俺がそちらを見たらそそくさと逃げていく辺り、やはり何故か俺の好奇心がつきまとっている、としかいえない。
それが朝から始まり、今になっても終わる気配は無い。
幻聴か何かか、ひそひそ話すら聞こえる気がしてしまう。
それから逃げるように、俺は顔を突っ伏した。
「……なあ、なあ雅樹」
直輝が声をひそめ、俺の耳元に口を近づけて話してくる。
今日は何故か直輝は遅刻してきた。一時間目からの重役出勤だ。
野郎に顔を近づけられる趣味は無いものの、ここまで接近するということはあまり大声で話したくは無いことなのだろう。
「……なんだ、直輝」
気だるそうに顔を机から上げ、直輝の言葉に返す。
直輝はばつの悪そうに表情を変えると、頬を掻きながら言う。
「あー。うん、気を悪くしないでくれよ。好奇心じゃなくて、これは純粋な質問なんだ」
「……前置き長いな。聞きたいことがあるならばさっさといってくれ」
予防線を張っているような直輝の言葉に、少し辟易としながらそうぶっきらぼうにいう。
今日は何かがおかしかった。周りの反応も、俺自身のそれに対する反応も。どうにも、余裕をもてない。
「じゃあ、いうぞ」
「……ああ」
そういうと、何故か直輝は決意を決めたような表情となった。
そして、何故かそれに合わせて同級生の目がこちらに向いた。
不愉快だ。
「……お前の母さん、昨日死んだか?」
心の中で、何かが冷えた。
寒気が不意に精神を襲い、凍てつかせた。
少しだけ動揺で膝が震える。
何故直輝が知っている。何故、どうして。
混乱だけがひたすらに脳内を渦巻き、蹂躙する。
「……事実、なんだな」
そう直輝は言う。
俺の反応を見て分かるのだろう。
それはそうだろう。目すら安定して一箇所を見れていないのだから。泳いでいる。明らかに。
どんなに命令しても体が精神に抗うことは無い。ただ脳内の混乱を如実に表しているだけだ。
「……ああ」
なんとか努力して努力して、搾り出せたのはそのたった二文字だけだったのだ。
そうか、と直輝がいうのと同時。
「……やっぱそうなんだ」
「うっわ、可愛そう……」
……周囲からその様な言葉で溢れかえった。
その言葉は、それ以上に俺の心に衝撃を与えた。
……やっぱ、だと?
困惑が俺を満たした。
そのような言葉は、事前に情報を仕入れていないと手に入らないはず。……即ち、俺の母が死んだ、という情報が無い限り。
何故、それを直輝はともかくただの同級生が知っているのか。訳が分からなかったし、もう分かりたくも無かった。
頭の中がめちゃくちゃになる。
「……直輝、なんでお前はそれを知ってたんだ?」
無理やり心を落ち着けて、そう問いかける。
すると、直輝は表情をゆがめる。話したくないことを話すように。心を自らナイフで傷つけているような表情。
嫌な予感しかしなかった。だが、聞かないわけには行かなかった。
「……ある事故現場の写真が、とあるsnsにアップされたんだ」
そういいながら、直輝はスマートフォンを懐から取り出し、軽く操作する。
どうやら目的の物にたどり着いたようで、それを俺の目の前に突き出した。
「……そこに、お前の姿があったんだ。雅樹」
俺の目は、そのディスプレイにひきつけられていた。
そこに移っていたのは正しく、周囲の好奇心に対して怒鳴り散らしていた俺自身であったからだ。
何故……ことができる。
あの場所でも思ったことを、再度思う。前よりも、深く。
あの景色を保存したばかりか晒すとは……。
本当に人間なのかと、疑いたくなる。
そんな心は露知らず、俺の動向はその画面を捉えて外さなかった。
俺の背後に映る車……白のライフ。
それを見るたびに、頭が痛くなる。母の無残な姿を思い出す。
あの好奇で満ちた醜悪な野次馬どもの目を思い出す。
……ハッと気づいて周囲を見渡すと、それに再び囲まれていることに気がついた。
高校生という、俺の様子を傍観する野次馬。
俺の心を覗き見る下衆。
好奇心だけで俺を視姦し、勝手に同情心に浸るばか者達。
「おい、雅樹、待てよ!!」
気がつくと俺は、カバンを持って走り出していた。
直輝の言葉は耳に入らず、バリケードのように入り口でたむろしていた連中を払いのける。
みな、あの目をしていた。
気持ちの悪い、体に纏わりつくような目。
好奇の目。
同情の目。
奇異の目。
それらが全て混ざった視線がただ俺一人に降り注いでいた。
止めてくれ。止めれてくれよ。
ただそれを一心に思ってただ走った。
いつの間にか学校の敷地内を出て、交差点に出ていた。
赤信号を見ずに走りぬけ、車にクラクションを鳴らされた。それすら感じたのは頭の片隅だった。
他の部分は、悲鳴のような絶叫を続けていた。
もういい。もう、なんでもいい。
走り抜ける俺に、所々で目線を感じる。
その全てが気持ち悪かった。
……そのまましばらくはしりぬけていると、あることに気がついた。
視線が、無い。
荒い息を吐きながらそれを余裕の無い頭の片隅で確認しつつ、不思議に思って目の前を見た。
なんのことはない。もう自宅についていたのだ。
どれだけ早く走ったのか。もうそれすらどうでも良かった。
家に着いた。その安心感に俺はどっぷり浸かっていた。
少し体力を使いすぎたためかふらつく足取りを我慢し、玄関へと近づく。
ノブを回し、ドアをひいて開く。
「……ただいま」
そう呟きながら家の中に入る。
玄関で靴を脱ぎ捨た俺に、違和感があった。父の靴があったのだ。
まあ昨日の今日だし、流石に休んだのだろう。そう結論付けた。
実際問題、俺はこうして帰ってきているのだから。
廊下を進んでいくと、やはりリビングに明かりがあった。寝てればいい物を、態々起きているのか、と少し苦笑しそうになった。
「……父さん?いるの――」
いるのか?という疑問の言葉は、俺の口からはで切らなかった。
廊下とリビングをつなぐ扉を開いたその瞬間、確かに父はいた。
……天井から首を麻縄で吊った巨大なてるてる坊主となって、そこに。
俺は膝から床に崩れ落ちた。
虚ろな笑が漏れた。