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6.罪に染まる

 二人の頭上で、白いトボロチの花ばなが揺れていた。


「そもそもきみの夫はどういう人間なんだ」

 タロスは傍らの茂みからブルーベリーをちぎり、自分の隣に身を横たえるキサラのバラ色の唇に乗せた。キサラはそっと唇を開いてその甘酸っぱい実を前歯で噛んだ。真珠のように輝く歯が月あかりに白く光った。

「どんな薬でも作れる薬師だと聞いたわ」

 キサラは夢見るような声でゆったりと答えた。その胸から下は、タロスが持ってきた勿忘(わすれな)(ぐさ)の柄の布にくるまれていた。

「あいつの連れていた動物は確かにユニコーンだ。そしてユニコーンに乗って旅できる男は、普通の人間じゃない」

「あの人はきっと人間ではないわ」

「人間じゃない?」頬杖をついていた身を乗り出すようにして、タロスは言った。

「サルも鸚鵡もカエルも、そしてフラフも、もしかしたらもとは人間で、魔法で動物に変えられているのかもしれない。なんだかそんな気がしていたの。わたしもいずれはそうなるのかもしれないって。そうして寂しいあの人の旅の供として、世界を回るのかもしれないって」意外な言葉に黙り込んだタロスの前で、キサラは遠くを見るように目を細めた。

「あのひとの横腹には痣があった」

「痣?」

「あなたが石をあてたオオカミと同じ場所」

 タロスははっと目を見開いた。

「キサラ、ならば逃げよう」

 顔を紅潮させてタロスは言った。

「奴はきっと魔法使いだ。一応聞く。きみの心はもうすこしも彼のところにはないんだな?」


 キサラは答えなかった。


 タロスの胸を不安の暗雲が覆った。


「わたしは罪深い」キサラはぽつりと言った。

「あのひとのところに、何も置いてこなかった。綺麗な言葉をたくさん捧げてくれたのに。わたしには過ぎた言葉を」

 タロスは後悔にかげるキサラの瞳を見て言った。

「……ならなぜ、おれについてきた」

 キサラは未開の秘境のようなタロスの瞳を見つめると、その頬に手を伸ばして言った。

「わたしはあなたの、高すぎる体温が好き。

 考える前に、走り出すところが好き。

 それと、あなたの抱えている罪のにおいが好き」

「罪……」

 無防備に見開かれたタロスの緑の瞳を、キサラは自らの姿を映す泉のように覗き込んでささやいた。

「いっしょにいれば、わたしはあなたの、あなたはわたしの罪に染まる」

 真意を測り兼ねて、戸惑ったようにタロスは言った。

「それはきみにとって幸いなことなのか」

「それ以上のことは望まないわ」

 タロスは身の内から湧き上がる愛しさと歓喜に、思わず少女の体を抱きすくめた。

「ではもうはなさない。おれたちは永遠にいっしょだ。

 もし人ならぬ存在である彼がおれたちを追いかけてきたら、そのときは二人で彼の前に立とう。おれたちの愛を花束のように広げて見せて、横腹に痣のある、世界一の薬師の審判を待とう」

 その答えに安心したかのように、やがてキサラはタロスの胸で小さな寝息をたてはじめた。


 クィクィクィクィ、クィクィクィクィ、

 コウカンチョウの声にまじって、何か水を注ぐような音が聞こえていた。

 朝なのかと思って薄目を開けると、まだ明けやらぬ未明の薄明かりの中、頭からベールをかぶった女が、右側に座ってこちらを見ていた。

 タロスは目を大きく開けて、ベールの中の顔を見た。そして、ああ夢なのだと思った。

 しばらく会っていない母親のラウラが、真っ黒なワンピースにダークグレーのレースのベールをまとい、首をかしげていたのだ。

「やあ、ママ」タロスは眠気でよく回らない口で言った。「夢でしか会えなくて、ごめん」

「いいのよ」ラウラは小さな小さな声で言った。

「あなたに追いつけたもの」

 背後でトボロチの花が、ぱさりと落ちる音がした。

 ラウラは手元のグラスを上げて見せた。中には、赤い液体が揺らめいていた。

「いつも黙って出て行って、いつ帰るかわからない。パパと乾杯もしなかったでしょう」

「それでここへ」

「ええ、ちゃんとお祝いがしたくて」

 タロスは身を起こした。

 母親はにっこり笑うと、隣の少女に目をやった。

「きれいなお嬢さんね。初めての、ほんとうの恋なのね」

「そうだよ、ママ」幼子のような平らかな気持ちで、タロスは言った。そうしてそっと起き上がり、少女の美しい寝顔を見やった。

「ぼくの永遠の恋人だ。最初で最後の」

「もうすっかりあなたのものなのね」

「ぼくらは結ばれた」

 タロスは誇らしい気持ちで言った。

「神話の中のふたりのように、どうか祝福してほしい。ここは夢の中なのだから」

「もちろんですとも」

 ラウラは左手のグラスは膝の上においたまま、右手に持ったグラスを差し出した。

「わたしがバラの香りをつけておいたとっておきのお酒よ。幸せの秘薬を溶かしておいたの。それはどんな呪いからも自由になれる薬。邪魔なものすべてから逃げられる薬」

「素晴らしいな」タロスは母親の手からグラスを受け取った。

「乾杯しましょう、あなたの恋と幸せのために」

「恋と幸せと、自由のために」

 タロスは微笑むと、グラスの酒を一気に開けた。

 火のついたように喉が熱くなり、甘い香りと香料の刺激となにかの香りが口中に広がると鼻から抜けていった。

「幸せの秘薬なんて、どこにあったの」酔い心地で、タロスは尋ねた。

「何でも売ってくれる薬師が森の中にいるのよ」ラウラは自分のグラスを手元に置いたまま言った。

「彼から買えと、パパが教えてくれたの」

「……」

 タロスははっと目を見開いて、手の中のグラスを見た。

「幸せになれるのよ。すべてを忘れれば、すべてのものから逃げられるわ、タロス」

 タロスは傍らのキサラをよく見た。薄闇の中で、その唇から赤い液体が薄くこぼれているのがわかった。

「何をした!」

 グラスを取り落して、タロスは少女を激しく揺すった。

 キサラは壊れた人形のように、顔を左右に振るだけだった。

「慌てないで、愛しいタロス。これは夢の中だと言ったでしょう」

「ならば言え!」タロスは目の前の母親に食って掛かった。

「誰からこれを買った。いつだ。これは何の薬なんだ!」

「忘れればいいのよ。誰も悲しまない。なかったことにすればいいの。この薬さえあれば、世界のどこにも、悲しみなんてないのよ」

「パパの差し金だな!」

 タロスは母親を突き飛ばした。ベールごと体が後ろにはじけ飛び、木の切り株にぶつかった。

「忘れる?ちきしょう、忘れるもんか。こんな薬で……ああ、起きろ、起きてくれ!」タロスは音を立てて、少女の頬を何度もたたいた。

「あなたがドルドラの女にとりつかれて苦しんでいるとパパから聞いたのよ。じきに楽になれるわ。二時間もすれば、実りのない恋の記憶なんて綺麗に消え去るわ」草の上に手をついて、口元から血を流しながら、ラウラは言った。

 タロスは自分ののどに手を入れて、飲んだものを吐こうとした。だがえづき声が漏れるだけで、涎のほかは何も出てこなかった。母親はその様子を見ながら、低い声で囁いた。

「その荒ぶる力と生命力を世界に向けなさい。今世界に欠けているのはそれよ。つまらないことを忘れれば、お前は英雄になれる」

「なるもんか。お前を殺してピケ家を崩壊に導いてやるんだ。まともに生きるつもりだったのに、ちくしょう、どうしてあんたたちは」タロスは喚きながら母親の首に手を伸ばした。

「愛しいタロス。可哀想に、その苦しみもあと少しで消えるわ」母親は顔を充血させながら、タロスの指に潰された声で言った。

 そのとき背後で、ごほっと音がした。

 タロスが振り向くと、横を向いたキサラの口から、赤い液体が大量にこぼれていた。

「キサラ!」タロスは母親から手を放して、少女に飛びついた。

「大丈夫か、おれがわかるか?」肩を揺すると、キサラは緑色の瞳を開けた。そして、背後のラウラを見た。

「月の女神が」キサラはゆっくりと言った。「近づいてきて、お水を飲ませてくれたの。夢の中で」

「キサラ、目を覚ませ。おれは誰だ?」

「タロス」はっきりとした口調だった。

「ああ、ああ」タロスはキサラを抱きすくめて声にならない声を上げた。

「月の女神……」

「そっちを見るな」タロスは叫んだ。「女神じゃない、こいつはおれの母親だ。おれにとっては魔女だ」

 ラウラの視線は、金髪の少女の上で釘で打ち付けたように止まった。

 タロスと同じ、深い深い緑の目。その名前。

 キサラ。

 ……キサラ?

 瞬間、ラウラの頭の中で、松脂で塗り固められた記憶の実がはじけ飛んだ。

「わたしが」

 ラウラは茫然と言った。

「その名前は、わたしがつけた」

 そして夢遊病者のように立ち上がり、両手を伸ばし、少女の髪にふれ、頬を両手で包んだ。

「わたしの、小さな、小さな赤ちゃん。こんなところで、こんなに大きくなって」

 金髪の少女は、勿忘草の布を身にまとったまま、驚きに目を見開いて、自分の顔を覗き込むラウラの紫色の瞳を見つめた。タロスはぽかんと口を開けたまま二人を見つめていた。

「わたしのキサラ。わたしが乳を搾り、あなたは哺乳瓶で飲んだ。

 でも、生まれたときからあなたの足は鳥のようで、だからわたしは」

 ラウラの瞳から涙が零れ落ちた。

「あなたを捨てた」

 キサラの細い手を握り、ラウラは自分の頬にあて、そしてふくよかな乳にあてた。


「愛していたのよ。愛したかったのよ。

 ごめんなさいね……」


 ラウラはそこで言葉を切ると、喉の奥で、撃たれた鳥のような声を出した。

 そして両手で胸を押さえると、そのまま前かがみに崩れ落ちた。

 手の指を猛禽類のように広げ、あたりかまわずつかみかかるようなしぐさをし、キサラのまとっていた勿忘草の布を掴んだ。その下から出てきた白い足は、もう母親の目に入ってはいなかった。のたうち回り、ひととは思えない声でキサラ、タロス、タロス、キサラ、と子どもたちの名を呼び続け、声が途切れた時には、目をうっすらとあけたまま息絶えていた。


 無残な骸を挟んで、キサラとタロスはしばらく茫然と声を失っていた。

 やがてそっとキサラは母親の体に手を伸ばし、かがんで話しかけた。

「ママ……」

「やめろ!」タロスは自分の髪を掴んだ。

「こんなはずがない。こんなはずが」

 キサラはそのまま俯いて、母親の顔を抱くようにした。

「そいつから離れろ」タロスは叫んだ。


「やっと会えたのよ」


 声を詰まらせてキサラは答えた。


「わたしを覚えていた。忘れていなかった。

 愛していると、言ってくれた……」


 そして、母親の死に顔の上に涙を落とした。

 タロスは明けていく空に向かって絶叫した。


「天よ、どこまでおれたちをあざ笑うんだ。おれたちは神の道化か。これが夢なら、早くここから出してくれ!」


 その悲鳴に似た声は夜明けの天空にこだまし、一斉にあちこちの木々で鳥たちが鳴き騒いだ。

 木々はざわざわと頭を振り、草の実がばらばらと落ちた。


 やがて大小さまざまな実を踏んで、白い蹄が森の道を踏みしめてやってきた。


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