5.すべてをあなたに
突然戸口に現れた巨体の少年に、シスターは驚き、すぐにファーザーを呼びにやった。
「尋ね人なら、もうここにはいませんよ」
キサラの名を聞いてすぐ、ファーザーは少年に言った。
「婚礼の式をあげて、ここを出て行きました。もう帰りません」
「婚礼?」
タロスは驚愕して問いただした。
「どこの誰とだ。なんという名だ。それはいつだ!」
「おとといです。名前は言えません。ときは戻せない、契約はなされました。ここにいる皆に祝福されて」
タロスの全身に怒りと焦燥が湧き上がった。取り戻せないものがあるなどという現実そのものが許せない。全身の筋肉が盛り上がり、瞳は燃え、と同時にそばの木の枝をへし折ったその様子に、シスターとファーザーは思わず後ずさった。その後ろから花柄のスカーフをかぶった黒眼鏡の婆さんがゆっくりと姿をあらわした。
「触らないでもわかる、体全体が火のように燃えている。まるで尊大な神の子、タンタロスのようだ」
タロスは折った枝を握ったまま婆さんに身体を向けた。
「おれの名のいわれだ。キサラをさらった男はどこにいった」
「どうやら間違いないようだね。あんたの思い人の言葉を教えよう」
婆さんは少しも慌てず、荒ぶる少年の前に進み出た。
「火のように熱いからだと、凍りかけた水のような悲しい魂を持つ人だった。嵐のように激しい強い人で、体中が熱くなって、これが嵐なら巻き上げられてもいいかもしれないと思った」
タロスは目を見開いて、ふりあげていた枝を下げた。そして薄く口を開けた。
「だが、あんたはあの子から聞いた名前をたたき捨てた。
可哀想に、あの子は陽のある一日、泣き続けていたよ。
あんたに捨てられた己の姿を恥じて、あんたを忘れるため、ただ憎まずにいるためにほかの男のものになった。
あの子の気持ちがわかるかい」
タロスの手から枝が落ちた。
両手を握りこぶしにしたまま、棒っ杭のように少年は立ち尽くした。
「夫となった男は、あんたが捨てたあの子の名前と体をすべて引き受けた。 白い美しい馬に花嫁を乗せて、幸せに出て行ったよ。
恨む権利なんてありゃしない。恨むなら自分を恨むんだね」
燃えるようなタロスの瞳は、今や陽の落ちた森のように暗く鎮まっていた。
何も言えずに俯いたまま、タロスは唇をかみしめた。その唇からも、握りしめた掌の内からも血がにじんだ。ゆっくりとこちらを向いた広い背中に向かい、ビビ婆さんは言った。
「あの子を追うのなら、もう獣のこころに戻らないでおくれ。あんたが心から悔い改めたのなら、運命の神も考え直すかもしれない」
踏みしめる足の下で、木の枝がばりばりと鳴った。
……火のように熱いからだと、凍りかけた水のような悲しい魂を持つ人だった。
これが嵐なら巻きあげられてもいいと思った。……
繰り返し繰り返し大波のように押し寄せてくる後悔と恥の記憶が、タロスという大地をどんどんと削っていた。浸食されたことのない大地だった。
タロスは後悔の業火に焼かれながら、同じ嘆きを繰り返した。
ああ、キサラ。おれはなんということをしたのだ。きみはもう身も心も、その男のものになったのか。
出会った途端にお互い恋におち、そして永遠にわかれるさだめなら、おれたちはなぜ出会ってしまったのだろう。
おれはこの運命を恨む。おれときみを出会わせた神を決して許さない。
ああ、狼になりたい。この世のすべてを食い尽くして吠え狂いたい。だが、たった一つの望みのために、おれはそれを決してしないだろう。
愛しいキサラ。もう一度。もう一度だけ会って、懺悔して、地面に頭を擦り付けて謝って、今の自分を見てもらって、それからもう一度選んでほしい。それでだめならばおれは自分で自分を滅ぼし、この世から消えよう。
馬の蹄鉄と車輪の後が、工房の門から続いていた。タロスはまるでそれが約束された道であるかのように、その上を踏みながら先へ先へと進んだ。
客に会う予定があると言って、ダリダは夕方、テントを出て行った。
キサラはランプの灯りの元でレースを編んでいたが、猿たちが籠を揺すって騒ぐので、途中で針を置き、籠の中の果物や芋を与えた。鸚鵡のココは緑の葉っぱをしゃくしゃくとはみ、リスザルのペペは両手でリンゴをもっておいしそうにかじった。馬のフラフは繋がれた綱をぴんと伸ばして川に入り、音を立てて水を飲んでいた。
あたりはもう夕暮れで、林の向こうに西日が沈みかけていた。
暗くなったら川で水浴びをして体を清めるといい、とダリダに言われていたことを思い出し、キサラはフラフに顔を近づけて「わたしを守ってね」とそっと囁いた。
そしてテントの入り口を閉じて、服を脱ぎ始めた。
すっかり裸になると、外に首を出して左右をみたのち、両手で胸を覆って、浅い川に滑り込んだ。
澄んだ流れの底には水藻がさらさらとそよぎ、アナカリスの花がつぶつぶと咲いている。最初は冷たかった水も、体を浸してしまえばなんということはなかった。キサラは夕暮れの空を見上げ、このままもし夫が帰らなければ、森の中で実を摘み、きのこや草を食べて動物のように生きていこうと考えた。そして、膝から下の異形の足を見ながら、風景を映すこころのままに鈴のような声で歌った。
かぜはみずのいろ みずはそらのいろ
そらはとりのゆりかご ほしはよるのひとみ
だれもわたしをみないで あのひとのまなざしのほかは
ふと視界の端をなにかが走り抜けた気がして視線をやった。その先に、フラフの帽子を持ったリスザルのペペがいた。ペペの足には切れた紐がぶら下っている。得意そうに木の枝から枝へ飛び移ると、その姿はあっという間に森の中に消えた。キサラは思わず立ち上がった。
「ペペ、戻って!」
静寂が続いたのは30秒ほどだった。
ペペが消えた木陰がさらに大きく揺れたかと思うと、大きな人影が現れた。
2メートルはあろうかという黒い人影の顔は、薄闇の中では確認しきれなかったが、その手に帽子を持っていることはわかった。
キサラは両手で胸を覆うと、静かに水中にしゃがんだ。掌の下の心臓が飛び上がらんばかりに鳴っていた。
薄闇に目が慣れると、燃えるような赤い髪と緑の瞳がはっきりと分かった。
タロスはセコイアの木陰から歩み出ると、かすかに震えながら話しかけた。
「幻じゃないのか」
キサラは首を振って、鼻まで水につかった。そのまま頭まで潜りそうになる少女に、タロスは慌てて言った。
「待て、逃げないでくれ。なにもしない」
キサラは潜るのをやめて顔を出し、肩まで姿を現した。
タロスは帽子を胸のところで持ったまま言った。
「なんて言ったらいいのかわからない。死にそうだ」
黙ってこちらを見る川の中の少女のひとみは、秘境のエメラルドのように尊く輝いていた。
キサラはかすかな声で、独り言のように言った。
「あのときと同じ」
川の中から美しい少女に見つめられ、タロスは大粒の涙をぽろぽろとその頬にこぼした。
そして拳の甲でぐいとその涙を拭くと、震え声で言った。
「わざと覗いたんじゃないんだ。ただ轍を追いかけてきたら」
「わかってるわ」
「あのときと同じ。確かにそうだ、そしてあのときおれは人でなしだった。
でも今は違う」
キサラは目を伏せた。
「きみに謝る言葉もない。おれはきみからもらった心も大事な名前を投げ捨てた。
でももし許してもらえるなら、謝罪の言葉を受け取ってくれ。そのためにここに来たんだ。それすらいらないというのなら」タロスは繋がれたフラフのほうを向いた。
「あいつの角で突き殺してもらってもいい」
「角?」
キサラは帽子を取られたフラフのほうを向いた。
そして、今まで丈の高い帽子の中に隠れていた頭頂部の、白い鬣の中から、真っ白な角が真上に突き出しているのを見た。
「まあ」
キサラは両手で口を押えた。
フラフは、ブルルと鼻を鳴らすと白い角を勢いよく振った。
「知らなかったのか」今度はタロスが驚いて言った。
「知らずに一角獣と旅をしていたのか」
キサラは夢見るような表情でフラフを見た。そしてすっと水中から立ち上がり、愛馬に手を差し伸べた。
思わず目を伏せたタロスの前を通り過ぎ、フラフは長い綱でつながれたまま川に静かに入っていった。
長い金髪を背中にたらしたまま、キサラは大理石を彫り上げたような白い裸身をゆったりとフラフに預けた。
身の内に、抑えがたい衝動が火のように燃え上がるのを感じながら、タロスは抑えた声で言った。
「きみがすっかり新しき夫のものになっているのなら、あきらめようと思った。でも一縷の望みにかけた」
ユニコーンは嬉しそうに瞳を閉じて、キサラの胸に顔を押し付けている。
「まだ本当の意味で花嫁になっていないなら、……その伝説の生き物が本物だというのなら」
ユニコーンは処女にしかなつかない。
その説明を自らの口でするのは憚られた。
だがその先を言う前に、キサラは長い金髪で胸元を隠したまま、言った。
「わたしはまだ誰のものでもないわ」
タロスの胸の中の熾火が一気に燃え上がった。
「聞いていいだろうか。さっきの歌の、あのひと、はもしかして、おれのことなのか」
「ええ」
ひそやかな声だった。
胸の内が喜びに震え上がった。タロスは声をわななかせながら言った。
「きみからおれに近づいてくれ。おれにはその資格がない。おれがきみに捧げられるのはこの不完全な体と心だけだ。でもそれでいいというのなら、このいのちごとすべてを捧げる。
受け取ってくれ。おれの名前は、タロス・ピケ」
キサラは静かにタロスを見ると、フラフから離れ、一歩一歩タロスに近づいた。
フラフは激しくいななき、首を振って暴れた。前足を激しく踏みしめ、後ろ足で水をけった。困惑したように振り向くキサラの足元を見て、タロスは思わず声を上げた。
「足が!」
浅瀬に立つキサラの足は、いつの間にかすっかり人間のそれになっていた。
キサラは茫然と、見たことのない形の自分の足を見下ろした。
タロスは感極まったように言った。
「祈りが通じたんだ。ずっと天に祈っていた。もうおれたちの間に障壁はない」
タロスは草原に広げてあった勿忘草の布を掴みあげ、丸ごとキサラを包むと、暴れているフラフの頭に向けて帽子を投げた。大きな帽子が角にかぶさった途端、フラフは目隠しをされた猫のようにおとなしくなった。
キサラはタロスの首に両手を回した。
タロスはそのやわらかい体を抱いたまま森の中を大股で走りに走った。
「どこへ連れて行くの?」
腕の中でキサラは尋ねた。
「小さな泉のそばにおれの荷が拡げてある。
そこできみをすっかりおれのものにする。いいだろう?」
タロスは顔を近づけ、囁くように言った。キサラは何も答えず、その胸にそっと顔を押し付けた。
じっさい、そこには50歩も歩けば一周できる小さな澄んだ泉があった。周囲はネモフィラの青い花々が群れ咲いており、小さな実がたわわに実ったブルーベリーの茂みの傍らに、肌色の毛布が拡げられていた。
柔らかな毛布の上で、タロスの大きな腕に包まれ、髪を掴まれ、背中を抱きすくめられて脈打つ胸と胸が合わさったとき、キサラははじめて、これが生きているということかと思った。そして最初会った時感じた嵐のような風が、唇から皮膚から、そして重なったすべての部分から自分のうちに吹き込むのを、衝撃とともに受け止めた。
やがて、彼の情熱と切なさを余さず含んだひとつの意思が、かたちとなって自分の内側をこじ開けた。
昔々から、愛というのはこのような、生身に杭を打ち込むような儀式とともに受け継がれてきたのかと驚き、自分のあげる声を、虐げられたけもののようだと思った。
そうして身も世もなく自分をさらった少年の波打つ命の杭を、キサラは体をしならせながらあまさず受け止めた。
この熱さ。痛みと苦しみ。これは自分という存在そのものへの罰。わたしを殺しに来た人の、なんというやさしさ。
愛も死も、みんなこの人の中にある。
広い広い背中にしがみつきながら、涙ににじんだ中空に、キサラは話しかけていた。
さようなら、わたしのユニコーン。
さようなら、わたしの夫。
さようなら、レースに包まれたわたしの世界。
わたしは敷居を超えて、嵐の世界に踏み込んだ。
もう戻れない、戻せない。
きっと世界のなにもかも……
なぜか脳裏に、教会のミサの幻影が浮かんだ。銀髪の司祭が香炉を振りながら、歌うように言っていた。
……われら、生のさなかに死に臨む。
土は土に、灰は灰に、塵は塵に。
永遠の生への復活を信じ願いつつ……