4.忘却の薬
タロスは町に戻るとまず友人宅を訪れた。と言っても夜の庭に入り込み、二階の窓に石を投げるという古風なやり方だった。ほどなくして小学校からの悪友のルオーが勝手口から出てきて、苦い顔で近くの公園に移動しようと言った。
「イネラに逢いたい。電話にもメールにも反応がないし、アパートも留守だ。無事なんだろう」
タロスは公園のベンチでルオーに言った。ルオーはスキンヘッドのてっぺんの、十字架の入れ墨をごしごしやりながら一言
「死んだ」と素っ気なく言った。
「嘘だろう」
「嘘なもんか。あまりもう会いに来るな、お前にかかわるとまずい」
「助かったと聞いた」タロスはたたみかけた。
「じゃあいうよ、いったんは助かった。それで病院に運ばれた、でもそのあと死んだ。窓から落ちて」
「落ちた?」タロスは即座に聞き返した。
「なぜ落ちた」
「お前の家族にとって、生きててもらっちゃ困るからだろう。本人は自分で花に食われたと言ったが、いずれほんとのことを言わないとも限らない。それでたぶん」
タロスは黙り込んだ。それからぽつりと言った。
「それは確かか」
「皆知ってる、ピケ家の醜聞は外に出ない。ペドロはピラニアに食われたから口無しだ」
謝りたい、と伝え聞いた言葉が、イネラの表情とともに頭の中でぐるぐると回った。
わかった、と答えると、タロスは黙ってルオーに背を向けて夜の闇に消えた。
それから30分後、タロスの運転する盗難車はまずピケ邸の門柱にぶつかり、エントランスの低木を3、4本引き倒したのち玄関前の噴水に突っ込んで止まった。アレスは庭の惨状を上から見て「うちの自動ガレージはいつから壊れた!うちの車じゃない車をなぜ入れる」とわめいたが、メイドが「顔認識で通ったんです。お乗りになっていたのは坊ちゃんです」と叫ぶと、再び庭を見て両手で頭を抱えた。そして10分後には居間で不肖の息子と向かい合っていた。
「車はどうした。自分の車は」アレスは紅潮した顔で聞いた。
「砂漠のどこかに乗り捨ててきた。あの車はかっぱらってきたものだ。ママは」
「パーティだ」
「こんな夜ふけまでパーティか」タロスは皮肉っぽく言った。
「お前の尻拭いのためにいろいろと根回しが必要なんだ。風邪をひいていなければ私も行っていたさ。自分が何をしたか言ってみろ」アレスは怒鳴りつけた。
「イネラをどうした」
「イネラ? どうした?」父親は妙な顔をしたが、やがて眼を斜め上に投げて投げやりに言った。
「あの女なら花に食われた傷を苦にして自殺したんだろう。わからんことじゃない」
「口封じのために始末したんだな」タロスは眼下の父親の顔を睨みつけた。
アレスはソファにどさりと座って両手を広げた。
「イネラのことをなぜ気にする。もう終わった女だろう」
「ぼくに謝りたがっていると聞いた。ぼくも彼女に悪いことをした。だから謝って、別れを告げて、きちんと関係をきれいにしたうえで、ちゃんとした心でもう一度彼女に会いたかった」
「会うも何ももうこの世にいない」
「もう一度会うのはそっちじゃない。キサラだ」
「なんだって?」アレスは火をつけた葉巻を灰皿に置いた。
「なんといった」
「キ・サ・ラ。ぼくが初めて心から好きになった女の名だ。金色の髪に、ぼくと同じ緑の目。小鳥のような声、かぐわしい魂。彼女のためにぼくは、まっとうになると決めたんだ」
アレスは長い煙を上らせている葉巻をそのままに、ゆっくりと聞いた。
「どこで会った」
「あんたに言えば気絶するかもしれない忌まわしい場所さ。だけど、世捨て人のたまり場にも、天使はいたんだ」
「……ドルドラ?」
「そして、体の一部が人間じゃない。鳥と同じ足をしている」
アレスの全身が瘧のように細かく震えだした。
おびえた猫のように瞳孔の開いた父親の顔を見ながら、タロスは言った。
「驚くのも無理ないよ。もしあんたが、あんたらがイネラを殺したなんてことを知らなければ、ぼくもこんなことは隠して、いかにもどこかの町でいい女に出会っただけの話として始めたかもしれない。
だがもう遠慮はしない。あんたも息子のぼくも似た者同士のクズだ。でもぼくは、まともになる。勝手に呆れてろ。ぼくはまともになるんだ。鳥の足のキサラのために」
「いかんいかんいかんいかん!」アレスが両手を振ったと同時に、卓上の電話が鳴った。
タロスは表示された名前を見るといきなり手を伸ばし、その手をはねのけてアレスが受話器を取り上げた。
「わたしだ。ああラウラ、パーティーはどうだね」
『長引きそうなの。夜明けまでに帰れるといいんだけど』漏れてくる母親の声に重ねて、タロスは言った。
「息子を客と言わなければならないぐらい都合の悪い話か。いずれママにも話すのに」
アレスは電話口を押さえて表情だけでタロスを怒鳴りつけた。
『今のはなに? タロス? タロスなのね?』
ラウラの声が甲高くなった。
「なんでもない、テレビドラマだ。ラウラ、今帰っても君と話はできない。来客とテレビを見てるんだ。そっちもゆっくりしておいで」口元を手で覆って一方的に話すと、アレスは電話を切り、着信音をオフにした。
そして額にふつふつと汗を浮かべながらタロスを睨みつけた。
「命にかえてもそんな女は認めんぞ。ドルドラの人間と一緒になるなら、何もかも捨ててここから出て行け!」
「パパの一存でぼくを追い出すのか。ママがそれを許すかな」
アレスは息子の顔を見つめたまま絶句した。無茶を押し通そうとする息子のほうが今自分より完全に優位なことが、ただ信じられなかった。白くなったり赤くなったりしながら汗を吹きだし続ける顔を見て、タロスはいくぶんトーンダウンした様子で向かいのソファに座った。
「パパ、落ち着いて話そう。
ぼくはいままで、たしかにパパとママに守られてきた。そして好き放題してきたさ。でも、自分で自分に満足したことがない。幸せだと思ったこともほとんどない。
自分自身も世の中も家族もみんな自分のことしか考えないクズだと思ってたからだ。この世に綺麗なものなんかないと思ってきた。
でも、あの静かな山の中に、それはあったんだ。彼女と会って、それがわかった。
今から思えば鳥の姿を体に取り入れているのも、腐った人間の純血種より相当ましだってことかもしれない。
言葉で話すのは難しい。理解してもらうのも難しいだろう。でもあなたの息子は初めて、真面目にまっとうに生きようという気持ちになってるんだ。ほんとうのもの、きれいなものを守る、それだけのために生きようと思ってる。
理解できないならそれでいい、ぼくを自由にしてくれ。ピケ家の財産もいらない。
理解しようと思うなら、この恋を祝福し、見守ってくれ」
アレスはソファに座ったまま聞き終わると、額を手で覆った。それから、顔を覆った。やがてその手を外すと、首を振り、ゆっくりと言った。
「おまえが……」
しばらく言葉を詰まらせた後、先を続けた。
「おまえが、真剣にものごとを考えるようになったことは、わかった」
それから上を向くと、長いため息をついた。
「大人になったんだな」
タロスの表情が、溶け始めの雪のように柔和になった。アレスはその様子を見やって、穏やかな声で言った。
「いつその女に会った」
「4日前」
「会ったばかりか。ではまだ何もないのだな」
「これからすべては始まるんだ。またすぐ彼女の元へ行って、逃げ戻ったことを謝って、誓いを立てる」
「まあ待て。酒を取ってこよう、まずは乾杯だ。お前は恋をして、そして大人になった。父親として、そのことを祝いたい」
タロスは部屋を出て行く父親に向かい、軽く右手を上げた。アレスも軽く手を上げて応えた。
そして隣のキッチンに入り、そのままパントリーに向かった。
一番上の棚から、セキュリティつきの金属の箱を取り出す。パスワードを押すと、かたんと音を立てて蓋が開いた。
中には赤いカプセルに入った薬が1錠。
妻の酒に溶かした残りが、18年前のままに転がっていた。
アレスは添えてあった注意書きをもう一度、丹念に読んだ。
……過去ひと月以内の記憶が完全に消えます。効果が出るまでの所要時間は1~2時間。少しずつ記憶が消え、しまいに深い眠りに引き込まれます。必ず管理された環境で服用してください。
重篤な副作用。いったん記憶が消えたのち、万が一戻った場合、命を失うことがあります……
アレスは棚の奥から、妻がバラの花を漬け込んで香りを付けたテキーラのボトルを取り出した。そしてグラスに朱色の液体を注ぐと、カプセルの中身を振り入れて揺すった。鳩尾を焦がすような苦い思いを噛みつぶしながら。
……タロス、心からおまえを祝福したい。成長したその魂を祝福したい。
だがどうしてたった一人と思い定めた相手が、会ってはならない実の姉なのだ。
アレスはグラスを両手に持ち、こしらえたばかりの微笑みを湛えながら居間に入った。
タロスのいたソファはすでに空だった。代わりに黒人のメイドが手を揉みしだきながら立っていた。
「あいつはどうした」アレスは大声で聞いた。
「お止めしたのですが、時間が惜しいとおっしゃって……」
メイドが指差す窓の外にはセコイアの大木があり、その下からバイクのエンジン音が響いていた。
窓に飛びついて顔を突き出したアレスは、爆音とともに門の方向へ走り去るタロスのバイクを見ると大声で名を叫び、手を振り回した。その手からグラスが飛び、赤い液体は大理石の床じゅうに血のように飛び散った。
遠ざかる爆音の中、アレスは頭を抱えてその場に座り込んだ。
セドロの森の中の工房を出てから、キサラはずっとダリダの後ろで大きな白馬の背に揺られていた。
馬の後ろには車輪のついたそりが繋がれ、スーツケースや丸めたテント、キサラのわずかな衣服や刺繍の道具、色鮮やかな鸚鵡やリスザルの籠などが積まれていた。
昼なお暗い緑の森は絡みつく蔦や寄生植物、突然変異の異形の花々でとりどりにおおわれ、足元には小人の家のような鮮やかな毒キノコがあちこちに顔を出していた。
キサラは突然の雨にも荒れ野の日差しにも困らないように、柄の長い、星月夜の描かれた大きな傘を持たされていた。ダリダが何もしゃべらないので、まるで自分たち二人が何百年も前の落ちぶれたサーカス団の末裔のように思われた。そして長い沈黙の中で言葉を忘れそうになったころ、目の前の夫の背中にそっと聞いた。
「車はないの? ずっとこの馬で行くの?」
前を向いたまま、ダリダは言った。
「森の中で車は使えませんから。馬は小回りが利くし、乗り捨てもできる。できれば人と会いたくないので、このまま馬で行きます」
「乗り捨てたりしないでしょう? こんなに立派な馬で、こんなになついているのに」キサラは驚いて言った。白馬は貴婦人のような帽子を頭にかぶり、水色のリボンをあごにかけていた。
「どこで別れても必ずまたこいつと会えるんです。世界のどこに行っても」
「名前はなんていうの」
「フラフです」
キサラは傘を持たないほうの手で、白馬の体を撫でながら言った。
「わたしを黄泉の世界に連れて行くのね」
ダリダは馬を止めた。目の前で森は途切れ、明るい陽射しの元に草原が広がっていた。そして、何事かを語り掛けるような音を立てて澄んだ川が流れていた。フラフは俯いて、足元の土をかっかっと前足で蹴った。
「なぜそう思うのです」手綱を手元にまとめ、振り返りながらダリダは言った。
「だってあなたは、突然わたしを連れに来たから」
「その先がなぜ黄泉の世界なのですか」
「あなたは自分の家に連れていくと言ったけれど、家なんてどこにもない気がする」
「どうしてです」
「きっとわたしもあの工房に戻れない。どんなに探しても、二度とあそこには行きつけない。そんな気がする。
あそこは本当はなくて、わたしもきっと、本当はいなかった人間なの。わたしを生んだ人たちも、本当はどこにもいない。きっとそうなんだわ」
ダリダは馬を下りると、少女に手を差し伸べた。そしてその細い腰を両手で持つと、さっと横抱きに抱きこんで顔を近づけた。
「そんな悲しいことばかり考えさせるわたしは夫失格ですね」
「あなたじゃなくて、わたしがいけないの」
「なぜそんな風に思うんです」
「ごめんなさい」キサラは夫の腕の中で声を詰まらせた。
「でもわたしはある人と出会ってしまった。そして、もっていかれてしまった。魂の一部も、わたしの大事な名前も。そのときからわたしの中身が空っぽになってしまった気がするの。今生きているのかどうかも、もうわからない」
キサラの瞳には涙が充満して、浅い泉のようにきらきらと光っていた。
ダリダは静かに言った。
「辛いことは忘れさせてあげましょうか。わたしにはそれができます。薬師ですから」
キサラはダリダの青い目を見上げた。そして、きっぱりといった。
「それはだめ」
「なぜですか」
「辛いこと苦しいことをみんな忘れてしまったら、生きている意味がなくなる気がする。
そして生まれてきた意味も、きっとなくなってしまう」
ダリダはそっとキサラを地面におろし、微笑むと、その姿を見ながら言った。
「ごらんなさい。あなたは見事に、自分の足で立っている。苦しみながら立っている。あなたは生きています」
そしてキサラの足元に跪き、その足からブーツを外した。とがった三本爪の足があらわになり、キサラは戸惑いとともに赤くなった。ダリダは妻の鳥のかたちの足に口付けて、その顔を見上げた。
「わたしはこの足が好きだ。だがあなたを捨てて去って行ったという誰かは、たとえそばにいても、あなたの足が人間のものであったらと願い続けるでしょう。願い続けながら、仕方なくあなたを愛するでしょう。
そんな相手のために、傷つくことはない」
キサラは反論しようとして口を開けたが、そんな、と言ったまま言葉は止まってしまった。
「わたしはあなたを本来のあなたでいさせてあげるために、あなたを連れだしたのです。
この世はじきに終わる、そう長くはもたないから」
「え?」
「せめて、自分自身でいなさい」
ダリダは後ろを向いてマントをさっと脱いだ。
その下から黒いタンクトップ一枚のたくましい体が現れた。腕も背中もそこかしこ動物の姿の入れ墨だらけだった。
車輪つきのそりの上の動物たちの籠を地面におろすと、サルや鸚鵡やカエルたちが鳴き騒いだ。ダリダは勿忘草の模様のやわらかな布を草原に広げた。
「疲れたでしょう。今夜はここで過ごしましょう。あとで眠るためのテントを張ります」
そりから荷を降ろすとき、めくれ上がった服の下から、横腹の青い痣がのぞいた。
キサラは青い花模様の上に座りながら、緑の目を大きく開いて、じっとその痣を見つめた。