3.求婚者
天空には夕闇が迫っていた。
タロスは砂漠の中にわずかな灯りをともすさびれた村に徒歩で入った。
一日何も食べず考え続けた頭はがんがんと鳴り続ける鐘のようで、喉はからからに乾いていた。
あたりには人影もなく、動くものは夕暮れの風に吹かれたタンブルフィードのみだ。
軒の低い家並みを歩くとやがて小さな広場に出た。中心には鳩の模様のタイルに縁どられた噴水が一つある。タロスは獣のように四つん這いになって、噴水の水に口をつけてごくごくと飲んだ。
顔を上げると正面に古ぼけた教会があった。傾いた尖塔が夕日の最後のきらめきを受けて光っている。
聖堂の木製のドアには赤いスプレーで腹にミサイルが刺さったキリストが殴り描きしてあり、まるでサインのように「役立たず」という文字が添えてあった。
何百年も昔の村に迷い込んだかと思ったが、どうやらこのドアを見る限りではまだ現世にいるようだ。タロスは苦笑いを浮かべると、無残なキリストの絵に近づき、血を流す腹の部分を押した。
聖堂内の空気はひんやりと鎮まっている。そのままかび臭い暗闇の中を、ぼんやりと灯りのともる告解室に進んだ。一晩考え続けたことを口から出さないともう体ごと爆発しそうだった。
体ひとつ入れればいっぱいの空間に入ってドアを閉め、椅子に座ると、星の形をくりぬいた格子の向こうで、人影が動いた。
「今日は何曜日だっけ」タロスは唐突に人影に向かって尋ねた。
「金曜日です」体温のない声が答えた。
「キリストの受難の日。ミサがなくて暇なんだろう。おれの告解を受けてくれるか」
「神の慈しみに従い、あなたの罪を打ち明けなさい」
錆びついた声は天の恵みのようだった。格子の向こうに見える黒い神父服、長めの銀髪を見ながら、タロスは胸に十字を切った。
「どこから言おう。主イエスキリストよ、おれは初めて人を好きになりました」
そのあと口元に握り拳を当て、黙った。次の言葉が喉にひっかかったままなかなか出てこないのだ。
「好きになった。そう感じた。その瞬間、これが真実というものの姿だと思った。それがほんとうかどうか、あんたに判断してほしい」そして言葉を切った。
「続けなさい」神父は言った。
タロスは格子の星形を見ながら用心深く言葉を探した。
「言葉でどういえばいいのかわからない。金髪に緑の目の、唯一無二の女。 たとえばおれたちは、同じ体の中の動脈と静脈のようだった。彼女に向かって流れ込むおれのどす黒い血は、清浄な流れになって戻ってくる。おれの血潮を飲み込んだ彼女の頬には紅がさす。そのときおれたちは、互いを呼吸するひとつのからだだった。いや、そうあるべきだったんだ。それが正しい姿だ」
タロスは拳を握りしめた。
「でも、だけど、神が彼女に与えた形が、おれにはわからない。なぜあんなに美しい存在が、ちゃんとしたひとではないのか。彼女は完ぺきに正しいのに、その足が」タロスは息を整えると、音節を区切るように言った。「鳥、だった」
「鳥?」
「鳥なんだ。そうとしか言いようがない」
「それで、あなたのしたことは?」銀髪の神父は先を促した。
タロスは下を向いて続けた。
「おれには恋人がいて、裏切られた。黒髪の女で、ほかの男を選んだ。だから恨みを晴らした。男は殺したかもしれない、女は助かったと思う。今までにも同じようなことをしてきたが、殺したことはない。死んだなら一番重い罪だろう。けれどこの心にはひっかき傷ほどの痛みもつかないんだ」
タロスは格子越しに目の前の神父を見た。卓上のランプ一つの灯りの中で、その姿は動かない影絵のようにしか見えなかった。
「おれは愛しい女の足を見て逃げた。名前を名乗ってくれた彼女を捨てて、走って逃げたんだ。
ひとを殺したことよりも、彼女を捨ててきたことがつらくおそろしい。おれは人間だから鳥の足を持つ存在は受け入れられない、呪われたものと思ったからだ。だが今はそんな自分自身が、砂漠のサソリよりも呪わしいんだ」
多分つじつまが合っていないのだろうと思いながらタロスはしゃべり、そうして最後に声音を上げて言った。
「神父さん。彼女は何なんだろう。からだが人間ではない、不完全な形をした、うつくしい魂。おれはその事実が恐ろしい。それは彼女が呪われているからか。それとも彼女を見たおれが呪われているのか。呪われているのは、この世界か?」
「神が作った世界は、何一つ呪われてなどいないでしょう」感情の伴わない その口調は、まるで神父が自分自身の言葉を揶揄しているようにも思われた。
「そうか。この世界は、神が作ったのか」タロスは畳みかけるように言った。名付けえぬ苛立ちと憎しみが身の内に湧き起っていた。相手をひねり殺したくなる前の、あのどす黒い感情だ。
「では神とは何なんだ。悪魔も、神が作り出したのか。全知全能だからこそ、あんたらも神をあがめるのだろう」
叫び声になって体を揺るがすその問いは、口に出してしまえば、幼いころからずっと考えてきたことのように思われた。
「あなたは神が作ったか、神が祝福しているか否かによってそのものを愛するのですか」神父の声に力がこもった。
「祝福されていないなら愛さないのですか。それとも、魔であってもそのものを愛しますか? あなた自身は、祝福されたものですか?」
「祝福?」
「祝福がなければ、呪いもないはずです」
タロスは黙って、言われた言葉をすべて頭の中で繰り返してみた。突き上げるように高まってゆく焔のような後悔の感情に比べれば、祝福という言葉など中身のない卵より意味がないように感じた。
声は思いよりも前に出ていた。
「そんなことはどうでもいい。こんな世界を作り出した創造主の祝福などいらない。おれはあの魂を選ぶ。糞ッたれな、死にかけたこの世界がどうあっても、大事なのは彼女……」
そして口を大きく開け、はっきりと発音した。
「キサラだ」
そのとたん、閉め切った聖堂をくるくると舞いながら風が通り抜けた。格子の向こうで、神父はゆっくり立ち上がった。卓上のランプが上に向かって投げる影が、巨人のようになって天井を覆った。
神父は厳かに言い放った。
「まず帰ってその名を両親に言うがいい、あなたに名前を与えた両親に。そしてその決心を伝えるのです」
「言うとも」
二人の服と髪を、不思議な風が翻弄していた。タロスは今や歓喜に近い蛮勇に身体を震わせながら、椅子をけって立ち上がった。そして許しの言葉も得ずに神父に背を向け、告解室を飛び出した。
その大柄な体が聖堂を出ると、ランプの炎は消え、出所なく渦巻いていた風は勢いを増し、ごうごうと聖堂を内側から揺らした。
風はまるで紙でできた模型のように、ついに教会を内側から吹き飛ばした。教会のドアも壁も屋根も十字架もくるくると回転しながら宙に舞い上がった。そして低い雲の中にすべてが消えたと思うと、真っ白な砂がその代りに降り注いだ。
やがて降り積もった砂の中から出てきたのは一匹の大きなハイイロオオカミだった。オオカミは砂漠の中の一本道を遠ざかるタロスの姿を見送ると、天空に鼻先を向けて長い長い遠吠えをした。
ビビ婆さんが薄暗い部屋を訪れたとき、キサラは涙も枯れて目を開けたまま枕に頬を乗せていた。
「まる一日何も食べていないそうだね」
小鳥の姿が彫り込まれた古い木の椅子を引きずってきて箱型ベッドの脇に座ると、ビビ婆さんはしわがれ声で言った。
「何があったかこの婆ちゃんに話してはくれないのかい」
「何も話したくないし、誰にも会いたくないの」キサラは水に沈んだ石のような様子で答えた。
「それでは帰ってもらおうかね」
婆さんは杖の上に顎を乗せると、意味ありげに言った。
「お前さんの声と姿を知っている。そして貰い受けたいと言っている。そういうお客が来ているよ」
キサラははっと顔をビビ婆さんのほうに向けた。
「大きな人? 男の人?」
「銀髪に黒マントの、古風ないでたちさ」
「銀髪……?」キサラは不審そうに眉を寄せた。
「知らないのかい」
「知らない人だわ」
「では、お前の涙の原因はあの来客ではないんだね」
ビビ婆さんはキサラの髪をなでながらほっとしたように言った。
銀髪の男は、薄暗い応接室でファーザーと差し向かいに座り、静かにばらのお茶をすすっていた。長身痩躯、年齢不詳で、細い青い瞳はシリウスのように深く冷たい光を放っている。
シリコンでできたかぼちゃのような膨らんだ顔の上のメガネを押し上げて、ファーザーは用心深く尋ねた。
「ここがどのような場所かご存知でしょうな」
「もちろん」男は遠くから響いてくるような声で答えた。
「親に捨てられた不幸な子、生まれなかったことにされたいのちの捨て場。そして、森の奥から聞こえてくる歌声は、旅人の間でも話題になっているのですよ」
「歌?」ファーザーは傍らに立つシスターと目線を合わせた。
「森のセイレーン、あるいは妖精の声と伝えられるほど、その声は美しい。だが姿を見たものはいない。わたしは幸運にもその恩恵に浴した。湖のほとりに、彫像のように立っていた。
金髪で、緑の瞳をしていた」
ファーザーはかすかに頷いた。
「なるほど、そのように美しい子もいます。それで一目ぼれなさったと。だが」
そのとき背後で何かがどんとぶつかる音がした。ファーザーが振り向くと、半開きになったドアの向こうに、犬のような影が見えた。が、その影は長い赤毛をぶるんとふると、あはははと笑い、下肢のないからだを細い両手で支えて愉快そうに体を揺すった。
ドアの隙間から世話役の少女がこちらを覗き、短い言葉で謝ってドアを閉めた。ファーザーは男に向き直って言った。
「ご覧になったように、ここにはまともな体のものはいません。だからお目当ての娘もここに送られたのです。肝心の部分はあなたのお目には触れなかったかもしれないが」
「では見せていただいてからのことです。わたしが見た娘について見当はおつきでしょうか」
「おそらくは。この施設で一番の稼ぎ手ですな。残念だがおいそれとは譲れますまい」ファーザーはもったいぶって答えた。
銀髪の男は黙って懐から深緑の袋を出すと、ひもを解いて中身をテーブルにあけた。見たこともない大きさのダイヤやエメラルドがごろごろと転がり出た。
茶を飲もうとしていたファーザーの瞳孔が、鼈甲のメガネの奥で倍に広がった。
「わたしが出会った人は」
キサラは宙を見つめると、少し考えてまた続けた。
「火のように熱いからだと、凍りかけた水のような悲しい魂を持つ人だった。湖に落ちたわたしを助けてくれたの」
「なぜ落ちたね」
「ハイイロオオカミに石を当てたその人を、人殺しだと思ったの。それで逃げようとした。
でもあのひとはわたしを助け、きれいだといって、抱きしめてキスしたわ」
「ほう」感嘆したようにビビ婆さんは言った。
「それから名前を尋ねられて、答えたの」
「それでいいと思ったんだね」
「嵐のように激しい強い人で、体中が熱くなって、これが嵐なら巻き上げられてもいいかもしれないと思ったの」
「そんなふうにして、たいていの恋は始まるもんだよ」
「でもそのあと、わたしの足を見て逃げていった。わたしの名前を要らないと言って」
話し終えたキサラの瞳から涙がまた零れ落ちた。婆さんは細い肩をぎゅっと抱きしめた。
「よく話した。勇気がいっただろう」
「おばあちゃんやシスターのいうとおりにしないから罰が当たったのね。わたしは人が見て耐えられる姿をしていないのに、それが分からなかったのね。動物の姿と混じることは、恥ずかしいことなのね」涙はあとからあとから零れ落ちた。
ビビ婆さんは少女の額に額を摺り寄せた。
「よくお聞き、これははじまりだ。この世は隅々まで残酷で、かなしみと愚かさに満ちている。大概の連中には皮膚一枚のこちらがわの真実が見えない。わたしは、お前のその魂が世間のばかものどもに穢されるのが何より惜しいのだよ」
婆さんの手の中で、キサラの頭は小さく震え続けた。
「男が憎いかい」囁くような声で婆さんは聞いた。
「いいえ。ただ、悲しいだけ」
「ならば大丈夫だ。人の心を腐らせる一番の毒は、憎しみだからね。憎しみから身を守れているなら、まず立派なものだよ」婆さんは頷きながら言った。キサラは涙を拭いて顔を上げた。
「これからもあのひとを憎まずにいられるかしら」
「キサラや、お前ならばきっとできる」
「ではそのために、わたしは訪れた人と会うわ」
婆さんは驚いて問い返した。
「そのために? 忘れるためにかい?」
キサラは頭を上げ、濡れた瞳でビビ婆さんを見つめながら言った。
「誰かのものになれば、きっと自分の中の暗い感情も終わるでしょう。
少しでも幸福になれれば、過去の記憶を追うこともなくなるでしょう。
もし予想を超えて不幸になれば、そのことで胸がいっぱいになって、あのひとを憎む暇もなくなるでしょう」
ビビ婆さんはことばもなく、ただ胸打たれて眼前の美しい少女を見た。
面会は短い時間で済んだ。
銀髪の男は緑の瞳の少女に率直な自己紹介をした。
「わたしの名はダリダ。長い間旅しかしていない。世界のどの医者にも負けない薬師です。
旅の途中この地に立ち寄り、あなたの声を聞き、姿を見た。そして長い間探し求めていた花嫁がここにいると確信し、ここに来たのです。
あなたの名を教えてはくれませんか」
少女は一言だけ尋ねた。
「わたしの姿を見ても、わたしの名を地に投げ捨ててわたしから去ったりしませんか」
「誓って」
少女はブーツを脱ぎ、鳥の足をあらわにして、六本の爪でテラコッタタイルの床に立った。
そして震える声で言った。
「わたしの名は、キサラ」
ビビ婆さんは祈るような目で男を見た。ファーザーは二人の間で視線を動かした。
青い目の男には少しの動揺も見られなかった。どころか、その瞳には満ち足りたもののみが持つ笑みが浮かんでいた。
「キサラ。よく名乗ってくれました。一生大事にします。わたしの妻になってくれますか」
男は穏やかな声で言い、両手を広げた。
キサラはよろこびとかなしみに身を震わせて、両手で顔を覆った。
男はその様子を黙って見守った。
しばらくして顔を上げると、キサラはきっぱりといった。
「わたしはたいしたことはできません。ただ一匹の蜘蛛になり、あなたのそばで、この世で一番美しい巣を編みます。そしてときには小鳥になり、あなたの好きな歌を歌います」
「それで十分です」
ダリダは帽子を脱ぎ、恭しく頭を下げた。そして花嫁の手を取り、その甲にキスをした。
その日のうちに、キサラは棕櫚の木でできた十字架の前で誓い、書類にサインをして、施設を出て行った。
ビビ婆さんと、長い長い抱擁を交わしたあとに。