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2.禁断の森で

 その朝、小さな籠を手に提げて、18歳のキサラは裏木戸を開けた。そして三本爪を隠したブーツをこぽこぽと鳴らしながら、平石を敷いた細い道を森へと向かった。

 頭上の枝から枝へリスが飛び、朝露を落としながら、キサラに餌をねだる。キサラは歌を歌いながら時々リスに向かってかぼちゃの種を投げ、切り株を見つけては数粒を置き、そして少し離れたブルーベリーの茂みを目指した。


  大蜘蛛がとんから機を織る セドロは足をそろえてる

  明け方の虹も歌ってる

  霧の中に船を浮かべて 愛しい人がやってくる

  みんながそれを知っている


 少女の歌声は森に静かにこだまし、木々と小鳥たちが拙くそれをまねて歌い交わす。

 その声は、身を隠す場所を求めて森をさまよっていたタロスの耳にも届いた。

 最初は声とは思えず、無数の鈴がりんりんと鳴るような、見知らぬ鳥が鳴き交わす求愛の歌のような、とにかく初めて聞くきらきらとした調べだと思った。

 タロスは怖い気持ちとわくわくする気持ちとで胸を震わせながら、そばの切り株に腰かけてその歌を静かに聞いた。そのうち、自分でも知らなかった柔らかな心と温かい思いが胸にあふれた。


 ……黒髪の不実なイネラ。あいつが生きていてくれたらいいのに。

 そうだ、確かにおれはあいつに愛しているといったんだ。あいつの小さな家の白いベッドで目覚めた朝に。

 逃げないように、おれがやさしく愛してやればよかったんだ……


 声が途絶えた。タロスは重なる枝えだを透かして、消えた声の方向を見た。きらきらと光る水面が見える。大股で歩くと、ものの二十歩ほどで湖のほとりに出た。一番青い空が落ちてきたような、底が抜けたような青い湖だった。

 と、岸辺で金髪の少女が、大きなハイイロオオカミと向かい合っているのが見えた。白百合のような、裾広がりの白いワンピースを着ている。

 タロスはとっさに足元の石をつかみ、渾身の力で投げた。石は50メートルほど先のオオカミの腹に命中し、オオカミは悲鳴を上げて水の中に落ちた。

 一瞬こちらを見た後、オオカミを追うようにして少女も水に落ちた。タロスは上着を脱ぎ、水中に飛び込んだ。まるで、湖のほとりに建つ天使の彫像を、自分が石で叩き落としたように思われた。

 カワウのようにいったん深く潜水してぐいぐいと水をかき、青い透明な空間の向こうに揺れる白い水中花のような姿に近づく。斜めに差し込む太陽のあかりの中、きらきらともつれる金色の巻き毛をつかむ。次に白いレースのワンピースの腰のあたりを片手で抱いて懸命に浮上した。

 岸に上がるとき、対岸に這い上がるオオカミを見た。タロスが睨むと、オオカミはくるりと背を向け、そのまま森の奥に姿を消した。

 ふかふかとした落ち葉の上に、気を失った少女を横たえて、タロスはじっとその顔を見た。

 真っ白な頬にちらばる金髪、伏せた金の長い睫、筋が通っていてしかも愛らしい鼻先。桃色のやさしい唇、水中からあらわれた少女は、胸が震えるほど美しかった。

 薄い瞼が震え、少女はゆっくりと瞳を開けた。自分と同じ、深い深い緑の瞳がそこにあった。

 少女はぎょっとした表情でさらに倍ほど瞳を開くと、いきなりタロスの胸を押してその場から逃げだそうとした。タロスは少女の濡れた手首をつかんだ。

「待て、なにもしない。逃げないでくれ」

 少女は体をねじってもがいた。そのときになって、タロスは少女が湖に飛び込んだ理由を察した。

「もしかして、おれから逃げるために飛び込んだのか」

 少女は金の巻き毛を左右に振りながら顔を隠した。

「なにもしない。顔を見せてくれ。ほんとうになにもしない」タロスは懸命に、自分に出せる一番柔らかな声を出していた。

「黒い長い髪の女の人があなたと話したがっている」

 唐突な少女の言葉に、少年は硬直した。

「誰のことだ」

「あなたの後ろにいてあなたを見てるわ」

 タロスは慌てて振り向いた。さやさやと揺れるセドロの深い森があるだけだった。

「……何を話したがってる」少女に視線を移し、震え声でタロスは尋ねた。

「自分は生きている。花の中から助けられたって」

 不可思議な内容だったが、その内容はタロスの心のどこかをそっとほどいた。タロスは小さな声で溜息のように言った。

「……そうか。よかった……」

「心変わりして悪かったって。謝りたいって。そして……」

 少年の肩越しに投げていた視線を、少女はかすかに揺らめかした。

「消えたわ」

 そこで少女ははじめて、焦点の合った瞳で眼前の大柄な少年を見た。

 ごわごわにもつれた赤毛で、岩のように頑丈そうで、緑の瞳は燃えるような激しさを湛えている。こんな年齢の、健康な異性を身近で見るのは初めてだった。

「あなた、だあれ?」

 少女は堅い頬に手を伸ばした。少女に触れられて、その頬はかすかに(さざなみ)立っていた。

「わたしと同じ目だわ」

「タロス・ピケ」少年は名乗った。

 それからふたり、何かに打たれたようなこころもちでしばらく黙って見つめあった。少女はしげしげと、どこも欠けたところのないその頑丈な体を見回して言った。

「どこからきたの」

「それは言えないんだ」少年は声を落として言った。

「どうしてオオカミに石を当てたの」

「きみを食べようとしていたから」

「食べたりしないわ、綺麗な目をしていたもの。一週間ぐらい前からよく姿を見ていたの。そろそろお友達になれるかもしれないと思っていたのに」

「オオカミと?」少年は少女の勇気と神秘に驚愕しながら言った。

「それは悪かった。

 ……でもきみはいったい何なんだ。オオカミを恐れず、目の前にないものを見、おれには聞こえないものを聞く。なぜそんなことができる」

 キサラは目を伏せた。

「外から来た人とは、何も話しちゃいけないの」

「親が厳しいから?」

「わたしたちは忌まわしい存在で、町から来た人たちは姿を見ると殺そうとするって、ファーザーが言ってた」

 タロスは驚いて言った。

「誰もそんなひどいことはしない、きみはそんなにきれいなのに。きみのファーザーには目がないんだ。父親のくせにどうしてそんな嘘を」

「ファーザーは刺繍工房の社長なのよ。両親はいないわ」

「いない?」

「わたしは孤児(みなしご)なの」

「ごめん、悪いことを聞いた」

 タロスは大きな体を縮めるようにして謝った。いいのよ、と小さな声で言うと、キサラは落ち着かない様子であたりを見回した。

「わたしのブルーベリーの籠は?」

 タロスがスノードロップのひと群れをかき分けると、藤のつるで編んだかごが空っぽで転がっていた。

「半分はあったのに、こぼれちゃったわ」少女は籠を受け取りながら残念そうに言った。「ジャムにするつもりだったのよ」

「拾うのを手伝うよ」

 そうして、キサラはトケイソウの花のように小さな白い手で、タロスは皇帝ダリアの花よりも大きな手で、ブルーベリーを一つ一つつまんで籠に入れた。ときどき二人の指は重なり、手がぶつかり、肩が触れた。そのたびにキサラの体は小さく震え、タロスは赤くなった。ふたりの視線はブルーベリーと籠と互いの手元と草むらの上を揺れ動き、やがて同じ緑の瞳の上で止まった。

「胸が苦しい」

 タロスは小さく喘ぐようにして言った。

「きみの瞳を見ていると、膝が萎える。その声を聞くと、胸がふさがる」

 その頬はリンゴのように紅潮していた。

「死にそうだ」

 キサラはタロスの額にそっと手を伸ばした。

「お熱があるのね。おばあちゃんからもらった石が役にたつわ。持ってきてあげる」

「いいんだ」

 タロスは立ち上がりかけたキサラの手をぐいとつかんだ。

「いかないでくれ」

「でも、わたしにはなにもできない」

「ここにいるだけでいい」

「なにもできないのよ。だって」

 震えるキサラの唇の色は今や真紅のばらのようだった。

「わたしもなんだか、死にそうなんだもの」

 タロスは体を一瞬震わせると、そのまま本能に従った。今までで一番優しく、静かで神聖な本能に。皇帝ダリアのように尊大で優しい大きな掌を広げ、その大きな胸を広げて、まるで屏風岩で小鹿を覆い隠すようにキサラを胸の中に囲い込み、押しつぶさないようにそっと抱きすくめたのだ。

 キサラは驚いて体を一度震わせたが、逃げなかった。彼の体中から発するじんじんとした熱と思いが、何の言葉も介さずに小さな胸に届くのをそのまま受け止めていた。

 これは悪いものではない。これは、わたしが、わたしを捨てた人たちから受け取りたかったものだ。きっとそうだ。

「ああ、あいつがいない」少年は呟いた。

「なにが?」

「おれの頭の中に棲んでいて、気持ちの一番やわらかい部分を食べていた虫が」

「野菜につく虫も、一番やわらかいところから食べるのよ。でも、いなくなったならきっと、また一番やわらかいところがあなたの中に育つわ」

 透明な水の上を転がってゆく鈴のような声を、タロスは陶然と聞いた。

 生まれてからずっと欲しかった言葉、聞きたかった声、それがここにある。なんという奇跡だ。

 それから少女の美しい緑の瞳をじっと見つめ、そのばら色の唇にそのまま熱い唇を重ねた。

 キサラは驚きに身体を硬直させたが、やはり逃げなかった。やがてその唇から流れ込む苛立ちとかなしみが、まずキサラの肺を満たした。キサラはその苛立ちを余さず吸い込み、自分の肺をめぐらせて、ふうっと鼻腔から吐き出した。苛立ちは甘い風となってタロスの顔にかかり、一呼吸した少年の体の中をさやさやと洗い流した。

 ふたりは目を閉じ、お互いの心を呼吸しながら風に変えて相手の顔に吹きかけ、その手の指で互いの体の固さと柔らかさを確かめ合った。

 そのとき、森の中から悲鳴のようなサイレンのような声が聞こえてきた。

はるかかなたに呼びかけるように長く長く尾を引き、セドロの木の枝えだを揺らし、広葉樹の大きな葉を散らせた。

「オオカミか」タロスは上を向くと、キサラを抱く手に力を込めた。

「仲間を呼んでいるんだな。大丈夫、きみはおれが守る」

「いいえ、ひとりぼっちなのよ」キサラは空のかなたを見つめながら言った。

「きっと親もいないのね。わたしと同じ」

 タロスは少女の切り絵のような横顔を見ながら言った。

「両親に逢いたいんだね」

 キサラは少し俯くと答えた。

「いつか、神様が会わせてくださるのなら。でも……」

「こんなところにいては会えないだろう」

「お世話役のシスターたちが言っていたわ。わたしたちがここから出るには誰かに名前を尋ねられ、それに答えて結婚して、戸籍が変わることがただ一つの道だって。でもそんなひとは、めったにあらわれない」

「きみの名前は?」

 キサラはぽっと頬を染めた。

「わたしたち、まだであったばかりだわ」

「きみさえよければ、いつでもきみを迎え入れる用意がある。約束だけでいいなら今すぐにでもする。おれは今はまだ17才だけれど、神の前で誓うことはできる。家は裕福で、望めば力も手に入る」

「でもあなたはまだまだわたしを知らない」

「じゃあ教えてくれ」

 タロスは性急に少女のワンピースの胸の紐をほどくと、その裾に手を伸ばした。そして、固いブーツを少女の足から外そうとした。

「あなたはきっと後悔する」キサラは切実な声で言った。

「後悔なんてしない」断固とした口調でタロスは答えた。

 自分に向かって押し寄せる運命に何一つ抗わずに来た少女は、目を閉じて聖母マリアに祈った。信じていいのだろうか、この瞬間を、この運命を、この人を、ほんとうに?

 やがてブーツから少女の足が現れた。くるぶしから下は木の枝のように細く固く、足首の先には猛禽類の爪のように鋭く太い三本指があるばかりだった。

 それはどこからどう見ても、荒れ野のダチョウの足だった。

 タロスは手からブーツを落として後ずさった。その瞬間、小さいころ父親から言われたことが嵐のように頭に押し寄せた。

 ドルドラの山の向こうへ行ってはいけない、人の姿をしていないものたちの住処だ。人間の世界を追われて、神の情けにすがって生きている魔物たちだ。近寄れば呪いを受ける、そして二度と戻っては来られない。


 ……自分はいつの間にか、禁断の森に踏み込み、魂を奪う魔物に魅入られていたのだ。


 少女は胸に手を当てて、祈るような口調で言った。

「わたしの名は、キサラ」

「言うな!」

 タロスは両手で耳を覆った。

「きみは人間じゃない。そうだな」

 声はわなわなと震えていた。

「おれはなにも聞いていない。きみの名など知らない。だからおれの名も忘れてくれ」

 一番恐ろしい結末が、雷のように少女の魂を真っ二つに引裂いた。

「おれは誰にも会わなかった。何も見なかったし聞かなかった。

 なんにもだ!」

 呆然と緑の目を見開いたまま、石膏像のように血の気を失ったキサラのほほを、涙が転がり落ちた。巨体の少年はその一滴が顎まで達するのを見ると、押しつぶしたような声で言った。

「……許してくれ」

 そのまま狂ったように地を蹴り、スノードロップやブルーベリ―の茂みを踏みつぶし、セドロの木々にぶつかりながら森を駆け去って行った。木の葉や鳥の巣や蔦の実がばらばらと降り注ぎ、鳥たちが悲鳴を上げながら木立から飛び立った。

 やがて少年の体が木立ちの向こうに消えると、キサラは茫然とその場に座り込み、両手で顔を覆い、その場に突っ伏した。



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