1.鳥の足の娘
2050年の9月、南半球のある国で、裕福な上院議員の妻、ラウラ・ピケはひとりの赤ん坊を生んだ。
深い緑の目に、輝く金髪。
けれど足の先は3つに分かれ、まるで鶏の爪のようだった。
赤ん坊はすぐに母親から引き離され、保育器に入れられた。
「骨の奇形です」医師は夫のアレスに説明した。「今の時代、珍しいものではない。が、出生前診断を受けなかったのですかね」
「受けましたよ」アレスは苦々しい顔で言った。
「ちゃんと受けた。信用度の高い、ブラカ社の。わかっていれば産ませなかった。畜生、なんてことだ」
「何事にも間違いはあります」医師は先の曲がった髭をひねりながら淡々と言った。アレスは食って掛かった。
「よく言うな。あんたにも責任はある。臨月まで毎月超音波撮影をしていたはずだ。なぜ異常がわからなかった」
「それですがね、何度見なおしても映像上足の異常はなかったんです。こういうケースは珍しい」
「生まれた瞬間に足が鳥と入れ替わったとでも?」
「今どきの神々は何でもなさる」両手を広げてひょうひょうと医師は言った。そして今にも壁に殴り掛かりそうな父親に向かって続けた。
「ブラカ社には検査ミスの場合の補償制度があるはずだ。奇形の場合は引き取ってもらえる。ご存知でしょう。お受けなさい」
「それはもちろんだ。だが、妻の心の問題がある」
「そのための薬があります」
アレスは額を手で覆ってため息をついた。
ラウラは妊娠中ずっと、自分の腹の中にいるのは得体のしれない化け物だと言い張っていた。
彼女が言うにはこうだ。夢を見た。透き通った腹の中で、たくさんの足を持つ生き物が蠢いていた。また何かとがった爪を持つものが腹の中で暴れ、へそから長いくちばしが飛び出した。自分はきっと人間ではないものを生むと。
アレスがどんなに慰めてもさめざめと泣くだけだった。
その不安に根拠がなかったわけではない。
実際ここ20年というもの、地球という母体が丸ごと病み始めてから、人間はじめ動植物にはまともな姿のモノのほうが少なくなっていたのだ。
世界規模の戦争は第二次大戦と言われるもので終わっていた。
だがそののち各国内の内戦、民族間宗教間での対立が激化し、人口を激減させるほどの異常気象と疫病の流行がそれに続いた。
悪環境の下でリスクを抱えつつ子どもを産むことの無謀さを考えれば、子どもが正常かどうかを出生前に確認することはごく当然のことだった。それは文明国にすむまともな人間のマナーとなり、倫理的な批判はもはや遠い昔のものだった。
大丈夫、心配のしすぎだと、何度アレスは妻の肩を抱いて慰めたことだろう。結果、すべては裏切られたのだ。
赤ん坊は未熟児だったと母親に伝えられた。ラウラは毎日、会えない赤ん坊のために乳を搾り、新生児室に運んでもらった。早くこの手に抱きたいと毎日せがんだが、アレスは聞き入れなかった。
「今はまだ保育器から出られないんだ、少し小さいんだよ」
「ちゃんと顔が見たいわ」
「顔なら見ただろう」
「この胸に抱いて、小さな手足を確かめたいのよ」
アレスは黙るしかなかった。ラウラは高まる不安に声を荒げた。
「ねえ。まさか、人間じゃないものを生んだんじゃないわよね。だから見せられないんじゃないわよね?本当のことを言って!」
もう限界だった。
アレスはため息とともに決心し、赤ん坊を母親に会わせた。
特別室の小さなベッドで天井を見上げる赤ん坊の、その毛布をめくってみせると、ラウラは口元に手を当て、夫の手を爪が食い込まんばかりに握った。
「あなた」震え声でラウラは言った。
「約束を守って。結婚したとき、わたしを不幸にしないといったでしょう」
「大丈夫だ、これはブラカ社のミスだ。責任を取ってもらえる」夫は断固とした口調で答えた。
「なかったことにするんだ。この子はきみの子じゃない」
「でもわたしはこの子を産んでしまった。小さな愛がここにあるわ」ラウラは毎日母乳を絞っていたそのはちきれんばかりの乳房を押さえた。「取り返しがつかない」
「それに愛などという名をつけてはいけない。まやかしだ。ぼくらだって出会ってひと月ではまだ何も育っていなかった。きみも前の恋人を引きずっていた」アレスは懸命になだめた。
「この子は初めての子よ。わたしの初めての子よ。名前まで決めておいたわよね、あなたと一緒に」
「大丈夫、何もかも忘れられる」
赤ん坊は緑の瞳でこちらをじっと見ている。
「胸が痛いわ」
「じきに痛くなくなる」
「ああ、わたしの赤ちゃん」
アレスは妻の頭を抱き、顔を背けさせた。ラウラは夫の胸に頬を預けて目を閉じ、滝のように涙を流した。
そしてブラカ社は不良品の赤ん坊を受け取り、忘却の薬を母親に処方した。
夫の言葉通り、ひと月後にはラウラは何もかも忘れて平和になった。
女の子はキサラと名付けられた。渡されたときの肌着の内側に縫い付けてあった名前だった。母親はそんな名前を刺繍したことなどもちろん忘れていた。
出生前診断をすり抜けて生まれた不具の子は、ブラカ社により、ひそかにドルドラ地方の刺繍屋か絨毯屋に売られることになっていた。
織物や編み物は、物心ついたころから技術を叩き込めばたいてい一流の技術が身につく。彼ら彼女らは、町を離れた自然の中にひっそりたてられた広い工房で、ドルドラの寂しく美しい自然に触れて育つ。そして透明な空気や水紋や風の香りに自らの悲しみを織り交ぜて、詩のような絨毯やレースを生み出すのだ。それらの商品には高い値が付き、商人に買われて世界中の裕福な人々の家を飾っていた。
後ろ向きのノスタルジーに包まれて、目の前の繊細な美に見とれていたい人々の家を。
そんなわけで、物心つくかつかぬうちに、キサラの小さな手には刺繍用の針と糸があった。
セドロと呼ばれる背の高い広葉樹の中の、古い教会めいた木造の施設で、体のあちこちが欠けた子どもたちといっしょに、キサラはただ一心に手を動かした。
空き時間には赤ん坊のおむつを替え、両手のない子どもたちの体を洗い、スープやジャムを煮る手伝いをした。
自分が不幸かどうかなどと考えたことはない。言葉を介することなく風景を受け入れ、キサラのこころは陽とともに天とともに光り、陰り、そよぎ、ゆっくりと明滅を繰り返した。
仕事が遅いとどんなに怒られても、寝坊したからと食事を抜かれても、明け方の空を飛んでゆくゴロンドリーナの群れを見れば空への憧れで胸はいっぱいになったし、澄んだ泉の底に沈む白い枯れ木を見るだけで太古の幻影に目がくらんだ。そうして目に映るものをすべて手元の糸に託した。
朝露の宝石をたくさん載せた蜘蛛の巣は、とりわけキサラの一番好きなものだった。
自分もあの蜘蛛のように美しいものが編みたい。そう自然に願っていたから、上達は早かった。まだまだ幼い小さな指に持った針は、みずすましのようにすいすいと糸の上を進んだものだ。
刺繍の指南役はビビ婆さんという、盲目の老婆だった。長い白髪を鮮やかな花柄のスカーフに隠し、濃い黒眼鏡で表情を隠しながら、まるで額に目があるかのように子供たちの作品を厳しく指導する。指先で編みかけをひょいと摘み上げただけで、その出来不出来を一瞬にして言い当てた。
キサラがはじめての花瓶敷きを編みあげたとき、ビビ婆さんは直径20センチほどの円形のレース編みを取り上げ、顔の前にかざして言った。
「ああ、最高の蜘蛛がここにいるよ!」
その褒め言葉が何よりうれしく、キサラは白い頬を染め、婆さんの首に手を回して皺だらけのほほにキスをした。その髪は金の川のように背中にきらきらと流れ落ち、しなやかな腕も頬も、雪のように真っ白だった。
「手が痛いわ、おばあちゃん。ほてって眠れないの」
少女はときに深夜、ビビ婆さんに甘えた。
「そういうときは、この石を握るんだよ」
婆さんはレースのショールを肩にかけて少女の寝台に寄り、鶏の卵ほどの白い鉱石を握らせた。シルキーな光沢のなかに細い細い繊維の束が透けて見えるその白い石は、セレナイトと呼ばれていた。
「ほてった心も皮膚も鎮めてくれる。面倒くさいことはみな吸い込んでくれる石さ」
「誰にでも効くの」
「特にお前さんには、きっとね」
高窓の繊細なレースのカーテンを透かして、セドロの木々をシルエットに群青の夜空が見えた。切り落とした爪のような三日月が白く光ってこちらを見ている。キサラは美しい緑の瞳で月を見上げながら尋ねた。
「おばあちゃん。どうしてここいらの泉にはお魚がいないの」
「長い長いこと酸の雨が降って、どこの魚も死んでしまったんだよ」
「青いお花ばかりなのも、そのせい?」
「聖母マリア様の涙の色だといわれているよ」
「わたしたちのために泣いてくれているの?」
「たぶん、あんたたちの親の代わりにね」
少女は掌の中の石をぐっと握りしめた。
「おかあさんとおとうさんは、わたしを思うことはあるかしら。いつか会いに来てくれるかしら」
ビビ婆さんは、俯いたままショールを引き寄せて言った。
「この世には不幸が多すぎる。人々を食い殺したウイルスもバクテリアも、疲れ果ててどこかへ消えてから、あるのは静寂だけだ。あんたらの親も、ごちゃごちゃした都市に寄り集まって寂しさを紛らわしているが、もうひとかけらの不幸にも不吉にも耐えられないんだよ。都市の奴らがみんなそうであるようにね。そっとしておいておやり」
キサラは、親が忘れたがっている「ひとかけらの不吉」である自分の身を、月の光の下の小さな石のように思った。
「悲しければ歌を歌うんだよ。お前の声は本当に綺麗だ。目の見えない者共も、その声を聞くだけで泉の水を飲むようにうるおされることだろう」
歌は好きだった。
窓辺の白い木彫りの椅子に腰かけて、キサラは日がな一日、きらきらとした声で歌を歌いながらレースを編んだ。
あおいいずみのあちこちに
すかんぽさんがおひさませおって
あかいむしあおいむしによびかける
てんにのぼればきっとみえる
たとえいずみはしんでいても
みんなのいのちのきたところ
親を思い、見えない明日を思い、言葉少なに暮らしている体の不自由な子どもたちは、彼女の歌に心打たれて、時には涙を流しながらレースを編み、絨毯を織った。
17歳の巨体の少年、タロス・ピケはある日、恋敵を追いかけて、休園日の植物園の中にいた。
巨大温室の、化け物のような大輪の花に囲まれながら、ヒスパニックの少年はタロスに怒鳴った。
「そんなに惜しいならこんな女くれてやる。受け取れ」
少年に長い黒髪を掴まれた少女は、振り向いて少年の顔に唾を吐いた。
「こっちから願い下げよ。あんたみたいな男」
「いまさらいらない。ひとのものに手を出した報いを受けろ」
少年は少女を突き飛ばして麻酔ガンをタロスに向けた。けがを負わせず懲役にもならない、あとくされのない臆病な喧嘩道具だ。タロスはひと蹴りでそれを弾き飛ばすと、少年の襟首を片手でつかみ、空中に持ち上げるとオオオニバスの池に放り投げた。ばしーんと天井近くまで水が上がり、飼われているピラニアたちが一緒に跳ね上がった。
少女は悲鳴を上げて逃げ出そうとした。その腰を片手で捕まえ、タロスはぐいとこちらを向かせた。
「お願い、助けて。タロス、愛してるって言ってくれたじゃない」
背後では少年の悲鳴が続いている。タロスは少女の長い黒髪を掴んだまま噛みつくように乱暴なキスをひとつ押し付けると言った。
「そんなことはもう忘れた」
タロスに突き飛ばされた黒髪の少女は勢いよく柵にぶつかり、そのあと熱帯植物にしがみつくようにして柵を乗り越えた。その向こうにはラフレシアの変異と言われる人食い花が、毒々しい真紅の花弁を開いている。ふと巨大花の茎が傾いたと思うと、花弁が少女の上半身を傘のように覆った。
長い長い悲鳴を聞きながら、タロスは大股で温室を出た。
植物園の裏口から出ると、壊れかけた工場の表に止めてあった緑色の車に乗り込む。人物認識した車には自然とエンジンがかかった。夜の闇がすべてを包もうとする荒れた幹線道路を、タロスは山のほうを目指して走った。
街の明かりが途切れると、じきに砂漠が広がった。乾いたサボテンが立ったまま息絶えた人の死体のように散らばっている。町では人間がひとり死ぬと、砂漠のサボテンがひとつ増えると言われていた。その砂漠の果て、夕焼けが彼岸の火事のように燃える暗い空の下に、低い山々がなだらかなシルエットになって続いている。
タロスは車内に備え付けの携帯に向かって呼びかけた。
「両親の家」
やがて呼び出し音が車内に響き、父親の声が答えた。
『タロスか。今どこだ』
「しばらく帰らない」
『また何かやったのか』
「植物園の魚と花に二人分の栄養をくれてやった。帰ってもおれを受け入れるかどうか、まだ金をばらまく価値があると思ってるかどうか、ママと相談してくれ」
『タロス!』
通話を一方的に切ると、タロスはボリュームをいっぱいに上げてカーステレオからワーグナーのワルキューレを流した。
上院議員の名を汚したくない親父は、いつものように有り金をはたいておれをかばうだろう。おふくろはともかくおれが無事に帰れば両手を広げて歓迎するだろう。簡単な世界の、簡単な死と愛。
そしてハンドルを握ったまま、考え込んだ。
……あの女に愛しているなどと言ったことがあるだろうか。
きっとあるんだろう、もう思い出せないが。
頭の芯に棘のある何か苛々した虫が住み込んでいて、いつも入ってくる感情を食い殺してしまう。甘くても苦くても、そいつは好き嫌いなく食らうのだ。だからなにもかもおれのせいじゃない。裁くべきは、毎日部屋中を血の色に染める悪意に満ちた夕焼けだ。そしてこの頭から出ていかない棘の虫だ。
「あの野郎。今度こそわたしを破滅させるつもりだ」アレスは苛々と大理石の上を歩き回った。窓にはユニコーンの前に膝をつく少女が編みこまれたレースのカーテンがそよいでいる。
「タロスなの」紅茶を手に、ダイニングからラウラが現れた。赤紫のアーティチョークが散らばった柄の胸のあいたワンピースを着ている。
「体ばかりでかくて、暴れるしか能のないろくでなしめ。あいつの尻拭いでどれだけ金を使ってきたか。17年もうまいものを食わせて育ててこのざまだ」アレスは舌打ちをした。
「あの子は健康よ。強いだけよ。世間の人間が弱すぎるんだわ」ラウラは不快そうに言った。
「何のために神話のタンタロスから名をつけたの」
「制御できない身長2メートルの息子は、足萎えの子どもより悪い。取り返しがつかないことになる前に、何とかしなければ。いや、もう遅いのかもしれん。あの調子じゃ、ついに人を殺したぞ」葉巻に火をつけては消し、アレスはエメラルドが埋め込まれたライターをオレンジ色の革のソファの上に放り出した。
ラウラは静かに夫の顔を見た。諦観と軽蔑と、いくばくかの憎しみがこもった茶色い目で。
「歴史に学ばなかったの」
アレスは怪訝な顔で妻の顔を見た。
「権力を持たないものは微罪で牢獄に入る。でも英雄はいくら人を殺しても罪にならないわ」
「何を言ってるんだ。あいつがこれから何人殺そうと英雄になれるわけがない」両手を広げてアレスはため息交じりに言った。
「あの子にそれだけのものを与えればいいのよ。あの子はその器だわ。人の上に立たせれば、英雄になる子よ。彼は健康で巨大だわ。そしてあなたには彼を幸せにする義務がある」
ラウラは悠然と付け足した。
「あの子は間違いなく、わたしの、わたしたちの、愛する唯一の息子なのだから」
夫は言葉もなく、すべての不幸を捨てさせた妻の、自信に満ちた表情を見た。
総レースのカーテンを透かして、林立する高層ビルのかなたに沈む夕日の最後のきらめきが、毒々しい朱色で部屋中を満たした。