第一章
短い夏が終わり、あと一ヶ月もすればハイウェイを見下ろす山々はメイプルやナラといった色とりどりの紅葉を着飾り始め、そしてサンクスギビングで人々が故郷に帰る頃にはそれは純白のドレスへとその姿を変える。幾年月が過ぎても大自然のこの営みは決して変わらない。変わろうとしているのは昨日まで暗闇の中で蠢いていた自分・・・そんな想いを胸に秘めながらトム・ベンソンは額に浮かぶ大粒の汗を手の甲で拭った。その手には三五七口径のコルト・パイソンが握られている。フロントガラスには薄いスモークフィルムが貼られ対向車にその黒い塊を見られることはない。ステアリングを握り締めるもう片方の手が戦慄いているのは、メーターの針が百マイルを振り切っている事が原因ではなさそうだ。微妙な距離を保ちながらかれこれ一時間、シルバーのベンツがサイドミラーに映っては消えるを繰り返している。
「おいトミー、もう大丈夫だ。速度を落とせ。こんなところでポリに捕まったら元も子もない」
助手席のスティーヴン・タリーがフィルターを千切ったマルボロを咥えながらトムを制した。
「これでこの忌々しいフリントともおさらばよ。このままテキサスへ向かってモノを渡し、金を受取った後はメキシコでバカンスだ。百万ドルありゃ、十年は遊んで暮らせるぜ」
「スティーヴン、さっきから後ろにシルバーのベンツがずっと張り付いているんだが・・・」
「わかってるさ、だからスピード落としゃいいんだよ。ポリじゃなければこのままテキサスまで連れて行っても構わんさ」スティーヴンは目を細めながらゆっくりと煙を吐いた。
フリントからテキサスまでは約三千マイル、七十五号線で南下して途中で二十号線に乗り換えてそのまま西へ向かえば良い。丸一日ハンドルに噛りつき走り続ければ明日の夜には目的地に着く。途中何回かガソリンを補給しなければならないが、それは奴等も同じこと。夜までにシンシナティとアトランタ辺りで二回の補給が必要になるはず。そこで返り討ちにしてやる。トムは徐にコルトのシリンダーを振り出して中を覗いた。スティーヴンは横目でその様子を見ながら頭を振った。
「なぁ、トミー、あのベンツに乗れるのはせいぜい四人だ。弾はまだ充分にある。そんなに力むな。万一の時には俺があいつらの額を一人残らず撃ち抜いてやるよ」
揺れるブロンドの長髪頭から微かに硝煙の臭いが漂った。つい一時間前トムが一発の弾丸を相手の腹に撃ち込む間にスティーヴンは三人の額を撃ち抜いた。トムの二発目と三発目は相手の遥か後方のコンクリートに着弾した。トムはピッキングのプロであったが、殺しは専門外だった。スティーヴンは先程の腕前からしてこれまでに多くの命を奪ってきたことに間違いあるまい。今日まで隣にいる男は年中無休のアル中野郎と思っていたが、本業はプロの殺し屋なのかもしれない。そう思うとトムは背筋に冷たいものを感じた。
トムがスティーヴンに会ったのは一年前、デトロイトのフィシュボーンというレストランを出たところだった。泥酔していたスティーヴンが地元のチンピラどもに袋叩きにされていたところを通りかかったトムが助けたのが切っ掛けだった。ジーパンの後ろポケットにヨレヨレの十ドル札が二枚、それがスティーヴンの全財産だった。その日のうちにスティーヴンはトムのアパートに転がり込み、それからというものトムの仕事の見張り役として、二人でいくつものヤマを踏んできた。赤外線センサーが張り巡らされた会社の社長室、五匹のドーベルマンが庭に放たれている豪邸の寝室、いずれもトムのピッキング技術や経験、そしてトム自作の七つ道具があったからこそ危ない橋を渡ることができたが、ここぞという時のスティーヴンの勘は確かだった。研ぎ澄ました感覚で周囲の気配を逸早く察知する能力はトムより優っていた。しかし今回のヤマはこれまでのものとは違う。スティーヴンの昔仲間の依頼でこの車のバックシートに積まれている黒いショットガンケース、中身は十八世紀後半に製造されたレアもののショットガンらしいが、それをフリントのギャングから奪い、テキサスにいる依頼主に手渡すというものだった。その報酬として百万ドル、二人には事前に二丁のコルト・パイソンと十分なカートリッジが手渡された。おそらくケースの中味はヘロインかLSDといったドラッグの類だろう。しかしそんなことはどうでもよい。問題はトムにとって殺しが絡むヤマは今回が初めてということ、そしてギャングのアジトに入る事など全くの想定外であること。最初は断ろうと思ったが、この病んだ街で夜な夜なゴキブリのように徘徊し小銭を稼ぐ暮らしから一刻も早く抜け出したかった。
「お前の知識と経験があれば、大手顔負けのセキュリティー会社を起こして成功することは間違いない。お前に足りないのはそれを準備するための金だけだろう?」
スティーヴンのこの一言で腹を括ったトムであったが、あらためて感じる危険の大きさで心が押し潰されそうになっていた。もう引き返すことができない・・・そしてもう戻りたくはないあの街へ。
シンシナティに着いた頃には既に辺りは暗くなっていた。ガソリンメーターには二十分前からイエローランプが点いている。バックミラーを見るといくつものヘッドライトが連なっていたが、あのシルバーのベンツがその中に紛れているかどうか確かめる術はなかった。トムは賑やかな大通りを避け裏路地に入るとアクセルを思いっきり踏み込んだ。細い路地をグングンと加速していく。バックミラーで後ろから追いかけてくるヘッドライトを確認しながら、前方の通り沿いにあるはずのガソリンスタンドを探した。三マイル程過ぎたところでスティーヴンが「Shell」の看板を見つけトムにそこで給油するように促した。再びバックミラーに目をやったが、ヘッドライトは確認できず両脇の外套だけが薄暗く灯っていた。スタンドには利用客は見当たらずトムは出口に一番近い給油ポンプに車を停めることにした。
「ふ~っ、漏らしそうだったぜ。ちょっとPISSしてくるわ。サンドウィッチとかいるか?次のアトランタまでは俺が運転するから少し休んでくれ、トミー」
「OK、スティーヴン。奴らは捲いたからPISSでもSHITでも好きなだけしてくれ」
トムは前のめりになって小走りで売店に向かうスティーヴンの姿を見て笑いながら車の給油口を開け鉛色のノズルを突っ込んだ。静寂の中、聞こえるのはポンプからガソリンが機械的に吐き出される音と車のラジオから流れるビリージョエルの曲だけだった。ガソリンのメーターの針が半分に達した頃、先程来た道からエンジンの唸る音が聞こえた。猛スピードでこちらへ向かっているように思えた。トムは慌てて車のサイドボードからコルト・パイソンを取り出して車のドア陰に隠れた。
「スティーヴン!」トムは大声で叫んだが、スティーヴンは既に売店の中に入りトムの声は届かない。
あのシルバーのベンツが勢いよくスタンドに入ってきた。それと同時に車内から何発もの銃弾をトムの車に浴びせた。乾いた銃声が鳴り止まぬ中トムは体の露出を最小限にしながら、ベンツの車内に狙いをつけて立て続けに引き鉄を引いた。ベンツの車内から絶命する声が聞こえた。あと三人と思った次の瞬間、もう一台別の黒のベンツがトムの車を目掛けてマシンガンを連射しながらスタンドに入ってきた。トムはいたたまれず車の運転席に転がり込んだ。頭を低くしながらスターターを回してエンジンをかけた。ものの二・三秒の間でフロントガラスと左方の窓ガラスは粉々に砕けて落ち、その合間を縫って二つの銃弾がトムの左手と左脇腹を貫通した。トムは激痛で顔を歪ませたが痛みで転がりまわる時間などない。このマシンガンの嵐から一刻も早く逃げるために右手に持っていたコルト・パイソンを助手席に放り投げ、ギアをバックに入れ急いでアクセルを踏んだ。その瞬間、マシンガンの流れ弾が給油パイプに着弾した。眩い閃光と同時に激しい爆音が轟き、炎が立ち昇った。その炎はあっという間に地面に拡がる朱の絨毯と化し、残りの三機を飲み込んでいった。先程より数段激しい爆発が立て続けに起こり、それは表の「Shell」の看板をも吹っ飛ばしただけでなく、トムが入っていった後方の売店にも引火した。最初に撃ち合ったシルバーのベンツは爆発に巻き込まれ、燃え盛る炎の中で車内に取り残された者達のもがき苦しむ姿が見えた。もう一台の黒いベンツは間一髪免れたが、辺り一面炎に包まれ完全にトムの車を見失っていた。トムは車をゆっくりと黒いベンツの背後につけると助手席にあるコルト・パイソンに再び弾を込め、リアガラス目掛けてありったけの銃弾を浴びせた。
「スティーヴン!」トムは黒煙を上げて燃え上がる売店に向かって再び大声で叫んだが、爆風で正面の出入り口は吹き飛び、鉄骨が剥き出しになっていた。スティーヴンの生還は絶望的だった。遠くから無数の消防車とパトカーのサイレンが近づいてくる。トムはバックシートに横たわるショットガンケースを肩に通して車から飛び出した。脇腹からは夥しい出血が見られたが幸いにも臓器を避けて貫通していた。しかし左手は腱をやられ全く肘から先が動かなかった。トムはコルト・パイソンをジーンズと腰の間に差し込みサイレンの音とは反対方向に早足で歩いた。爆音を聞いた近隣住民があちこちからスタンドに集まってきたが、薄暗い外套の下では脇腹から滲み出る血の痕を見られる心配はあるまい。肩にかけたショットガンケースもミュージシャンが持ち歩くギターケースにしか見えないであろう。トムはその人込みに紛れて庭先に止めてある車を探し求めた。前方の平屋建ての一軒家から若い男女が笑いながら飛び出し、黒煙が昇るガソリンスタンドの方角を指差して走り出して行った。家の前には型落ちした黒のアコードが止まっている。トムはまず玄関前に立って家の中に誰もいないことを確認した。そして車の運転席側に周り盗難防止アラームを見つけると運転席の下に通るワイヤーを引き千切り、一瞬にして運転席に潜り込んだ。その手にはいつの間にか七つ道具の一つが握られていた。その間僅か十秒・・・トムは視界から恋人達の姿が見えなくなるのを待って、道具を再び運転席のキーシリンダーに差し込みながらアクセルを吹かした。
七十五号線にそのまま戻る気にはなれなかった。オハイオ川沿いの裏道を通ってルイビルに向かい、そこで六十五号線で南下し、バーミンガムで二十号線に合流するルートに変更した。奴等はこのまま七十五号線を通ると考えて、次の補給地となるアトランタ近辺で待ち伏せしている可能性が高いからだ。六十五号線に乗れば、ナッシュビルでもバーミンガムでも補給地はいくらでもある。草木や蔦が生い茂る閑散とした山道のカーブを切りながらトムは峠の山道を登った。下を見下ろせばばいくつものボートが停泊しているマリーナの灯りが目に入った。この調子でと思ったちょうどその時、周囲の景色が歪み始めた。目の焦点が合わない。トムはゆっくりとブレーキを踏みながら脇道に車を停めた。紅く染まったTシャツを恐る恐る捲ると獣に喰いちぎられたような自らの脇腹がぼやけた視界に入ってきた。急に意識が遠のき始める。額から滝のような汗が頬を伝い、息苦しさを感じたトムは動く右手で何とか運転席の窓を開け、息を大きく吸った。目を閉じるとスティーヴンの顔が頭に浮かんだ。あの場で追手が来ていないなどと早合点しなければあんなことにはならなかった。あの時スティーヴンが隣りにいればきっと奴等全員の額を打ち抜いていたに違いない。トムは頭を振った。目を瞑りながらも正面から明るい光が近づくのがわかった。きっとこれが「お迎え」というやつか・・・さて、地獄とは一体如何なるところか・・・。
「どうかされました?」不意に女の声が聞こえた。
トムはゆっくりと目を開いた。窓越しに女が覗き込んでいるのがぼんやり見えた。トムは慌ててサイドボードを開いてコルト・パイソンを取り出そうとしたが、誤って座席の下に落としてしまった。それを見た女は一瞬凍りついたが、トムの脇腹と左手の夥しい出血を見るなり、運転席のドアを開けてトムを運転席から引きずり降ろした。そしてもう起き上がる力が残っていないことを確認すると、トムの右手を自分の肩に回して対向車線に停めた自分の車へ連れ込み、後部座席に横たわらせた。トムは朦朧となりながらも女に車の中にある黒のショットガンケースを持ってくるように懇願し、そのまま意識を失った。
遠くから聞こえる船の汽笛の音でトムは目が覚めた。窓の向こうには雲一つない澄み渡った青空が広がり、こちらの様子を伺っている。部屋の中を見渡すと無数の丸太を組み合わせた壁とその手前にはアンティークのサイドボードが置かれ、その中には子供の写真がいくつも立てかけられていた。トムはゆっくりと起き上がろうとしたが脇腹に激痛が走り、そのままベッドの上でのた打ち回った。その勢いで内肘に突き刺さっていたチューブが絡まり、その先にぶらさがっていた点滴バッグが床に倒れて大きな音をたてた。階段を駆け上ってくる音が聞こえた。ドアが静かに開かれるとそこには昨夜の女が立っていた。
「丸一日眠っていたわ。訳アリのようだったから救急車は呼ばないで私ができる範囲で治療したけど、左手はおそらくもう二度と動かないと思うわ」女がトムの左手を指差した。トムは肘から先に包帯で分厚く捲かれた左手を見て何度か拳を握ろうと試みたが、視界に入った己の左手はだらしなく開いたままだった。大きな溜息と共に天井を見上げた。ピッキングには支障はないが、これから先テキサスまでの道のりに不安が残る。次にあのような撃ち合いになれば必ず死ぬ。
ふとトムはこちらの様子をじっと伺っている女の視線に気付いた。疑わしくそして明らかに警戒している目だった・・・無理もない。誰が自分に銃を向けようとした者を快く受け入れるであろうか。少なくとも今目の前にいるこの女は警察に連絡しないどころか、自分らの手で傷を処置して命を救ってくれたのだ。
「助けてくれてありがとう。世話になった・・・」
トムは優しく微笑みながら女に礼を言うと痛みを堪えながら起き上がり、点滴をチューブを引き抜こうとした。その行為に驚いた女が信じられないといった表情を浮べてトムを制した。
「動いちゃダメよ。貴方もう少しで出血多量で死ぬところだったのよ。うちじゃ輸血パックがないから傷を縫合して化膿止めの点滴をしているだけなの。貴方の車はうちのガレージに入れておいたから心配しないで。あと数日安静にしてここで休んでちょうだい。それから先は貴方がどこに行ってのたれ死のうが私には関係ないわ。これは医者としての忠告よ」
トムは黙って女を見つめそして頷いた。女はメラニーと名乗った。メラニー・タイラー、このマリーナで唯一の街医者だった。Tシャツに短パン姿という風貌はドクターというよりはむしろマリーナのツアー添乗員のようだ。
暫くしてメラニーが朝食を一階から運んできた。トレーの上にはオーブンで焼いたばかりのガーリックトーストにオニオンスープ、そしてオレンジジュースが並んでいる。思えばニ日前、スティーヴンと共にギャングのアジトを襲う前にドライブスルーで買って食べたチーズバーガーが最期の食事だった。メラニーはベッドの脇の椅子に腰掛けた。トムはメラニーの目を見ながらそれらを貪り食った。メラニーもトムの顔をじっと見つめているが先程までの警戒心はなさそうだ。沈黙を破ったのはトムの方だった。
「君が俺を助けてくれた夜にシンシナティーのスタンドで大きな爆発が起きたはずだが、知ってるかい?」
「えぇ、ニュースでやっていたわ。ガソリンに何らかの理由で火が引火して、何人か亡くなったらしいけど、それがどうかしたの?」
「そうか・・・俺はあの時あの場所に居た。給油していたら二台のベンツに囲まれて撃ち合いになって、流れ弾がポンプに引火して大爆発を起こした。俺の傷はその撃ち合いの際に負ったものだ」
「ニュースでは撃ち合いがあったなんて一言も言ってなかったけど・・・」
「相手はマシンガンで撃ち捲くったんだ。地面には薬莢が百発以上転がっていたはずだし、ベンツに乗っていた奴らの死因を調べればそこで何があった解るはずなんだが・・・いずれにしても、ここに長居すればあんたに迷惑がかかる。今夜のうちにここを出ていくよ」
「さっきも言った通り、貴方が人殺しであろうが何であろうが・・・」とメラニーが言いかけたが、トムはそれからの言葉を遮った。
「俺を狙っているのはおそらくフリントのマフィアだ。依頼に基づいて連れと一緒に奴等のアジトに盗みに入った。そして連れはあのスタンドの事故で爆発に巻き込まれて死んだ。俺は他愛も無いこそ泥さ。医者であろうとそんな男をこっそり助けたと奴等が知ったら、あんたに必ず危害が及ぶ。こんな俺でもそれだけは勘弁してほしいんだよ。先生」
それまで気丈な態度を振舞っていたメラニーだったが、それを聞くと黙って俯いた。
「貴方の顔、三年前に飛行機事故で亡くなった主人にそっくりなの。はじめて見た時は本当にびっくりしちゃった。その飛行機には娘も同乗しててね、そのときから私の時間は止まったまま。最近やっと前を向かなきゃって思い始めたんだけどね・・・」
トムはサイドボードの中の写真を注意深く見た。写真の中の三人の顔がトムにむかって微笑んでいる。メラニー、幼稚園に入ったか入らないかくらいのメラニーの娘・・・目元は母親似だ。そしてメラニーの夫。トムはその顔に釘付けになった。髪型も顔のパーツも、灰色の瞳まで自分そっくりだ。しかしメラニーにかける言葉が見つからない。結局のところ俺は別人であり、ただのこそ泥なのだ。
メラニーは黙って後ろのクローゼットへ向かい、中から衣類、ショットガンケース、そして七つ道具を取り出すと、ローテーブルにそれらを置いた。
「服のサイズは多分大丈夫だと思うわ。主人と体型も似ているから。車のキーははじめから付いてなかったけど・・・いいのよね?」
「あぁ、ありがとう。先生」
「先生はやめて、メラニーでいいわ。ここじゃみんなそう呼んでるわ」
少しはにかみながらメラニーは応えた。メラニーがトムの食べ終えたトレーを下げようと手に持った瞬間、玄関のブザーが鳴った。
「はーい、今行きます」メラニーは大きな声で応えると下の階へ駆け下りていった。
扉を開くと、この土地には似合わないスーツ姿の男が二人立っていた。二人とも歳は三十代前後で髪は短く刈り込まれ、警察の身分証を見せた。
「メラニー・タイラーさんでしょうか?」背の低い方の男が尋ねた。メラニーは男の目を見ながら大きく頷いた。
「唐突ですが、この間シンシナティーで起きたガソリンスタンドの爆発事故はご存知でしょうか?」
「はい。ニュースで見ましたけど・・・」
「そうですか。あれは実はテロリストによる爆破行為によるものでして、現在我々はその首謀犯を探しているのですが、この男に見覚えはありませんか?」
男は胸の内ポケットから一枚の写真を取り出してメラニーに見せた。その写真にはトムの顔が写っていた。
「いいえ、存じ上げませんわ」メラニーは動揺を隠しながら男の目を見て答えた。
「そうですか・・・署の方にこちらで彼を匿っているとの密告電話がありましてね。一応ご自宅の中を拝見させて宜しいでしょうか?」
メラニーは困惑した。テロリストに密告電話、いずれも信じ難い内容だった。第一、ここに彼がいることは誰にもわかるはずがない。昨日は怪我をしたり、体調が悪いと言ってここを訪れた者はいなかったし、自分自身も急患でここを離れることもなかった。トムは寝たっきりで起きて何処かへ連絡することもなかったはずなのに・・・。男達はメラニーの返事を待たずに家の中へ強引に入ってきた。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
男達は二手に分かれ一人は一階の診療室へ、もう一人は二階に駆け上がって行った。メラニーは迷わず二階へ向かった男を追いかけた。
「待って!」と再び叫ぶと同時に男はトムが寝ている寝室のドアを開いた。男は立ち止まり、部屋の中を見回していた。追いついたメラニーも恐る恐る部屋の中を見渡したが、つい先程までベッドの上で横たわっていたトムの姿が見当たらない。点滴や先程ローテーブルに置いた衣類もなくなっていた。男がクローゼットに目をつけて足をむけるのを見てメラニーは慌てて男を制した。
「知らないと言ってるのに、そこまでするの?レディのクローゼットまで開けてその男を捜すからには余程その電話は信頼がある人からなのでしょうね。是非会わせてもらいたいものだわ」
「どけっ!」男はメラニーの言葉を無視して、クローゼットを開けた。いくつもブラウスやドレスが掛けられていたが、トムの姿はそこにもなかった。男は踵を返し、隣の部屋へと移動した。隣の部屋はこの三年の間、時間が止まったままの子供部屋だった。メラニーは一階に戻り玄関のところで男達の動きを監視した。そうしながらトムが一体何処に隠れたかを考えることにした。あの体では何処にも行けるはずがなのに・・・。
三十分程虱潰しにトムを探した男達であったが、小柄の男の携帯が鳴って一通り話すると呆気なく外に停めていた車に乗り込んで立ち去ってしまった。メラニーは急いで二階に上がって寝室の扉を開けた。トムは窓越しに脇腹を抱えながら去っていく車を見ていた。部屋に入ってきたメラニーに気付くと唇に人差し指を当てた。そしてベッドを指差した。メラニーはそれに従い黙ってトムが指差すベッドの端まで行って首を傾げた。トムは手首を返して指でベッドの裏を示した。そっとベッドの裏を見るとそこには盗聴器らしい器具が仕掛けられていた。メラニーは目を丸くしてトムを見上げた。そしてトムの傍に行って囁いた。
「何処に隠れていたの?心配したわ」
「窓の外。ケースと点滴は屋根の上、衣類はベッドのマットレスの間に挟んである」
「一体、どうやって・・・片手で?」メラニーは訝しそうにトムを見た。
「これでも、百戦錬磨のこそ泥だからね。片手でもできる芸当さ。まぁ、やり方は内緒だけどね」
盗聴器は全部で四つ仕掛けられていた。診療室、キッチン、子供部屋、そして寝室だった。いずれも小型で届くのはせいぜい一マイル程度だろう・・・ということはこの家の周りに別の警官が潜んで監視しているということになる。トムは万一の時に備えて、ガレージの中のアコードに身を隠した。メラニーから予備の携帯を手渡され、要があればメールするように言われた。トムはメラニーの話を聞いてどうしても納得がいかなかった。なぜ警察は自分を特定できたのか、なぜテロ行為の首謀者となったのか、そしてなぜメラニーの家に居ることがわかったのか?特に三つ目の疑問が気になった。誰にも見られていないのにこの場所がわかるとしたらそれはもはやGPSしか考えられえない。しかし俺はGPS機能をつけられるものなんて持って・・・いる。トムは振り返りバックシートに置かれた黒のショットガンケースを見た。それを手に取り、中を開けようとしたが鍵がかかっている。トムは七つ道具を取り出して鍵穴に差そうとしたが急に思いとどまった。プロの直感だった。GPS機能を発するものが意とも簡単に開けられるとは考えづらい。これはTrapだ。トムはケースの接合部を親指の腹で辿りながら一箇所だけプラスチックの材質が異なる部位を見つけた。長さ二インチ程のその部位を軽く押しながらスライドさせてみるとその中には指紋センサーが埋め込まれていた。トムはセンサー部分に特殊テープを一度貼り付け、それを剥がした後に粘着部分に向かってスプレーを噴射した。吹き付けられたプラスチック樹脂が指紋の形となって浮かび上がってきた。トムは反対側の側面のテープを剥がして親指に貼り付け、そのままセンサーに押し当てた。カチッとケースのロックが解除する音が聞こえた。上蓋をそっと開けるとそこにはヘロインやLSDではなく間違いなくショットガンが格納されていた。しかしそれは一見して十八世紀などに創られたものではないことがわかった。型はソビエト連邦崩壊後に生産されたロシアのTAP社が製造するポンプアクション式ショットガンTOZ194Mに酷似していた。。最大の特徴はピストルグリップやフォアエンドそしてアクションバーの色だ。光が当たるとこれらのパーツが一斉にミッドナイトブルーに変色し、これを手にした者を魅了し、海の底深くに引きづり込む感覚に襲われる。トムはこのショットガンと共に三インチ程のガラス瓶の中で保護された一包の散弾とガンケースの鍵穴に赤と白のケーブルが伸びるプラスチック爆弾を見つけた。ガラス瓶の外から見えるラベルにはロシア語で「青い悪魔」と記されていた。
トムはその瓶をジーンズの後ポケットに突っ込むとショットガンを取り出して助手席に立て掛けた。剥き出しとなったケースの裏側には鹿皮を銀毛させた本格的なバックスキンが施され、高級感を醸し出している。このブルーショットガンの魅力を引き立たすのには十分な演出だ。トムは人差し指と中指をバックスキンに押し当てながらGPSを探した。ちょうど持ち手の部分に来たときにその指が止まった。躊躇せずナイフで裂け目を入れ大きく切り開く。切り口の奥から小さい赤いランプが点滅を繰返している。トムは動く右手で慎重にその部分を表に引きずり出した。サイコロ程の大きさの黒の発信器がその掌におさめられていた。トムはゆっくりと音を立てないように車を降りてガレージの奥に向かった。そこには何年もに開けたことのないであろう埃を被った裏窓があった。トムはロックを外して二インチほど窓を上に持ち上げるとその合間から発信器を外にむかって指で弾き飛ばした。盗聴器が落ちた場所は草木の茂みの中だから簡単には見つけられまい。
トムは手渡された携帯を使ってメラニーにメールを打った。ショットガンケースにGPS機能の発信器が取り付けてあったこと、夕刻にメラニーの車をマリーナのスタンドにある洗車機で洗車をし、その隙に自分はトランクルームから脱出することを伝えた。ただトムが唯一気になることは、盗聴器をシンシナティ警察がメラニーの家に隠したとしてもGPSはそれ以前に既にケースに埋め込まれていたことである。しかし警察はこのGPS機能を使ってトムがメラニーの家に潜んでいることを知っていた。フリントのギャングは地元の警官に賄賂を渡してドラッグの引き渡し現場に来させないように取り計らうことはあっても所轄の違う警察を抱き込むだけの力はない。大体、あのギャング共が他のギャングのテリトリーでマシンガンをぶっ放すというのも現実味に欠ける。追っているのは実はフリントのギャングではなく全く異なる組織かもしれない。いずれにしても盗聴器にも引っ掛からず、GPSがガレージ裏の茂みに捨てられていると分かれば、奴等もこれ以上メラニーを疑うことはないだろう。トムはポケットにしまっていた瓶の蓋を開けて「青い悪魔」の散弾を取り出した。ショットガンに装填するためにその包紙を開くと、散弾の表面に一枚の青いメモリーカードがテープ止めされていた。




