P9
有紗の運転する赤いコンパクトカーはなんとなく気に入っている。
父親の所有している高級車は、確かにいいものだけれど、
あれはステータスの意味合いが強く、どこかよそよそしい。
有紗の車は道具であり、消耗品で、相棒って感じがする。
「おなか減った」
「私も」
助手席に座ってそういうと、少し怒ったような、うれしそうな、
同士に語りかけるような口調でそう応える。
彼女の「私」は、「あたし」という発音に近い。
今日はがっつりお肉食べたいな、いい? と、
フロントガラスをみながら聞いてくる。うんと答えると、
「あ、でもパスタも捨て難いかも。私、麺類好きなんだよね」
と、難しそうな顔をするので、思わずくすりと笑ってしまう。
「ヒロトは食べたいものないの?」
「いいよ、なんでも。有紗が食べたいもので」
どうせそっちがおごってくれるんでしょ、と微笑みながら心の中で付け加える。
すっかり夜になった街並みを歩く人たちは、まだ半そでが多いけれど、
素材や色合いはどこか秋らしい。
もう少ししたら、長袖になって、厚着になっていくのだろう。
有紗と出会ったのは二月の始め、濃いグレーのダウンジャケットを着ていたっけ。
公立高校の受験に向けて、必死に勉強をしているクラスメイトを横目に、
早々に第一志望の私立、蓬泉の特進に合格が決まっていた僕は、
まったりと勉強を続けつつ、わりと暇な毎日を過ごしていた。
その頃から、家をあけるようになっていた。
どうやら僕は気配を消すのがうまいらしい。
面倒な大人に声を掛けられないよう、少し大人っぽい恰好をすれば、
誰も気に留めもしなかった。
夜遊びは、あっという間に飽きた。
ゲームセンターを一人でうろうろするのも、本屋を巡るのも、
コーヒーショップで雑誌を読むのも。
夜気は冷え切って、とても外にはいられない。
居場所を求めて歩くのは、家にいるのと同じくらい惨めな気がした。
そんな時、とあるカジュアルなレストランで、有紗に会った。
比較的混雑している店内、一人でテーブルについて、
店員に注文をしているところだった。
僕を席に案内しようと、先を歩く店員の後について横を通ると、
彼女の物らしい荷物があるだけ、テーブルの上に置かれたコップは一つ。
同席している人の気配はない。
前を歩く店員に、
「すみません、ここでいいです」
と声をかけると、その店員と、有紗と、
注文を聞いていた店員が呆気に取られて僕を見た。
当然のように席に座って、有紗に「貸して」といってメニューを引き寄せ、
目に付いた物を注文した。
店員が僕の頼んだメニューを書きとめて姿を消した後、
「なに?」
と聞く彼女に、
「一緒に食べようよ」
といって、しばらく話し、同じタイミングで運ばれてきた料理を食べた。
それ以来、週に一,二度くらい、会って食事をする。
後から聞いたら、その時有紗は僕を、
まだハタチにはなっていなそうだけれど、学生っぽく、
十八,九歳くらいかと思っていたんだそうだ。
数回会った後、高校生じゃないでしょうね? と、いたずらっぽく聞かれた。
僕は、まさか、違うよ、と答えた。
ウソを言ったわけじゃない。その時はまだ中学生だったんだから。
僕もちゃんと聞いたわけじゃないけれど、
有紗は二十代半ばを過ぎているらしかった。
忙しくて、それでいて多少自由の利く、
同じ年の人よりずい分収入のいい仕事をしているようだ。
たまにありがちな愚痴をこぼすくらいで、
自分の事は仕事もプライベートもほとんど話さない。
話題はだいたい、移り変わる季節の事、旅に行くとしたら、こんなところがいい、
昔見た映画の美しい一場面、とか、そんな事。
食事をし、ベッドを共にする友人。心地いい、僕の居場所。