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クラスの何人かは、帰りのHR後も残って準備をするらしかったけれど、
僕は早々に荷物をまとめて校門を後にした。
気は進まないけれど、嫌な事は先に済ませてすっきりしておこうと思い直した。
自宅に戻って着替えよう。
家に誰もいなければ、部屋に篭もって連絡が来てから出かけてもいい。
玄関のドアを開けて、その目論見が大きく外れた事に気づいた。
「帰りたくない」という直感に従えばよかった。
形の崩れた、薄汚れた男物のスニーカーが、
登り口のほぼ真ん中に向きを整えもせずに脱ぎ捨ててある。
いい年をして、片手間とはいえ、家庭教師という、
他人の家に上がる仕事をしているというのに、最低限の礼儀すらないのか。
汚れてゴムの緩くなった靴下が思い浮かぶ。
そんな足で、僕の家の中を歩き回るのか。
そのまま、ドアを閉めて出かけてしまいたかったけれど、
再び着替えに戻るのも、こんな思いのまま、時間をつぶすのも嫌だ。
できる限りそのスニーカーから離れた場所に靴を脱いで家の中に入った。
廊下とリビングを仕切るドアが数センチ、開いていた。
前を通ると、異様な空気が漂っている。
その空気の正体を知らないほど子供じゃない。
抑えて漏れる声、荒い息遣い、衣擦れとソファの軋み、不規則に繰り返される水音。
不快感と悔しさで吐き気がする。
ばかじゃねえの、と心の中で毒づくと、なぜかじわりと涙が滲んだ。
ドアの前を素通りして廊下を進み、
キッチンのドアを、わざと大きくバタン、と閉め、
冷蔵庫を、ガチャガチャ音を出して漁り、炭酸のペットボトルを取り出した。
壁で死角にはなっているけれど、
隣接するダイニングの方へ数歩移動すれば、リビング全体が見渡せる。
ぴたりと空気が止まってこちらを窺う気配がする。
ペットボトルのキャップを、ゆっくりキリキリと回すと、
シュ、と炭酸の漏れる音がして、ボトルの中に一斉に泡が生じた。
別に飲みたくはなかったけれど、直接口をつけると、
冷たく、チリチリとした液体が流れ込んでくる。
気配に振り向くと、女が立っていた。
寝巻き同然の恰好に、羽織った半そでの薄い上着の前を片手で押さえ、
もう片方の手は忙しなく、自分の髪を手櫛で整えようとしている。
疲れた顔の、貧相な安っぽい娼婦だ。
「早かったのね」
「土曜だし。文化祭だし」
ああ、そう、今日だったの、と、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。
キッチンを出て階段を駆け上がり、自室に荷物を置いてすぐに着替え始めた。
着替えながら、ゆっくり少しずつ階下から持って来た炭酸を飲むと、
吐き気は多少マシになった。
連絡が来るまで特に行くアテもないけれど、
Tシャツに七分袖のシャツを羽織り、
財布とケータイだけをズボンのポケットに突っ込んで玄関へ向かう。
廊下に面したリビングのドアは、相変わらず数センチ開いたままだった。
いらっとしながらそちらを見ずに前を通り過ぎ、玄関へ向かう時、
その隙間から注がれる、見下すような嫌な視線を感じた。
玄関のドアを開けると、空が淡い紺から紫へ、
濃いピンクから茜へとグラデーションに染まっていた。
残暑の湿度と、初秋の風が危ういバランスで心地いい。
電線にカラスが並んでとまっているのを見上げてから、
繁華街を目指して歩き出した。