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P8

クラスの何人かは、帰りのHR後も残って準備をするらしかったけれど、

僕は早々に荷物をまとめて校門を後にした。

気は進まないけれど、嫌な事は先に済ませてすっきりしておこうと思い直した。

自宅に戻って着替えよう。

家に誰もいなければ、部屋に篭もって連絡が来てから出かけてもいい。


玄関のドアを開けて、その目論見が大きく外れた事に気づいた。

「帰りたくない」という直感に従えばよかった。

形の崩れた、薄汚れた男物のスニーカーが、

登り口のほぼ真ん中に向きを整えもせずに脱ぎ捨ててある。

いい年をして、片手間とはいえ、家庭教師という、

他人の家に上がる仕事をしているというのに、最低限の礼儀すらないのか。

汚れてゴムの緩くなった靴下が思い浮かぶ。

そんな足で、僕の家の中を歩き回るのか。

そのまま、ドアを閉めて出かけてしまいたかったけれど、

再び着替えに戻るのも、こんな思いのまま、時間をつぶすのも嫌だ。

できる限りそのスニーカーから離れた場所に靴を脱いで家の中に入った。

廊下とリビングを仕切るドアが数センチ、開いていた。

前を通ると、異様な空気が漂っている。

その空気の正体を知らないほど子供じゃない。

抑えて漏れる声、荒い息遣い、衣擦れとソファの軋み、不規則に繰り返される水音。

不快感と悔しさで吐き気がする。

ばかじゃねえの、と心の中で毒づくと、なぜかじわりと涙が滲んだ。


ドアの前を素通りして廊下を進み、

キッチンのドアを、わざと大きくバタン、と閉め、

冷蔵庫を、ガチャガチャ音を出して漁り、炭酸のペットボトルを取り出した。

壁で死角にはなっているけれど、

隣接するダイニングの方へ数歩移動すれば、リビング全体が見渡せる。

ぴたりと空気が止まってこちらを窺う気配がする。

ペットボトルのキャップを、ゆっくりキリキリと回すと、

シュ、と炭酸の漏れる音がして、ボトルの中に一斉に泡が生じた。

別に飲みたくはなかったけれど、直接口をつけると、

冷たく、チリチリとした液体が流れ込んでくる。

気配に振り向くと、女が立っていた。

寝巻き同然の恰好に、羽織った半そでの薄い上着の前を片手で押さえ、

もう片方の手は忙しなく、自分の髪を手櫛で整えようとしている。

疲れた顔の、貧相な安っぽい娼婦だ。


「早かったのね」


「土曜だし。文化祭だし」


ああ、そう、今日だったの、と、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。

キッチンを出て階段を駆け上がり、自室に荷物を置いてすぐに着替え始めた。

着替えながら、ゆっくり少しずつ階下から持って来た炭酸を飲むと、

吐き気は多少マシになった。


連絡が来るまで特に行くアテもないけれど、

Tシャツに七分袖のシャツを羽織り、

財布とケータイだけをズボンのポケットに突っ込んで玄関へ向かう。

廊下に面したリビングのドアは、相変わらず数センチ開いたままだった。

いらっとしながらそちらを見ずに前を通り過ぎ、玄関へ向かう時、

その隙間から注がれる、見下すような嫌な視線を感じた。


玄関のドアを開けると、空が淡い紺から紫へ、

濃いピンクから茜へとグラデーションに染まっていた。

残暑の湿度と、初秋の風が危ういバランスで心地いい。

電線にカラスが並んでとまっているのを見上げてから、

繁華街を目指して歩き出した。

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