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学校から帰宅して、制服のまま適当に夕食をとっている間、
誰かと電話で話す母親の声が聞こえていた。
そうなの、やだ。クスクス。
母親の、「女」の声を聞くほど気色の悪い物はない。
それは当の本人もわかっているのだろう、僕が最近家をあけがちだったとしても、
高校生の男の子とはそういうものよね、と、見てみぬフリだ。
成績さえそこそこの位置にあれば、誰も干渉してこない。
父親から与えられたカードは二枚。一枚は、僕名義の銀行口座のカード。
適当に引き出しても不安を感じないくらいの残高が常にあるし、
外食や買い物だったら、もう一枚の、父親名義の家族カードを使う。
食事を終えて自室に入って着替えと荷物の整理をし、
教科書とノートを開いて机に向かう。
ノートの余白には、佐倉がした質問と、それに対する教師の返答がメモしてある。
高校のテストの問題にはでないであろう内容という意味では、雑学に近い。
知りたいから学ぶという姿勢が、こんな質問をさせるのだろうか。
ケータイの画面が光って話しかけられる。
「前髪、少し短く切ろうかな? もうすぐテストで最悪」
どんな答えが正解なんだろう。
こっちの問題も難易度がだんだんと高くなってきている。
「前髪、短いのも可愛いだろうね。
こっちも今から復習するところ。テスト勉強、頑張って」
このまま十時過ぎくらいまでリアクションがなければ、
おやすみと告げて今日が終わる。
しばらく教科書に向かって、ふと思いついて階下に降りた。
ささやくような声が聞こえる。まだ電話しているんだろうか。
リビングに入ると、母一人かと思っていたので、
そこにいたもう一人の存在に一瞬胸が硬直して身を引いた。
母の戸惑うような表情と、家庭教師のいたずらっぽい笑いを湛えた口元。
「やあ、浩人君、こんばんは」
「今日って、来てもらう日でしたっけ」
僕の感情を抑えた声に、ふふ、と肩をすくめて、
「いや、違うけど。ちょっとお母さんに話があって」
と、にやりと笑う。
吐き気がする。
すぐその場を去りたかったけれど、母親の顔を見る機会は、
なるべく少なく済ませたい。
「近いうちに、学校で助けてくれている友人が来るから。
きれいにしておいて」
「ああ、そう。わかったわ」
きれいにっていうのは、そいつをあいつらに見せるなって意味だよ、と、
心の中で吐き捨てながらリビングを後にする。
三十代前半の、教員免許を持っているという、僕の家庭教師。
売れない小説家だか脚本家だかをやっているのだそうだ。
僕の苦手だった、国語の古典と日本史が得意分野で、
中学の頃は教えられてなるほどと思う事も確かにあったけれど、
高校の授業内容は質問してもはぐらかされる事が多い。
はっきりいって、僕にはもう必要ない。けれど。
自室には戻らず、二十畳ほどの地下室へ降りた。
バーカウンターが設えてあって、防音がしっかりしている。
父親の趣味室だけれど、あいつはほとんど家に帰ってこないし、
たまに僕が使う程度、何も言いはしない。
うんざりと滅入る気持ちを振り払うように、椅子に腰掛けてチェロを弾く。
今ここにある弦の音以外、何も聞きたくない。
この部屋は、中の音を外に漏らさないように作られたのだろうけれど、
実は外の音を侵入させないためにあるのかもしれない。
少なくとも、僕にとってはそうだ。