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鬱陶しい事に、その日は家庭教師が来る日だった。
相変わらず、僕の部屋には来ないけれど。
階下で人の動き、話す気配を感じながら机に向かっていると、
玄関の扉が開いた音がした。
もう帰ったんだろうか。無意識にため息が漏れる。
と、誰かが階段を昇ってきて、ドアがノックされ、
返事もしないのに勝手に開けて家庭教師が入ってきた。
開いたドアから、階下で母親と話す父親の声が聞こえる。
さっきの玄関のドアの音は、コイツが帰っていったんじゃなくて、
父親が帰って来たんだったのか。
なるほど、やつが引きつった、むっとした表情をしているわけだ。
心底邪魔だったけれど、無視して勉強を続ける事にした。
背後でごそごそ何かを漁っている。クソ、勝手に僕の物に触るな。
いうのも億劫で無視を続ける。
「おい、これやれよ」
命令口調にいらっとする。
高校受験のために勉強を教わっていた時と、言葉遣いがまるで違う。
机の上に投げ出されたものをみると、中学の古典の教科書だ。
みてわかるだろ、僕は今、数学の問題集を解いているんだ。
胸のムカムカが治まらない。
数秒、教科書の表紙を見て、小さくため息をついて問題集を続けると、
「なんだよ、その態度。こっちをやれって言っているだろ」
と、耳のそばに顔を寄せ、ひそひそと、
それでいて強く脅すように言って来た。
なんなんだよ。僕の事は放っておいてくれ。
余りにもばかばかしくて、なぜだか泣けてくる。
僕の無言をどう受け取ったのか、いきなり前髪を掴まれた。
「ふざけんな、バカにしてんじゃねえよ」
髪を引かれる痛みと屈辱に抵抗しようとすると、いきなりドアが開いた。
仁王立ちに怒りの表情を浮かべる父親と、
その背後に、おろおろと母親が立っていた。
「こ、こいつが、浩人君が、いう事を聞かなくて。
古典を嫌がるから」
「中学の教科書なんて、やる訳ないだろ」
手を振りほどいて言い返す僕を、三人の大人が見る。
「高校の教科書を、出さないのが悪いんだろう。
どこへやったんだ? 学校に置きっぱなしなのか?」
「ないよ」
僕の言葉に、空気が止まる。
「ないって、どういう事だ?」
父親の、怒りを押し殺したような声に、
椅子から立ち上がって、両親の脇をすり抜けて階下へ降りた。
リビングのサイドボードの引き出しを上から順に開ける。
三段目で蓬泉の名前の入った、
浅黄色のA4サイズの封筒をみつけて中の書類を取り出す。
両親とヤツもリビングへ来た。母親に向かって問いかける。
「母さん、僕が理系、文系、どっち志望だか、知っている?」
「知っている、わよ。理系でしょ」
ちょっと探りながらそういって、
僕が、そう、理系、と肯定すると心底安心した表情に変わった。
書類の一枚を、父親に向けてみせる。
「入学する前に、確か、説明会でもらった書類。
高校の三年間で履修する課程表。
僕は今、特進コースだから、ここ。
二年では理系特進を志望だから、ここ。
理系特進の授業内容は、ここに書かれている。三年はここ」
そういいながら、一年の特進、二年の理系特進、
三年の理系特進・私大と書かれた列を指す。
「欄の数字は、週に何時間授業があるかって事。
一年では古典の授業はない。
二年で、週一時間あるけれど、
三年の理系コースには、古典の授業はなくなる。
理系志望の僕には、古典は必要ない。
授業がないんだから、当然教科書もない」
父親が僕からその書類を受け取って、一覧をじっとみる。
「でも、日本史が」
「日本史も、二年になってから週一時間、という意味だな?
一年の社会科は、地理と公民、世界史のみで、日本史は授業すらない、と」
家庭教師の言葉を遮る父親に、頷く。やつと母親が目を見開く。