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そんな冬を過ごして、春が近付き、
明け方の肌寒さに掛け布団を引き上げて彼女を抱き寄せ、
もうすぐ高校の入学式だとうんざりしたようにいうと、とても驚いていた。
そんな日々を過ごしながら、ある日の夜、確か、ぬるい雨が降っていた。
いつものように、ケータイの彼女に「おやすみ」と、
ハートマークを追加したメールを送った。
隣に横になって話していた有紗にも、その画面がみえたのだろう。
「なあに、彼女?」
と、からかうようにいうので、うん、駅で逆ナンパされた、と答えた。
一瞬空気が止まって、あれ、と思った。
ああ、そうか、こういう状況で、他に本命の女がいるなんて、
いうべきじゃないのかも。
それでも、ふうんと言ったきり、それまでの態度と変わらずにいてくれた。
ほっとして、よくわからないけれど、さすがだな、と思った。
最近、泊まるのはだいたい、有紗の部屋だった。
次の日が休みだったら、朝、コーヒーを二人分淹れたり、
主が出勤していなくなった部屋でだらだらと午前中寝て過ごしたりした。
学校だったら明け方早く、電車の始発で家に帰った。
有紗は、土日祝日関係ないらしく、いつでも七時少し過ぎに家を出た。
変わらない点はもう一つ。
ベッドサイドのキャビネットの上に、
手のひらくらいの大きさに折りたたまれた紙片が置いてある事。
開くといつも代わり映えしないけれど、
そこからなんらかのメッセージを読み取ろうとするのは、秘かな楽しみだ。
有紗から僕へ宛てたラブレター。
結局、その日の夕食はサンマ定食を食べた。
肉でも麺類でもないじゃないかと呆れると、
そうよ、思い出したけれど、秋といったらサンマよ、と目を輝かせた。
母親は匂いがつくとか片付けが手間だとかいって、家では焼き魚は食べ慣れない。
まあ、ちゃんとした料理自体、ほとんど出てきた事はないけれど。
青魚は臭みが気になるから苦手だったけど、
皮がぱりっとして少し焦げたところが香ばしく、
さっぱりとした大根おろしとよく合ってとてもおいしかった。
有紗は、このお店はごはんもこだわりの水とお米を釜で炊いているのだと、
得意気に言った。
食べることに情熱を傾けている人との食事は楽しい。
口にしたものが栄養になって元気をくれる、と、言葉ではなく伝えてくれる。
夕方、自宅であった事は、ムカつきはするけれど、食事前ほど気にならない。
なんだかもう、どうでもよくなっていた。
「何かあったの?」
店を出て車に向かって歩く時、そう聞かれた。
駐車場は外灯がついているけれど、手元が見える程度の明るさしかなくて薄暗く、
ひと気はなかった。
別に、といって抱き寄せて、
重ねた彼女の唇も、ほんのり焼いたサンマの味がした。
翌日は文化祭の二日目だったから、
さすがに終電の少し前に駅に送ってもらって自宅で寝た。
朝、キッチンへ行くと、運よく食パンがあったからトーストして、
コーヒーを淹れて食べていると、母親が起きてきた。
来ないでいいのに。つか、来るな。朝から気分悪い。
「この前来たお友達、可愛かったわね。
あの子達と今日の文化祭でアンサンブルをするの?」
「うん」
媚びるような態度と声に、あいつらを穢されたような気がした。
本当に知りたいのは、昨日の家庭教師との事を、僕がどう思っているか、とか、
父親に言いはしないかとか、そんなところだろう。
こっちの表情を探るような視線を無視して家を出た。