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「おやすみ、と」
ハートの絵文字を追加してケータイの画面に並ぶ文字をざっと読み返し、
送信ボタンを押す。
画面を指でなぞり、ケータイに終了の指令を伝えて机の端に置いた。
高校に入学してすぐの頃に駅で声を掛けられ、
断る理由も特になくて付き合い始めた。
会ったのはその時と、あと二回。
三回目の別れ際、そろそろなんだろうなと思ってキスをした。
会う以外は、毎日平均三回、メールのやり取りをする、
待ち合わせでもして意識しなかったら、
気付かずにすれ違ってしまっているかもしれない、ほぼバーチャルな僕の恋人。
たまに、ケータイと付き合っているような錯覚に陥る。
面倒がなくていいけれど、そろそろこの遊びにも飽きてきた。
メールに中断された問題集に向かう。
シャープペンシルの芯が紙に擦れる、さらさらという音と、
整然と並ぶ文字に思わず口元がほころぶ。
中学の頃から化学式や濃度計算は得意だった。
というか、なぜクラスの連中がここでひっかかるのか、
そっちの方が理解できない。
計算方法は算数レベルじゃないか。
先日、一学期の実力テストの結果が発表されて職員室に呼び出された。
「今回の成績なら、一組にクラス替えできるが、どうする?」
二組からは僕ともう一人、女子が一組になる権利があるんだそうだ。
別に、一組でも二組でもたいした違いじゃないだろうし、
今さらクラス替えなんて面倒だなという思いもあった、けれど。
僕が移動することで、誰かが一組を出なければいけない。
一組より上はないから、当然、下のクラスへ。
「一組に行きます」
そうか、と、担任は少しうれしそうに言った。
僕と入れ替わりに脱落する誰か。
そいつはどんな思いでその事実を受け取るんだろう。
くすっと鼻で笑って僅かに目を伏せて、問題を解き続けた。もうすぐ夏休みだ。
夏期講習の数学選択のクラスで、見知らぬ生徒に声をかけられた。
一組のコウサキだと名乗る。
「二組の早瀬君でしょ? てか、元二組、か。
二学期から一組なんだよね」
ああ、こいつが。
確か、中等部までリュシオルにいて、
どういうわけか蓬泉に進学してきたという、学年二位の秀才。
人当たりはいいけれど、僕のイメージとしては、
わがまま放題で、周りの人間がかしずいて当然、という、
思いやり? なにそれ? って感じの、生まれついての王子様。
人懐っこい笑顔で近付き、好奇心を満たすためだけに人の心にずかずか入り込み、
飽きたらポイ。
自分に近づこうとする人間は「無礼者」といわんばかりに見下して拒絶する。
最も、というわけではないけれど、苦手なタイプだ。
もっと正確に言うと、嫌いなタイプ。
どこかしら、僕に近く、似ているから。
踏み込まれるのが面倒で、当たり障りのないシモネタなんかをしていたのだけど、
どういうわけか気に入られてしまったようだ。
「早瀬君と僕って、どこか、価値観とか? 似ている気がするんだよね」
ある時、そんな事を言った。
自分と似ているから、気に入る?
よくそんな、反吐がでるようなセリフをあっさり吐けるものだと逆に感心する。
そうか、君は自分が好きなのか。それは何より。
こっちの気も知らず、ぐんぐん距離を詰めてくる彼に、
かすかな苛立ちを覚えながら、周囲に対しては優越感も抱いていた。
何せ、神崎は目立つ。美形の秀才。社交的で器用。
王族のような尊大ささえ、従属したいと思わせる何かがある気がする。
早瀬君、と駆け寄ってくる彼と談笑していると、
主に二組の連中から羨望の視線が向けられるのがわかる。
一組に行く事にして、よかったのかもしれない。
自分の選択に、軽く満足していた。
その後、とてつもなく面倒な二学期になる事に気付きもせずに。