ネズミおとこ
とある男がいた。歳は二十五。とても柔和な性格で、しかし、ひどく緩慢な男である。生まれた土地を離れず、地元の大学を卒業したのち、地元の企業に就職した。
男が務めたのは、紙おむつや医療機器を販売する企業だった。男はそこで、製品を検査する業務に就くことになった。
よく男は上司に叱られた。丁寧な仕事をするものの、人の倍近く時間を要するのだから、それも仕方のない事だった。
叱られても、叱られても、男の仕事の効率は上がらなかった。努力はしている。しかし、生まれ持っての性質なのだろう、どんなに頑張っても、仕事の速度は上がらなかった。
二年ほど勤めて、男は部下を持った。自分よりも三つ年下の、よく動く女だった。
男は仕事をよく教えた。そのたびに、部下はよく学び、より仕事を多くこなせるようになった。
上司は、部下の前でも男を叱った。それが、まるで子供を叱りつけるかのようにするものだから、柔和な男もさすがに腹が立った。しかし、特に何も言い返すではなく、ただへらへらと笑い「すみません」と謝った。
やがて一年が経ち、部下の女は、立派に一人で仕事をこなせるようになった。その頃から、男は部下に見下されているような感覚を覚えるようになった。
ある日、こんなことがあった。
男が、とある製品を検査しようとする。すると横から部下の女が、何も言わずにその製品を取っていく。そして、勝手に製品を検査し、しかもその速度は男よりも早く、また男と同じく正確なのである。この出来事があってから、自分はこの部下よりも能力の劣った人間なのだと思うようになった。
それから、また、一年が経った。
特に大した生活の変化も、仕事の変化もなく男は働いていた。そんな男に転機が訪れるのは、その年の夏。検査済みの製品を保管する倉庫の整理したときのことである。
製品の詰まった段ボールを片付けようと持ち上げた時、一匹の小さなネズミが段ボールの中から飛び出してきた。男は驚いて、そのダンボールを放り投げてしまった。
ネズミは段ボールと共に放り出されて床に投げ出された。衝撃で足を痛めたのだろう、ネズミはチラチラと男の様子を伺いつつ後ろ足をかばうように床を這い、段ボールの影に身を隠した。そのさまは哀れで、矮小で、そして見苦しかった。
ああ、と男は思う。
これは僕だ。このネズミは僕自身――醜く哀れで矮小で救いようがなくて、攻撃されても怒るではなく人の顔色をうかがう、僕自身の姿だ。
僕はネズミなんだ。
男は、自分の心が軽くなるのを感じた。
今まで自分は自分を情けない「人間」だと思っていた。努力しても他人にすぐに追い越され、追いつけず、何を言われても言い返せず、年下には蔑まれ、年上には疎まれ、つくづく自分の不甲斐なさが嫌になっていた。そしてそれは、いずれも自分が「人間」であるが故の苦悩である。
男は、自分をネズミだと考えるようになった。
この出来事の後、男の仕事ぶりは特に変わらなかったが、精神面は大きく変化した。くよくよと悩み続けることがなくなった。上司から叱責されても、部下に自分の仕事を取られても、心は穏やかだった。僕はネズミなのだから「人間」である彼らと比べて劣っていても仕方がない。むしろこれが自然なのだ。事あるごとに男はそう考えた。
男のこの考えは、きっと逃避に違いなかった。男もそれは理解しており、逃避であることを受け入れていた。むろん男は、自分が人間であることは分かっている。それでもなお、男は自分がネズミだと信じることで、あらゆる失敗からの、精神的な逃げ道を得たのである。
一年が過ぎ、また夏が来た。
ある日、男の上司が興奮した様子で検査室に入ってきた。
「大きなネズミが罠にかかったぞ」
そう言いながら、上司は大げさに男を手招いた。男は嫌な予感がした。部下の女はあからさまに嫌な顔をして、さっさと検査に戻ってしまった。
男は上司について行った。罠の設置場所は製品保管庫だった。
上司が床を指さす。ネズミ駆除用の粘着シートがそこにあり、大きなネズミが罠にかかって死んでいた。ネズミの遺体は、すぐに処分された。
その日午後、男は気分が悪いと言って会社を早退した。帰社する直前、上司は自分がネズミの遺体を見せたことを男に詫びた。男は「いえ、それは関係ないです」と言って、笑った。
次の日、男はいつもより早く出社した。てきぱきと自分の仕事をこなし、自分の仕事が終われば、部下の仕事を手伝った。それでも上司は男を怒鳴りつけ、部下の女は男を蔑んだ。
その日の深夜、男は自宅で首を吊って死んだ。
「人間はもうこりごりです」と、落書きのような遺書が残されていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
今後は明るい作品も書かせていただきます。精進して参りますので、よろしくお願いいたします。