妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました
カイル・ヴェルナー侯爵令息は、私の婚約者だった。
少なくとも、ほんの数分前までは。
「お姉様、ごめんなさい……でも、カイル様がわたくしを放してくださらないの」
春の園遊会の真ん中で、妹のリリアはそう言った。
泣きそうな声だった。
けれどその指先は、私の婚約者の腕にしっかりと絡みついている。
離れる気など、最初からないくせに。
花で飾られた庭園では、楽団が軽やかな曲を奏でていた。
なのにそこだけ、空気が止まったようだった。
カイルは困ったような顔で私を見た。
その顔を見た瞬間、ああ、この人は今日この場で私を切り捨てるつもりなのだと分かった。
「エレノア」
諭すような声だった。
「君はもう少し柔らかい女性だと思っていたよ」
「そうかしら」
「リリアは繊細なんだ。君のように何でも一人で片づける女とは違う」
その一言で、周囲の視線がいっせいに集まった。
私は一人で立っている。
妹は私の婚約者の腕にすがり、婚約者は妹をかばうように肩を寄せている。
あまりにも分かりやすい絵だった。
「カイル様……お姉様を責めないで」
リリアはそう言いながら、さらに身を寄せた。
かばっているふりをして、自分が選ばれた女だと見せつける角度まで計算している。
父が低い声で言った。
「エレノア。ここで騒ぐな」
母もすぐに続けた。
「お前が折れれば済む話でしょう。妹の将来に傷をつける気なの?」
その言葉に、泣きたくなるより先に、少し笑いたくなった。
結局、最後までそれなのね。
私の妹、リリアは昔から泣くのが上手かった。
転べば大粒の涙をこぼし、叱られそうになれば唇を震わせ、欲しいものがある時は「お姉様の方がお似合いだと思ったのですけれど……でも、少しだけ羨ましくて」と申し訳なさそうに微笑む。
すると大抵のものは、思い通りになる。
私の誕生日の苺のタルトもそうだった。
最初の一切れを食べる前に、リリアは「お姉様ばかりずるい」と泣いた。
新しく仕立てた青いドレスもそうだった。
先に袖を通し、「わたくしの方が似合うみたい」と笑われた時、母は私にこう言ったのだ。
『お姉様なのだから、少し譲ってあげなさい』
私は姉だったから、たいてい譲った。
正しく言えば、譲った方が早かった。
泣かれて、味方をされて、最後には「エレノア、お姉様でしょう」で終わると分かっていたからだ。
リリアは可愛い。
実際、とても上手に可愛がられる妹だった。
ただし、その愛らしさの大半が計算でできていることを、私は知っていた。
あの子は甘え上手なのではない。
甘えるふりが上手いのだ。
そして、誰もそれを見抜けない。
両親も、使用人も、友人たちも。
だから私だけが知っていれば十分だと思っていた。
妹のやることだもの、と見逃してきた。
婚約者まで、欲しがられるまでは。
カイルがようやく、よく通る声で宣言した。
「皆の前ではっきり言おう。私はエレノアとの婚約を解消する」
ざわめきが広がる。
「私はもっと、私に寄り添ってくれる女性を選ぶべきだと気づいた。リリア嬢のようなね」
「カイル様……」
妹は頬を赤らめて俯いた。
よくできた芝居だった。
私は一度だけ目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げた。
「婚約解消、承知いたしました。ただし条件がございます」
庭園が静まる。
カイルが目を細めた。
「条件?」
「ヴェルナー侯爵家の都合による一方的な破棄ですもの。正式な謝罪状と慰謝料、それからわたくしの名誉を傷つけぬ旨の公文書をいただきます」
「そんなに惜しいのか?」
「いいえ、まったく」
私はにっこり笑った。
「惜しくはありませんが、損はしたくありませんの」
父がぎょっとし、母は扇を落としかけた。
リリアまで目を見開いている。
けれど、周囲の貴族たちの前でそれを拒めるほど、侯爵家は愚かではなかった。
婚約破棄は向こうの都合。
しかも大勢の前での侮辱付きだ。
ここで支払いを渋れば、侯爵家の評判に傷がつく。
カイルのこめかみがぴくりと動いた。
「……ずいぶん現実的なんだな」
「そうかしら。わたくし、昔から帳簿だの契約だの、つまらないことばかり気にする女ですもの」
その言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。
今度は私を笑うものではない。
リリアが一歩前へ出て、震える声で言った。
「お姉様、わたくしのせいでそんな……」
「そう思うなら黙っていなさい、リリア」
私は妹を見た。
その目に、初めてほんの少しだけ怯えが走る。
「欲しいなら差し上げるわ。でも、代金はいただく。それだけよ」
そう言い残して、私は庭園を後にした。
*
私の婚約者、カイル・ヴェルナーは、見た目だけなら非の打ちどころがない男だった。
金髪に青い目、よく通る声、社交界で磨いた優雅な微笑み。
初めて会った時、母は「なんて素敵な方」と頬を染め、父は「侯爵家との縁は申し分ない」と満足そうにうなずいた。
私は最初からあまり好きではなかった。
理由を一言で言うなら、目だ。
あの人は相手そのものではなく、自分にどんな反応を返すかを見る目をしていた。
褒めれば嬉しそうにする女。
少し冷たくすれば追ってくる女。
甘えれば守ってやりたくなる女。
そういうものを値踏みするような目だった。
そして事実、彼は女好きだった。
婚約して間もない頃、屋敷の若い侍女が不自然に辞めた。
別の夜会では、未亡人の伯爵夫人に必要以上に近づいて香水を褒めていた。
二人きりの時には、私の返事も待たずに距離を詰め、「婚約者なんだから、少しは可愛く嫉妬してみせたらどうだ」と笑った。
決定的だったのは、ある夜のことだ。
夜会帰りの馬車がぬかるみにはまり、御者がもたついた時、カイルは扉を開けるなり怒鳴りつけた。
「使えないな。だから下賤の者は嫌いなんだ」
普段は完璧な笑顔を浮かべているくせに、言い返せない相手にだけああいう顔をする。
その時、私は思ったのだ。
ああ、この人と結婚なんて無理だ、と。
帰宅してから一度だけ父に言った。
「お父様、あの方はやめた方がよろしいのではありませんか」
「何を子どもじみたことを」
「女の方にだらしない方です」
「侯爵家の男にその程度はつきものだ。お前がきちんと妻になれば収まる」
母も笑った。
「少しくらい華やかな方が、旦那様としては魅力的ではないの」
そこで分かった。
誰も見ていない。
見ようとしていない。
それなら、もういい。
私は別の意味で腹をくくった。
この婚約は、いずれ何らかの形で手放す。
病弱のふりでも、社交の不一致でも、やりようはいくらでもある。
そう考え始めた頃、リリアがカイルに興味を示した。
*
「お姉様の婚約者様って、本当に素敵」
ある午後、私の部屋でリリアはそう言った。
窓辺の椅子に腰掛け、私の新しい手袋を勝手に指にはめながら、うっとりとため息をつく。
「お優しそうで、女の人の扱いにも慣れていらっしゃるのね」
「ええ。そうね」
「お姉様みたいに堅い方には、少しもったいないかもしれないわ」
私は帳簿から顔を上げた。
「リリア」
「なあに、お姉様」
「あの方はやめておきなさい」
「……え?」
妹が珍しく、本当に驚いた顔をした。
「私はあの方とは無理だと思っているの」
「それは、お姉様が男の人の扱いが下手だからでしょう?」
「そうかもしれないわ」
「でも、わたくしなら違うわ」
リリアはくすりと笑った。
「愛されることがすべてじゃないもの。うまく立ち回れば、ああいう方は案外簡単よ」
「そう思うなら、好きにすればいいわ」
その瞬間、リリアの顔が少しだけ変わった。
私が慌てて止めると思っていたのだろう。
泣いて、怒って、返してと言うと思っていたのだ。
でも私は違った。
カイルのような男は、私には無理だ。
けれどリリアは愛を求めない。選ばれること、奪うこと、優位に立つことの方が大事な子だ。
だったら、ある意味ではお似合いなのかもしれない。
もちろん、幸せになるとは思わなかった。
でもそれは、私が止めることではない。
「本当にいいの?」
とリリアは探るように言った。
「私は最初から、あの方と結婚する気はないもの」
「……強がりがお上手ね、お姉様」
その時点で、少しだけ思った。
ああ、この子は本当に、自分だけはうまくやれると信じているのだな、と。
*
その場で正式な返答は出なかったが、翌週にはヴェルナー侯爵家から謝罪状と、かなりの額の慰謝料が届いた。
私は封書を見ながら、思わず笑ってしまった。
あら。
私も案外、計算高いのかもしれないわね。
両親は「ひとまず体面は保たれた」と安堵していた。
父は「お前には悪かった」と言ったが、その目はどこか薄かった。母は「きっとお前にももっといいご縁が」と慰めた。
私はどちらにも、にっこり笑って答えた。
「結婚なんて、もうまっぴらですわ」
半分は本音で、半分は宣言だった。
私はすでに慰謝料の使い道を決めていた。
新しい旅行鞄を誂え、海の向こうの地図を買い込み、外国語の会話集を机に積む。
本の中でしか見たことのなかった港町や遺跡や山脈の名を指でなぞるたび、胸が軽くなった。
あの男に人生を縛られるくらいなら、遠くへ行こう。
誰の妻にもならず、どこへだって。
そう決めた。
*
リリアとカイルの婚約は、最初のひと月だけはうまくいっているように見えた。
少なくとも外からは。
けれど噂は、遅かれ早かれ漏れる。
カイルが劇場の歌姫に高価な首飾りを贈っただの、夜会で別の令嬢に耳元で囁いていただの、食事の席で新しい侍女の手を取っただの。
リリアは最初、「これくらい想定内よ」と笑っていたらしい。
そうでしょうね。
あの子は愛が欲しいわけではない。正妻の立場、周囲からの羨望、自分が勝ったという事実が欲しいのだ。だから多少の浮つきくらい、自分が優位であるうちは耐えられると思っていたのだろう。
けれどカイルは、そんな程度の男ですらなかった。
ある日、リリアはカイルの書斎で一枚のカードを見つけた。
白い厚紙に、見慣れた流れるような筆跡。
『可愛いね。君は特別だ』
リリアはしばらく意味が分からなかったらしい。
その文句は、つい先日、自分が耳元で囁かれたものと一字一句同じだったからだ。
しかも贈り先の名前は、自分ではなかった。
さらに引き出しの奥には、同じ店の包み紙があと二つ、まだ開封されずにしまわれていた。
一つには若い歌姫の名。
もう一つには、見覚えのない伯爵家の令嬢の名。
リリアはそこでようやく、自分だけではなかったことを知った。
自分が奪ったつもりでいた男は、誰のものにもならない男だったのだと。
その夜、鏡の前で笑おうとして、うまく笑えなかったらしい。
いつもなら自然に作れるはずの可愛い顔が、引きつって崩れたのだという。
実家へ泣きながら戻ってくることが増えた頃、妹は私の部屋へ来た。
「お姉様、どうして平気だったの」
「平気ではなかったわ」
「じゃあ、どうして何も言わなかったの」
「言ったでしょう。私は無理だって」
それだけ答えると、リリアは唇を震わせた。
「お姉様って、ひどい」
「そうかしら」
「知ってたんでしょう、あの人がこういう人だって!」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、あなたは自分ならうまくやれると言ったのよ」
リリアはその場で泣き崩れた。
昔なら、私はきっとハンカチを差し出しただろう。
背を撫でて、なだめて、また少し譲ったかもしれない。
でも、もうしなかった。
私は今、ようやく自分の人生を始めようとしているのだから。
*
旅立ちの日、空は見事に晴れていた。
港には大きな白い船が停まり、見たこともない国の旗が風にはためいている。
父は最後まで「本当に一人で行くのか」と渋い顔をしていた。
母は「せめて半年で戻ってきなさい」と何度も言った。
リリアは目を真っ赤にしていたが、今日は何も欲しがらなかった。
私は旅装の手袋をはめ直し、鞄を持ち上げた。
「行ってまいります」
「本当に、結婚はしないつもりなのか」
と父が言う。
「当面は」
「当面、か」
「ええ。世界の方が面白そうですもの」
母がため息をつき、父は呆れた顔をした。
リリアがぽつりと言った。
「お姉様、ずるい」
「何が?」
「そんなふうに、全部持っていっちゃうなんて」
「全部ではないわ」
私は笑った。
「いらないものは、きちんと置いてきたもの」
リリアは悔しそうに唇を噛んだが、反論はしなかった。
汽笛が鳴る。
私はタラップの前で一度だけ振り返り、家族を見た。
それから、ふと可笑しくなって口元を押さえる。
あれ。
私、慰謝料をきっちりいただいて、厄介な男を手放して、誰にも縛られない自由まで手に入れてしまった。
思っていたより、ずっと得をしているわ。
「どうしたの、お姉様」
とリリアが怪訝そうに聞く。
私は肩をすくめた。
「いいえ。ただ、思っただけ」
潮風が頬を撫でる。
「私も、あなたみたいに計算高かったのね」
リリアが目を見開く。
私はくすりと笑った。
「まあ、姉妹だもの。少しくらい似ていても仕方ないわ」
そう言って、今度こそ前を向く。
世界は広い。
結婚なんてしなくても、面白いことはきっと山ほどある。
私は軽く裾を持ち上げ、白い船へと足をかけた。
妹に婚約者を奪われたはずの私の旅立ちは、思っていたより、ずっと晴れやかだった。




