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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

緊急連絡先

作者: 木鷺
掲載日:2026/03/22

電話は、四分二十七秒で終わった。


『へぇ、そうなの。おめでとう』


半笑いの声は、ひどく酔っているようだった。


昔からずっと、折り合いの悪い母だった。

母でいるより、女でいたい人だということは、よく知っている。思春期の娘がいようがお構いなしに、見知らぬ男を家に引き入れるような人だった。


それに耐えきれなくなって、高校を卒業すると同時に家を出た。

それからは、冠婚葬祭で顔を合わせるくらいで、まともに言葉を交わすこともなかった。


単に、連絡するタイミングが悪かっただけかもしれない。

それでも、これが本当に、母娘の縁が切れた瞬間なのだと、どこかで思ってしまった。


『妊娠の心配なくなるなんて良かったじゃない。子どもなんて、いても邪魔なだけよ』


「……うん。まあ、もし病院から連絡が行っても、詐欺とかじゃないから気にしないでって、それだけ」


『今さらあんたがどうなろうと気にしないわよ。用はそれだけ?』


「そうだね、それだけ」


『あっそ、じゃあね』


通話が切れて、画面が暗くなる。

履歴に残った時間だけが、妙に現実感を持っていた。


ぼんやりとそれを眺めてから、スマホを伏せた。


卵巣に腫瘍が見つかったこと。

今月中に摘出手術を受けること。

入院は短期で済むが、念のため親族の緊急連絡先が必要だということ。


ただ、それだけを伝えるための電話だった。

分かっていたはずだ。

彼女は私の製造元ではあっても、「親」と呼ぶにはどこかしっくりこない存在だと。


それなのに、どうしてこんなにも空っぽな気持ちになるのだろう。



受付のカウンターは、明るすぎるくらいに照明が効いていた。


「では、こちらにご記入お願いしますね」


差し出された書類とボールペンを受け取る。

名前、住所、生年月日。機械的に埋めていく。

その途中で、手が止まった。


――緊急連絡先(ご家族)


紙の上に、空白がひとつ。

少しだけ考えてから、私はペンを動かした。

自分の名前を書いて、携帯番号を添える。


一瞬、看護師がそれに気づいたような気がしたが、何も言われなかった。


「ありがとうございます。では、こちらでお預かりしますね」


にこやかな声だった。

それが、少しだけ遠く感じた。


待合の椅子に腰を下ろす。

隣では年配の女性が、付き添いらしい娘と話していた。


「終わったら一緒に帰ろうね」

「うん、無理しないでね」


小さなやり取りが、やけに耳につく。

私はスマホを取り出して、画面を開く。

通話履歴の一番上に、母の名前が残っている。


少し見つめて、閉じた。



夜中に目が覚めることが、昔はよくあった。

壁の向こうから、知らない男の声が聞こえる。

笑い声と、何かが擦れるような音。


布団をかぶって、息を殺していた。


朝になると、母は何もなかったみたいな顔で台所に立っていた。

「ちゃんと食べなさいよ」と言いながら、トーストを皿に乗せる。


あのとき、何か言えばよかったのかもしれない。

けれど、何を言えばよかったのかは、今でも分からない。



入院初日の夜は、静かだった。


カーテン越しに、誰かの寝息が聞こえる。

遠くで、看護師の足音が一定のリズムで行き来している。


消灯後の病室は、やけに現実味が薄い。

スマホを手に取る。

連絡先を開いて、スクロールする。


名前の並びの中に、母の名前がある。


一度だけタップして、発信画面を開いた。

すぐに戻る。

何も起きない。

それでいいと思った。



緊急連絡先の欄は、最後まで書き換えなかった。


何かあっても、誰にも連絡はいかない。

それで困る人もいない。合理的だとすら思う。

それなのに、胸の奥に、何かが引っかかっている。


うまく言葉にできない、鈍い感覚に天井を見上げる。

白いはずなのに、少しだけ暗く見えた。


「……なんで産んだのかなぁ」


こぼれた声は、小さくて、すぐに消えた。

返事は、どこにもなかった。

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