緊急連絡先
電話は、四分二十七秒で終わった。
『へぇ、そうなの。おめでとう』
半笑いの声は、ひどく酔っているようだった。
昔からずっと、折り合いの悪い母だった。
母でいるより、女でいたい人だということは、よく知っている。思春期の娘がいようがお構いなしに、見知らぬ男を家に引き入れるような人だった。
それに耐えきれなくなって、高校を卒業すると同時に家を出た。
それからは、冠婚葬祭で顔を合わせるくらいで、まともに言葉を交わすこともなかった。
単に、連絡するタイミングが悪かっただけかもしれない。
それでも、これが本当に、母娘の縁が切れた瞬間なのだと、どこかで思ってしまった。
『妊娠の心配なくなるなんて良かったじゃない。子どもなんて、いても邪魔なだけよ』
「……うん。まあ、もし病院から連絡が行っても、詐欺とかじゃないから気にしないでって、それだけ」
『今さらあんたがどうなろうと気にしないわよ。用はそれだけ?』
「そうだね、それだけ」
『あっそ、じゃあね』
通話が切れて、画面が暗くなる。
履歴に残った時間だけが、妙に現実感を持っていた。
ぼんやりとそれを眺めてから、スマホを伏せた。
卵巣に腫瘍が見つかったこと。
今月中に摘出手術を受けること。
入院は短期で済むが、念のため親族の緊急連絡先が必要だということ。
ただ、それだけを伝えるための電話だった。
分かっていたはずだ。
彼女は私の製造元ではあっても、「親」と呼ぶにはどこかしっくりこない存在だと。
それなのに、どうしてこんなにも空っぽな気持ちになるのだろう。
◆
受付のカウンターは、明るすぎるくらいに照明が効いていた。
「では、こちらにご記入お願いしますね」
差し出された書類とボールペンを受け取る。
名前、住所、生年月日。機械的に埋めていく。
その途中で、手が止まった。
――緊急連絡先(ご家族)
紙の上に、空白がひとつ。
少しだけ考えてから、私はペンを動かした。
自分の名前を書いて、携帯番号を添える。
一瞬、看護師がそれに気づいたような気がしたが、何も言われなかった。
「ありがとうございます。では、こちらでお預かりしますね」
にこやかな声だった。
それが、少しだけ遠く感じた。
待合の椅子に腰を下ろす。
隣では年配の女性が、付き添いらしい娘と話していた。
「終わったら一緒に帰ろうね」
「うん、無理しないでね」
小さなやり取りが、やけに耳につく。
私はスマホを取り出して、画面を開く。
通話履歴の一番上に、母の名前が残っている。
少し見つめて、閉じた。
◆
夜中に目が覚めることが、昔はよくあった。
壁の向こうから、知らない男の声が聞こえる。
笑い声と、何かが擦れるような音。
布団をかぶって、息を殺していた。
朝になると、母は何もなかったみたいな顔で台所に立っていた。
「ちゃんと食べなさいよ」と言いながら、トーストを皿に乗せる。
あのとき、何か言えばよかったのかもしれない。
けれど、何を言えばよかったのかは、今でも分からない。
◆
入院初日の夜は、静かだった。
カーテン越しに、誰かの寝息が聞こえる。
遠くで、看護師の足音が一定のリズムで行き来している。
消灯後の病室は、やけに現実味が薄い。
スマホを手に取る。
連絡先を開いて、スクロールする。
名前の並びの中に、母の名前がある。
一度だけタップして、発信画面を開いた。
すぐに戻る。
何も起きない。
それでいいと思った。
◆
緊急連絡先の欄は、最後まで書き換えなかった。
何かあっても、誰にも連絡はいかない。
それで困る人もいない。合理的だとすら思う。
それなのに、胸の奥に、何かが引っかかっている。
うまく言葉にできない、鈍い感覚に天井を見上げる。
白いはずなのに、少しだけ暗く見えた。
「……なんで産んだのかなぁ」
こぼれた声は、小さくて、すぐに消えた。
返事は、どこにもなかった。




