商人夫が限界突破する回
国を壊すのは、
いつも「悪意」ではない。
善意と責任と我慢が、
少しずつ積み重なったとき、
人は限界を越えてしまう。
この話は、
怒鳴らない英雄の話だ。
叫ばず、剣も振るわず、
ただ耐え続けてきた男が、
初めて立ち止まるまでの記録である。
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商人夫が限界突破する回
――まるでダメね
王城・臨時会議室。
机の上には、
帳簿、請求書、航路図、未決裁書類、
そして――胃薬。
鴻池源吉は椅子に深く沈み、
天井を見上げていた。
「……あかん」
「これはほんまに、あかん」
本日の議題。
・地獄の晩餐会ツアー追加公演
・王都と地方の同時開催
・アイドル合戦との合同進行
・予算:未定
・責任者:鴻池源吉
「未定が多すぎるやろ……」
そこへ、
元凶が揃って入ってきた。
アステリア、盛大につまずきながら。
「おはよー!」
「……あ、また書類踏んだ!ごめん!」
ミズハ、両手を広げて。
「源ちゃん!えらい顔しとるたい!」
「元気ば出そ!」
レオニアは腕を組み、淡々と。
「……状況報告を」
三人の視線が、
一斉に源吉に集まる。
その瞬間。
ぷつん
源吉の中で、
確かに何かが切れた。
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彼は、立ち上がった。
ゆっくりと。
異様なほど静かに。
眼鏡を外し、
机の上に置く。
「……よろしい」
アステリアが小声で。
「え、なんか怖くない?」
ミズハは目を輝かせる。
「覚醒たい!」
レオニアは、ほんのわずかに顎を引いた。
⸻
「まずな」
源吉は帳簿を一冊、開いた。
「金がない」
「時間もない」
「人手もない」
次に地図を指で叩く。
「道は狭い」
「街は多い」
「胃は弱い」
最後に、三人を見る。
「で」
「原因は誰や?」
沈黙。
アステリアが、そっと手を挙げる。
「……商人夫?」
「違う」
ミズハが元気よく。
「源ちゃん?」
「それも違う」
レオニアが冷静に。
「……計画の詰めが甘い」
源吉は、深く息を吸った。
そして、静かに言った。
「――全員や」
その声は怒鳴っていなかった。
だからこそ、重かった。
⸻
「奇跡は起きん」
「予算は増えん」
「胃は治らん」
「せやけどな」
彼は、自分の胸を指す。
「それでも国は回っとる」
「誰かが無茶して」
「誰かが止めて」
「誰かがやらかして」
一拍。
「……後始末するやつが、おるからや」
アステリアが、申し訳なさそうに。
「……商人夫、ごめんね」
源吉は即答した。
「謝るな」
ミズハが言う。
「ありがとうたい?」
「言うな」
レオニアが、まっすぐに問う。
「……鴻池」
「限界か?」
源吉は、はっきり答えた。
「限界や」
沈黙。
「せやけど」
彼は、かすかに笑った。
「限界超えたらな」
「次は慣れや」
⸻
その瞬間。
レオニアが、静かに告げた。
「……まるでダメね」
空気が凍る。
源吉の肩が、ぴくりと動いた。
「王女」
「今、なんて?」
レオニアは、視線を逸らさない。
「自分を壊して回す国など」
「長くはもたない」
一歩、近づく。
「あなたが倒れたら」
「次は、国が倒れる」
沈黙。
源吉は、しばらく何も言わなかった。
やがて、眼鏡をかけ直す。
「……そうか」
小さく息を吐いて、言った。
「ワイはな」
「耐えるのが仕事やと思っとった」
レオニアは即答する。
「違う」
「あなたは、止まる権利を持つ側だ」
ミズハが頷く。
「源ちゃんが止まらんと、みんな止まれんたい!」
アステリアが、真剣な顔で言う。
「商人夫」
「今度は私が止める番、だよね?」
源吉は、少しだけ笑った。
「……せやな」
机の上の胃薬を、引き寄せる。
「ほな今日は」
「限界手前で撤退や」
誰も反対しなかった。
⸻
その日、
王城で初めて記録された。
鴻池源吉、
自主的に業務を中断。
国、特に問題なく回る。
そして備考欄に、
レオニアの筆で一言だけ書き添えられていた。
「まるでダメね――
だが、必要不可欠」
商人夫は、
今日も生き延びた。
「まるでダメね」
その一言は、
叱責でも侮辱でもなかった。
それは、
壊れかけた者を止めるための言葉だった。
強い国とは、
倒れない国ではない。
倒れそうな者を、
ちゃんと止められる国だ。
この日、
商人夫は限界を越えなかった。
それだけで、
この国は少し長生きした。
そして今日もまた、
帳簿は積まれ、
胃薬は補充され、
国は回っている。
完璧じゃない。
だが、見捨てない。
それが、
この国のやり方だ。




