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矢野未可子の顔は黒く塗りつぶすしかない  作者: さいだー
仮面の綻び

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仮面の綻び5

 職員用トイレに入って鏡をのぞき込んだ弘海は思わず苦笑いをした。


 血はもう止まっているようだったけど、くだらないお笑い番組で見たような、血のりが顔の下半分にべったりと張り付いていた。


 蛇口を捻って血のりを洗い流していると、誰かが入ってきた。


 そちらを確認することはできないが、緊急事態ということで職員用トイレを使用していることは許してもらおうと考えていると、トイレに入ってきた人物は弘海の背後で足を停めた。


「江間、矢野のためにも未希のことを探るのはやめておけ。

 きっとろくなことにならない。過去に葬られたことを掘り起こすこともない。ミイラの墓であるピラミッドを掘り起こして暴こうとするようなものだ」


 鏡越しに姿を確認すると、松川だった。


 社会科教師らしいことを言っているが、何が言いたいのかは弘海には半分も伝わっていない。

 わかっていてもおとなしく「はい」と返事をする弘海ではないが……



 弘海は洗い流した跡をポケットに入っているハンカチをつかって拭こうとしたが、それは辞めた。


 未可子の感情が染み付いているものを汚してしまいそうな気がしたからだ。


 代わりにYシャツの袖で拭うと、白い布地がピンク色に染まった。


 弘海は振り返る。


 松川の様子を注意深く観察する。


 そして、すぐに焦りの色を感じ取る。


 いつもはキチッと、床に向かって真っ直ぐに伸びているネクタイが曲がっていたからだ。


 几帳面で、チョークの配置から黒板消しの置き位置まで気にするあの松川が綻びを見せたのだ。



 弘海は確信する。この件にはやはりなにか裏があると。


「……調べるとなにか都合の悪いことがあるんですか」


「……」


 松川は答えなかった。


 でも、弘海は些細な松川の表情の変化は見逃さない。

 ほんの少し右の頬がピクリと動き、左の瞼が痙攣している。


 そんな変化を見て弘海は嬉しくなってしまって思わず質問を続ける。



「松川先生にも影響するようなことなんですか?」


 きっと弘海は満面の笑みだ。それを確認するすべはないが、顔が引きつるのを止めることができないことは自覚していた。


 すると、松川は弘海のエリを左手でつかみ、そのまま壁際まで引きずっていく。

 

 図星なんだ。そう思うと怒りの矛先が自分に向いていることすらうれしく思えた。


 大の大人、教職者が生徒に大してここまで怒りをあらわにする場面なんて、きっとこの先見る機会はない。


 少しも見逃さない覚悟で、弘海は松川を観察し続けた。



「なんだその顔は!」


 松川は怒りで自分が何をしようとしているかきっと理解していない。  


 右の拳を握り込んで、振り上げた。


 それでも弘海は目をそらさない。


 どんな表情で自分を殴るのかと、未可子の表情の崩壊を目撃した次くらいにワクワクして、観察を続けた。


 でも、その拳が振り降ろされることはなかった。


 その代わりに松川は握り込んだ拳の力を抜き、右手を重力に任せてぶらりとさげた。


 それは、事実上の降伏宣言だった。


 松川は弘海から視線すらそらし、下唇を噛んだ。 

 その表情からは寂寥感のようなものを感じた。

 ゾクゾクした。


 思いがけない収穫に、弘海は嬉しくなってしまってさらに質問を被せる。


「ミキさんは松川先生にとって、どのような存在でしたか?」


 松川は何も答えなかった。


 左手で押さえつけていたエリすらも放し、しまいにはそのままフラフラとした足取りでトイレから出ていってしまった。


 たくさんの栄養分を摂取はできたけど、少しの消化不良感を覚えつつも、満足はすることができた弘海は、この件に深く関わることを決意した。


 未可子や松川だけじゃない。

 きっと、この件に関わってさえいれば、自らを満足させてくれる観察対象が勝手にやってきてくれる。


 そう考えるだけで、心の奥底から湧き出るワクワクをおさえることができなかった。


 弘海はカバンに入っていふ私服に慌てて着替えると、校則違反なんて関係ないと廊下へ飛び出した。



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