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第5話 希望

この作品は、映像化を想像しながら書きました。

読んだ時にお好きな俳優さんや声優さんを当てて、読書をお楽しみください。

よろしければ、誰をイメージしながら読んだのかコメント欄に書いてくださると、きっと楽しいコメント欄になると思います。

 カウンター席が1つしかない小さな店。客が来れば必然的にその客の貸し切りとなる。この店の主は目の前に座る客にメニュー表を渡した。


「こちらがメニューになります」


 生気を失い、目は涙で腫れ、何かに怯えているようにおどおどとした客に、茶色い表紙の二つ折りにされたメニューをそっと差し出す。店主は客を怖がらせないようできる限りゆっくりと渡したが、それでも客はびくりと体を後ろに下げ、顔を引きつらせてしまった。


「申し訳ありません。怖がらせるつもりは」

「あ、ご、ごめんなさい。違うんです。あの・・・・・・」

「先ほども申しましたように、ここにはお客様以外誰も来ません。大丈夫ですよ」


 店主は努めて優しく、まずは客に落ち着いてもらえるようにゆっくりと声を掛ける。

 この客が店にやって来たのは今から30分ほど前のこと。店主がカップを磨いていると、何かから逃げるように1人の女性が飛び込んで来た。客は扉を閉めるとその場に座り込み、物陰に隠れながら外の様子を窺う。その様子に、事情など知らない状態でもただならぬ様子なのはわかった。店主は女性のそばにしゃがみ小さく声を掛けてみた。


「どうかなさいましたか」


 その時の女性の驚き様は、店主まで驚いて腰を抜かしてしまったほどだ。どうやら店主が近づいていたのも気がつかなかったらしい。女性はまるでナイフか何かで刺されたかのような悲鳴を上げ、数歩ほど横へ飛び退いた。その顔は恐怖の色そのものだった。


「も、申し訳ありません。怖がらせるつもりはなかったのですが。なにか、その・・・・・・追われているのですか」

「え、あ、あの、その・・・・・・」


 女性はもうボロボロと涙を流しながら、言葉にならない声を呟き続ける。店主はふぅと息を吐いて、まずは自分の心臓を鎮めることにした。


「ここは私のお店です。もしお客様に何かしようとする人が来ても、入店拒否いたします。ご安心ください。良ければ何か一杯飲んで行かれませんか? きっと緊張も(ほぐ)れますよ」


 まだ警戒を解かない女性に安心してもらおうと、店主はゆっくりと動いてOPENの看板をしまい、扉と窓のカーテンを閉めて、それから裏へ行き清潔なタオルを持って女性の元へ戻ってきた。


「さぁ、こちらをお使いください。遠慮は要りません。雨の日などにお客様にお渡ししているタオルですから」


 女性は何度か店主の顔とタオルを交互に見やってから震える手でタオルを受け取ると、やっと緊張の糸が切れたのか、顔をタオルに(うず)めて泣き出した。

 まるで小さな子供のように泣く女性が落ち着くまでたっぷり30分ほど掛かり、今ようやく呼吸も落ち着いて椅子に座ったというわけだ。


「本当にごめんなさい。お店だって気づいていなくて。その・・・・・・気がついたら入ってて」

「大丈夫ですよ。それだけ恐ろしい何かから逃げるのに必死だったのでしょう。それに、うちを逃げ場に選んでいただいたのも何かのご縁です」

「そう、ですね。この道はいつも通るけど、今まで全然気づきませんでした。あ、すみません・・・・・・」

「いいんですよ。みなさんそう仰います。見ての通り小さなお店ですから。でも、お陰でこうしてお客様を匿うのにうってつけです」

「え・・・・・・ふふ。そうですね。本当に助かりました。有難うございます」


 改めて客としてカウンターに座った女性は、初めて笑顔を見せていた。店主からメニュー表を受け取った顔はどこか嬉しそうだ。

 客が店に飛び込んで来た時、街明かりで夜は照らされ、家路についているのであろう人が大勢歩いていた。その中にこの客を追う人が居たのだろうか。

 おっといけない。

 店主はじっと客を見つめていたことに気づいて目を逸らした。余計な勘ぐりや詮索はコーヒーを美味しく作れなくしてしまうのだ。どうやら客も注文が決まったらしい。


「この、『新天地』というのはどんなコーヒーですか?」

「はい。そちらはスッキリとした飲み心地がありながら苦みもしっかりと味わえる、ブラックがお勧めのコーヒーになります」

「苦いのかぁ」

「もしよろしければデザートセットなどいかがでしょう。本日のデザートはチョコレートケーキになります」

「あ、チョコケーキ大好きなんです! それでお願いします」

「かしこまりました」


 店主はゆっくりとお辞儀をして、メニュー表を客から受け取る。裏へ行って客の選んだコーヒー豆を手に取るとしっくりと来た。どうやら今日の客にぴったりの豆のようだ。

 しっかりと温度と湿度が管理された特別室の棚に、ずらりと並べられた小さな瓶。その中に詰まっているのは店主が心を込めて焙煎した豆たち。

 恐怖に満たされた心を解すには、やはりこの豆がいいだろう。店主は強く頷いてカウンターへと戻った。

 豆を客の待つカウンターに持っていき、客の目の前で優しく粉にしていく。豆がガリガリと音を立てて粉になると、ふわりと香りも広がっていく。この優しい香りが、店主は大好きなのだ。

 挽き終わったら、ドリッパーとみーの(まじな)いの掛かったカップを使ってゆっくりとコーヒーを作る。淹れたてのコーヒーの香りが店いっぱいに広がって、それに気づいた客が目を閉じて深呼吸をする。

 みーは猫の姿でずっと静かにしている。彼女のために作った棚の上がお気に入りの場所で、客がいる間はそうして過ごす。みーは魔女なので、姿が変幻自在なのだ。きっと客はみーの存在にも気づいていないだろう。

 コーヒーができるのを待つ間にケーキの用意をする。このチョコケーキは店主の自信作のひとつ。少し固めにホイップしたチョコクリームとふわふわのチョコ味のシフォンスポンジの層を2段重ねて冷蔵庫で冷やしておく。しっかり冷えたら冷蔵庫から取り出して、アーモンドを砕いて混ぜたモカソースをかけて、粉砂糖を軽く振ったら完成だ。ココアパウダーじゃないのがポイント。どうやらコーヒーも完成したらしい。


「お待たせいたしました。デザートセットの『新天地』になります」

「すごい! とっても美味しそう。それにお洒落」

「私の自信作でございます」

「これ、マスターの手作りなんですか?」

「はい。試作中は苦労いたしました」

「すごいなぁ。コーヒーもあんな風に目の前で作ってもらうなんて初めてで。待ってる間も美味しいお店なんですね」

「光栄でございます。お客様にホッと一息ついてもらい、美味しいコーヒーを堪能していただくのは私の喜びでもあります」

「かっこいいですね。私もそういう信念みたいなのがあればなぁ」

「信念なんて大仰なものではありませんよ。好きだから、納得いくまで追い求めてしまう。それだけです」

「・・・・・・」


 客が急に黙ってしまった。店主はなにか変なことを言ってしまったのだろうかと少し不安に思いつつも、言葉を続けてみます。


「好きなこと、やりたいことを気兼ねなくできるというのは幸せなことです。さ、どうぞお召し上がりください。クリームがでろでろにならないうちに」

「・・・・・・あ、そうですね。すみません・・・・・・」

「なにか失礼なことを言ってしまったでしょうか」

「いいえ! 違うんです。ケーキ頂きますね!」


 客が一口分のケーキを口に入れると、目を見開いて、そしてすぐにとびきりの笑顔になった。


「美味しいぃ! こんなに美味しいチョコケーキ初めてです!」

「お口に合ってなによりです」

「クリームも甘さがくどくないし、スポンジもふわふわで口の中で溶けちゃうし、このナッツのソースもぴったり!」

「どれも何度も試作を重ねて生み出した黄金比率でお作りしたオリジナルになります。いやぁ、喜んでいただけると苦労が報われますね」

「こんなに美味しいなら、もっとお店を大きくしたらいいのに」

「そうすると、お客様おひとりおひとりに向き合えなくなってしまいますから。やはりコーヒーは気兼ねなく飲めないと」

「お店も含めて、美味しいコーヒーってわけですね」

「恐れ入ります」


 客はあっという間にケーキを食べ終わり、「美味しかった。何個でも食べられそう」と満足そうに言った。そしてちょうど飲み頃に冷めたコーヒーを一口飲む。


「あれ、ブラックなのに苦くない。いや、苦いは苦いんだけど・・・・・・」

「チョコレートケーキのお陰でコーヒーの苦みが中和されて飲みやすくなるんです。もちろん他の甘い物でも構いませんが、このコーヒーにはこのチョコレートケーキが1番です」


 客が一口、また一口とコーヒーを飲む。


「うーん、美味しい。飲むほどに苦みが強くなるのに、口の中に残らないって不思議」

「お口に合いましたでしょうか」

「はい!」

「お客様の特別な一杯をお楽しみください」


 また一口飲もうとした客の姿が瞬きの間に消えてしまった。カップは何事も無かったかのようにソーサーの上に静かに置かれている。


「どんなお顔で戻られるか、楽しみですね。みーさん」


 みーは尻尾を振って返事をした。






 コーヒーを飲もうとした客は会社の中に居た。手にあったはずのカップもなくなって、パソコンの画面を見ている。


「佐々木ー。例の資料できてるかー」


 客の左側から男の声が聞こえる。呼ばれた客は慌てて返事をした。


「はい! もう5分ほどでできます!」

「おー。相変わらず仕事が早いな、助かるよ」

「恐縮です・・・・・・」


 この男は佐々木の上司であり部長だ。最近薄くなってきた頭が気になるのか、髪の毛を触りながらニヤニヤとした顔を佐々木に向ける。佐々木は鳥肌を全身に立たせながら目を逸らした。

 なんで? なんで部長がここに居るの? 先月辞めたはずなのに。私のせいで。

 周りがなにやらひそひそと話をしている。佐々木を見ながら。部長との関係のことをあれこれと言っているのだろう。根も葉も無いのに、噂だけが一人歩きして、佐々木と部長が不倫しているとかなんとか話している。

 いたたまれなくなった佐々木はトイレに行く振りをして席を立った。作った資料は部長のパソコンに送信したし、なによりゆっくり気持ちを落ち着けたかったのだ。

 部長は先月、佐々木へのセクハラや不倫の強要が会社に発覚して異動処分になった。もちろん会社に訴えたのは佐々木自身。日頃の証拠も持って訴えたのだ。部長は異動せず自主退職した。佐々木のことを影で噂していた人たちもそれを知って静かになった。やっと平和になったと思ったのに、そこから佐々木の地獄が始まってしまった。

 部長が辞めた次の日から、誰かにつけられている気がするようになった。佐々木も最初は気のせいだと思ったし、会社に告発したばっかりで気が立っているんだろうとしか思わなかった。

 けれど日に日に誰かの視線は強くなり、どうやら勘違いじゃないと気がついた時には遅かった。佐々木の跡をつけていたのが部長だとわかった時には自宅まで知られてしまっていたのだ。

 佐々木は恐怖心を払拭したくて警察にも相談した。しかし巡回を強化すると言われただけでそれ以上のことはできないと追い返されてしまった。絶望だった。「君がそういう思わせぶりなことしたんじゃないの」と、歳のいった男性警官に言われる始末。若い女性警官がたしなめていたけど、ふつふつと怒りが湧く。どうして、私が、こんな目に遭わなきゃいけないの?

 頼れる同僚や友人も近くに居なかった佐々木は、ほとぼりが冷めるまで会社を休むしかないと思った。会社にそう相談したら、ちょうど人手が足りない支社があるから、迅速にそちらに異動できるようにすると言ってくれた。警察の時みたいに何か言われると思ったがそんなことはなく、その日の夕方には異動が決まった。異例の早さだ。社宅も用意してくれるらしい。


「引っ越しとか大変だと思うけど、有休使ってゆっくりやって大丈夫だからね」


 人事課の課長はそう言いながら甘いコーヒーを佐々木に渡した。最初に佐々木の訴えを真剣に聞いてくれたのもこの人だった。同性同士というのもあって、それ以来なにかと気に掛けてくれている。


「ごめんなさいね。まさかこんなことになるなんて。向こうでもなにかあったらいつでも連絡してね」


 そして課長は仕事に戻って行った。安全を考えて、持ち帰れないものは会社から異動先の支社に郵送する手はずまで課長が整えてくれたお陰で、佐々木は少ない私物をさっと片付けて帰ることができた。元々陰口を言っていた人たちにこれと言って思い入れも無く、軽く挨拶だけして会社を後にする。

 駅に向かって歩いていると、また誰かにつけられている感じがした。佐々木が走ると相手も走る。そしてどんどん近づいてくる。人混みで上手く走れない。とうとう腕を掴まれ、路地に連れ込まれた。


「どうして逃げるんだ? 僕のこと好きなんだろ?」


 部長の顔が目の前にあった。佐々木は恐怖で声を出せずにいる。道行く人はそんなふたりにはお構いなしに通り過ぎていく。


「君のために離婚もしてきたよ。これで君の望み通りだろ?」


 どんどん鼻息を荒くする男の顔。血走ったその目にはもはや誰も映っていない。


「迎えに来たんだ。これから引っ越しなんだろ? 手伝うよ」


 その言葉を聞いた瞬間、佐々木の脳が一気に意識を取り戻した。部長を思いっきり突き飛ばす。ろくなものを食べてなかったのか、ただでさえ痩せていた部長はさらにひょろひょろな見た目になっていて、容易く振り払うことができた。


「なんでそれを知ってるんですか」


 震える声で聞く。なんとなくわかる気がして、わかりたくない。


「何言ってるんだ。君が本橋(もとはし)課長に頼んだんだろ。僕に伝えてほしいって」


 本橋課長。佐々木がずっと相談していた人事課の課長の名前。佐々木の情報を流していたのは、彼女だったのだ。どうして、どうして? 答えの出ない恐怖で体も頭も痺れていく。考えろ、考えろ。でないと取り返しのつかないことになる。

 また近づいてきた部長の側頭部に持っていたカバンをぶつけて、部長が倒れた隙に表通りに駆け込んだ。涙も出ない。走りながら混乱する頭で必死に考える。何か、何か見落としている。思い出せ。

 本橋課長は言っていた。元々部長は素行が悪く、他のところからも苦情が来ていて、内部調査を始めたところだったと。取引先からのクレームも多くて対応に困っていたと。


「だから、ちょうどよかったわ」


 ちょうどよかった。彼女は確かにそう言った。その時はこれでしっかりと部長を処分できるという意味だと思った。でもそうじゃないとしたら?


――(てい)よく私に問題人物を押しつけられるという意味だとしたら。部長の異動処分の後、「みんなの目もあるし、仕事を辞めれば貴方と付き合えるのにと彼女が言ってた」と課長が言っていたとしたら。「離婚すれば気兼ねなく付き合えると言っていた」と部長に連絡していたとしたら。


「これでやっと片付くわね。これだから若いのは困るのよ」


 今日の帰り、たまたま喫煙所の横を通った時に聞こえてきた課長の言葉。佐々木の脳はその時、その言葉をスルーしていた。全部、全部、全部。全部嘘だった。佐々木は捨て駒として使われて、あとはどうなろうと構わないと思われていたのだ。警察も、会社も、自分を守ってくれる場所は無い。このままだと本当に死ぬかもしれない。

 後ろから佐々木を追いかける足音が聞こえる。街の音や人々の声の方が大きいはずなのに、佐々木にははっきりと部長が走ってくる音が聞こえてくる。もう限界だ。次に捕まったら殺されてしまう。

 そうして飛び込んだのがあの喫茶店だった。佐々木と店主が話している。


『好きだから、納得いくまで追い求めてしまう。それだけです』


 佐々木はその言葉を聞いて部長のことを考えていた。好きだから、相手のことを、相手の気持ちを考えずに追うのだろうか。一度だって思わせぶりな態度は取っていない。それなのに、こちらの方が悪いのだろうか。


『好きなこと、やりたいことを気兼ねなくできるというのは幸せなことです』


 店主はそう言った。好きなこと、やりたいこと。自分にそんなものあるのだろうか。部長に追い回され、警察や課長に傷つけられ、このままだと仕事どころか命までなくしそうな自分に、そんなものが残っているのだろうか。


「仕事をなくす・・・・・・」


 ふいに言葉が佐々木の口から漏れた。そうか、このままだと異動先にも行けない。辞めるしかない。部長の居ない所まで、逃げるしかない。そのことを佐々木は、『嫌だと思っていない』。

 そうだ、むしろそんな会社に居たいだろうか。社員を守るどころかトカゲの尻尾のように切る会社。平気で裏切る上司。そんなところに居たくない。居なくていい。これだって立派な『やりたいこと』だ。






 使ったコーヒーフィルターとドリッパーを店主が片付けていると、佐々木が席に戻ってきた。何かを決意した顔をしている。


「コーヒーはお気に召しましたか?」

「あれ?」


 佐々木は驚いたように店の中を見回して固まってしまった。いつものように、手元のコーヒーカップは空になっている。


「ブラックも気に入っていただけたようでなによりです」


 手元のカップが空になっていることに気がついた佐々木が不思議そうに首をかしげる。しかしなにか納得したようにカップをソーサーに置くと、大きく息を吐いた。


「美味しかったです。なんだか不思議な夢を見たみたいな気分」

「みなさんそう仰いますね」

「これがマスターのコーヒーなんですね。リラックス効果抜群」

「有難うございます。お顔もスッキリとしたようですし、元気が出て良かった」

「お騒がせしてすみませんでした。実は部長・・・・・・元部長にずっとストーカーされてて。それを手引きしてたのが相談してた会社の人事の人かもってわかったらパニックになってしまって。ここに逃げ込んだときも、その元部長に捕まって逃げてきたところだったんです」

「それであんなに取り乱していたんですね」

「ほんとにすみません」

「お客様が謝ることではありませんよ。むしろお客様は怖い思いをされたんです。取り乱すのも頷けます」


 佐々木はまた涙ぐんで、すでにぐしょぐしょになっているタオルを目に当てた。化粧も取れてしまっている。


「すぐに新しいタオルを持ってきますね」

「あ、いえ、大丈夫です。もう行きます」

「ですが、まだその元部長とやらが」

「大丈夫です。私、足には自信があるんで。今日は家に帰らないで、このまま弟が住んでるとこに避難しようと思います」

「弟さんがいらっしゃるんですね」

「はい。あんまり仲良くないから連絡してなかったんですけど・・・・・・ここから電車で1時間しないくらいの場所に住んでるので、移動しながら事情を話してみます」

「それがいいですね。しかしその後はどうなさるんですか?」

「そうですね・・・・・・会社は辞めて、遠くに引っ越します。住んでみたい場所があって」

「いいですね。やりたいことをしていれば、きっと心の傷も癒やされます」

「そう、ですよね・・・・・・ごちそうさまでした。お代、ここに置いておきますね」


 佐々木が店を出ようと扉に手を掛けた時、みーが佐々木の足元でひと鳴きした。


「わ! びっくりした!」

「申し訳ありません。うちのみーさんです」

「あ、猫居たんだ。気づかなかった・・・・・・」

「猫は苦手ですか?」

「実は、ちょっと。でもこの子はなんだか平気な感じがします。猫っぽくない気がするからかな」


 佐々木がみーの目線に合わせてしゃがむと、みーが佐々木の鼻をひと舐めした。こんなことは初めてだ。


「わぁ、可愛い。ありがと。じゃ、またね」


 佐々木が風のように走って店を出てしばらくしてから、カウンターの席に座った人間の姿のみーに店主は聞いた。


「どんな(まじな)いを掛けたんですか?」

「え?」

「とぼけてもダメです。みーさんがそんなことをするのは長い間一緒に居て初めてですから。きっとなにか魔法を掛けたんでしょう?」

「ふふ。正解」


 みーはニコニコとしてから、ふっと真剣な顔になって佐々木が走り去った方を見つめる。


「彼女が無事に家に着けるように、そのストーカー男から姿を見えなくする(まじな)いをね。効果はそうね、半年くらい?」

「それだけあれば、引っ越しもできますね」

「ストーカーされる方が逃げなきゃいけない。逃げ続けなきゃいけないなんて、おかしな世の中よね」

「まったくです」


 そんな話をしているうちに、佐々木のカップからはコーヒーの苗木が生まれた。みーの探している特別な豆の木ではなかったが、丈夫に育ちそうな苗木だ。店主はその苗木に『希望』と名前を付けた。あの客の未来に明るい期待を込めて。みーからのお小言も無かった。今回はいい名付けができたらしい。

 看板を店の中に仕舞い、苗木が生まれたカップを優しく裏へ運んだら、本日はこれにて閉店。


「次はどんなお客様に特別な一杯を振る舞えるのか、今から楽しみです」

次話 『第6話 夜明けの流星』

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