Ep.8「記憶の嘘」
失われていく記憶の中で、娘が守ろうとしたのは“真実”ではなく“心の安らぎ”――やさしい嘘の物語。
朝の光が、障子の隙間から差し込んでいた。古い家の廊下には、みかんの香りと線香の匂いがほんのり残っている。
梨花は台所で味噌汁を温めながら、奥の部屋を覗いた。布団の上で、母・春江が静かに目を開けている。
「おはよう、お母さん。よく眠れた?」
「ええ、まぁね。……ねぇ梨花、お父さんは?」
梨花は、わずかに手を止めた。それでもすぐに笑顔を作る。
「うん、今日も出張。大阪の方に行ってるよ」
「そうなの。相変わらず忙しい人ねぇ」
春江はそう言って、窓の外を見た。その横顔に、ほんの少し若い日の面影が重なる。
昼下がり、庭で風鈴が鳴っていた。梨花は洗濯物を干しながら、遠くで聞こえる蝉の声を聞いていた。
母は縁側で、昔のアルバムをめくっている。
「ねぇ梨花、これ見てごらん」
春江が指さしたのは、若い父と母が並んだ写真。
「このとき、お父さんが“もうすぐ梨花が生まれる”って言ってたのよ」
「うん、覚えてるよ」
「あなた、まだ生まれてなかったのに」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声の奥に、小さな痛みが混じっていることに、春江は気づかない。
夕方。
春江の部屋に夕陽が差し込む。壁にかけられた父の写真が、オレンジ色に照らされていた。
「ねぇ梨花、お父さん、いつ帰ってくるの?」
梨花は少しだけ迷い、けれどいつも通りに言った。
「来週には帰るって」
「そう。……なら、お花買っておかなくちゃね」
そう言って、春江は小さな笑顔を見せた。その笑顔を見ていると、梨花はもう何も言えなくなった。
夜。
春江は布団の中で、ぽつりと呟いた。
「梨花、あなた、もう無理しないでいいのよ」
梨花は振り向いた。母はまっすぐに彼女を見つめていた。
「お父さん、もういないんでしょう?」
梨花の手が震えた。言葉が出てこない。梨花は唇を噛み、俯いた。
そっと母の手を握ると、その手は驚くほど温かかった。
「ありがとうね、梨花」
「お母さん……ごめんね」
「いいの。ほんとに、ありがとう」
その夜、風鈴の音が遠くで鳴った。梨花は居間の仏壇に向かい、線香を立てた。写真の中の父が、穏やかに笑っている。
「お父さん、明日も出張だって」
誰もいない部屋で、梨花はそっと呟いた。声は震えていたけれど、それは確かに、やさしい嘘だった。
忘れていくことは、悲しみだけじゃない。
そこに残る温もりこそ、やさしい嘘が灯した記憶でした。




