Ep.7「幸福の嘘」
約束の“来年”は、たとえ来なくても、今を照らす光になる。
二人が紡いだ、最期のやさしい嘘。
潮の匂いがする風が、カーテンをふわりと揺らした。
アパートの小さな部屋。ベッドの上で、美沙は目を閉じている。
窓際のテーブルには、薬と紅茶のカップ。隣で本を読んでいた紘が、ページを閉じた。
「起きた?」
「うん……ちょっと夢見てた」
「どんな夢?」
「来年の夏、海に行ってる夢」
「へぇ、もう先取りだな」
美沙は笑い、かすかに咳をした。紘はそっと水を差し出す。
「ねぇ、来年はどこの海に行こうか」
「うーん……沖縄とか?」
「いいね。青い海と白い砂浜」
「私、ワンピース着るの」
「それ似合う」
二人の声が、やさしい午後に溶けていった。
⸻
病院の帰り際、紘は医師に呼び止められた。
「……残念ながら、今月が山場です」
紘は小さくうなずいた。帰り道の海は、どこまでも穏やかだった。
その静けさが、逆に心を締めつける。
夜。
ベッドサイドのランプが、柔らかく部屋を照らしている。
美沙はノートを開いて、何かを書いていた。
「なに書いてるの?」
「“行きたい場所リスト”。北海道、長崎、沖縄……」
「ぜんぶ行こう」
「うん。来年、ね」
「来年」
その言葉を口にするとき、二人とも少しだけ目を伏せた。
⸻数日後。
美沙が小さな声で言った。
「ねぇ紘、もし私がいなくなったら、どうする?」
紘は笑って答えた。
「また会うよ。次の夏に」
「ふふ……そういうの、ずるい」
「嘘つくの、上手になったんだ」
「私もだよ」
二人は見つめ合って笑った。その笑顔が、どんな薬よりも美沙を強くした。
夜、紘は眠る美沙の手を握った。体温は少し冷たくなっていた。時計の針が、静かに日付をまたぐ。外からは波の音が聞こえてくる。
「おやすみ、美沙」
彼女のまつげが微かに震えた気がした。
それが最後だった。
⸻
机の上のノートが、開かれたままになっていた。
1ページ目には、大きな文字でこう書かれていた。
「来年の夏、海に行こう。」
紘はその文字を指でなぞり、静かに微笑んだ。
窓の外には、光る海。その向こうに、彼女の笑顔が見えた気がした。
嘘は悲しみを包むための言葉。
それでも、そこに確かにあった愛だけは、本当だった。




