Ep.5「夢の嘘」
夢を語るためにつく嘘は、誰かを傷つけない。
それは、明日を信じるためのほんの小さな魔法。
古びたアパートの一室に、夜の静けさが落ちていた。
机の上には、開きかけのスケッチブックと、乾いた絵の具。
男は、鉛筆を持ったまま手を止めた。
——締め切りまで、あと一週間。原稿料はわずか。印税なんて夢のまた夢。
「……描けねぇな」
ため息と一緒に、描きかけの絵本を閉じる。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「先生〜、ひさしぶり!」
ドアの向こうに立っていたのは、小学生の少女・さくらだった。
近所に住む彼女は、いつも放課後に遊びに来ては、
「次の絵本できた?」と聞くのが口ぐせだった。
「できてないよ、まだ途中」
「え〜、また? この前もそう言ってたよ」
さくらは頬をふくらませ、机の上のスケッチブックを覗き込む。
「これ、新しいお話?」
「うん。“空を飛ぶネズミ”の話さ」
「わぁ、かわいい!」
男は笑ってうなずいたが、その目には、ほんのわずかに曇りがあった。
——
さくらが帰ったあと、男は机の引き出しを開ける。中には、出版社からの封筒。
「次回作の出版は見送りとさせていただきます」
短い文面が、淡々と現実を告げていた。
でも彼は、その封筒を破り捨てなかった。代わりに、スケッチブックをもう一度開いた。
——夢を信じる子どもに、
“大人の事情”を見せるわけにはいかない。
「……描くか」
夜が深まるほど、筆の動きは軽くなっていった。ページの中で、ネズミが空を飛び始める。
——数日後。
さくらがまた遊びに来た。
「できた? 新しい絵本!」
男は笑顔で、表紙に自分でタイトルを書いた絵本を差し出した。
『そらいろのネズミ』
「世界で一冊しかない、特別版だ」
「わぁ……! すごい! ほんとに本になったの?」
「もちろん。出版社の人も“すごく良かった”って言ってた」
さくらの目が輝いた。
「やっぱり先生はすごいね!」
「ありがとう。次はさくらに出てもらおうかな」
「えっ、ほんとに?」
「うん。次の主人公は、“夢を信じる少女”だ」
さくらは笑いながら、絵本を抱きしめた。
——1年後。
男の部屋には、あの日の絵本が飾られていた。出版は叶わなかったが、机の上には新しいスケッチブックが置かれている。
窓の外では、さくらがランドセルを背負って手を振っていた。
「先生! 私、将来絵本作家になる!」
「おお、それは頼もしいな」
「先生みたいに、夢を叶えるんだ!」
「……うん、きっと叶うよ」
男は小さく笑い、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「嘘じゃなくなる日が、いつか来るさ」
その言葉を残して、また新しいページをめくった。
窓から差し込む光の中で、ネズミが、また空を飛び始めていた。
嘘から生まれた夢が、誰かの未来を照らす。
それが、“やさしい嘘”のいちばん美しい形。




