Ep.1「思いやりの嘘」
別れの痛みを抱えながらも、誰かの笑顔を守るためについた“やさしい嘘”。その想いの行方を描きます。
遼は病院の廊下をゆっくり歩いた。白い床を踏むたび、靴底が静かに鳴る。
今日も、あの人のところへ手紙を届ける日だ。
病室の前に立つと、消毒液の匂いが鼻をかすめる。ノックのあと、かすれた声が返ってきた。
「どうぞ」
ベッドの上の女性は、痩せた頬に微笑みを浮かべた。
「葵、元気にしてる?」
その言葉に、遼は小さくうなずいた。
「はい。今日は、葵から手紙を預かってきました」
封を切る母の手が、わずかに震えていた。文字を追うたび、表情がやわらいでいく。
「……よかった。リハビリ、頑張ってるのね」
窓の外では、まだ雪の名残がきらめいていた。遼はその景色を見つめながら、胸の奥に沈む痛みを押し殺した。
本当は、この世界のどこにも、葵はいない。
それでも、母の笑顔がある限り、この嘘だけは続けようと思った。
手紙を届けるようになって、もうすぐ三か月が経つ。一度きりのつもりだった。
けれど、あの笑顔を見てしまったら、もうやめられなかった。
便箋に文字をつづる夜、遼は何度もペンを止めた。
“葵なら、どう書くだろう”
“どんな言葉で、母を励ますだろう”
彼女の文字を真似て書いているうちに、いつしか自分の言葉がまじりはじめていた。
──お母さんも、ちゃんと食べてる?
──無理しないで、少しでも笑ってね。
書き終えるたび、胸の奥が痛んだ。その痛みこそが、彼の中で葵がまだ“生きている”証のようにも思えた。
ある日、病室を訪ねると、母は眠っていた。細い腕に点滴の管が絡み、呼吸のたびに胸が小さく上下している。
その静けさに、遼は足を止めた。眠っているだけだとわかっていても、声をかけるのが怖かった。
背後で足音がして、白衣の医師が現れた。医師は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「お義母さまの容態、少し……厳しくなってきています」
遼の胸の奥で、何かが静かに崩れた。
「……そうですか」
その一言を出すのに、思いのほか時間がかかった。
医師は、どこか申し訳なさそうに続けた。
「最近は、娘(葵)さんのことをよく話されるんです。“もうすぐ退院して、会えるかもしれない”と……」
その言葉が、痛いほど心に突き刺さった。葵の母が信じているのは、“遼の嘘”だった。
けれど、それがなければ、彼女は生きる希望を失ってしまう。
病室を出たあと、遼は病院の屋上へ向かった。冷たい風が頬をなで、街の灯が遠くで揺れている。
──もう、終わりにしなければいけない。
けれど、心のどこかで思った。もし次の手紙が、彼女の最後の笑顔につながるなら……。
翌日、遼は机に向かって便箋を広げた。窓の外では雨が降っていた。
淡い紙の上に、一文字ずつゆっくりと書く。
──お母さん、もうすぐ桜が咲きます。
──退院したら、一緒に見に行こうね。
──私は大丈夫。だから、お母さんもがんばって。
書き終えた文字が、滲んで見えた。涙か、雨のしずくか、もうわからなかった。
封筒を手に病院へ向かうと、看護師が廊下に立っていた。
「今朝、容態が急変して……」
その先は言葉にならなかった。
病室の扉を開けると、静けさが広がっていた。
母は穏やかな顔で眠っていた。枕元には小さな封筒が置かれている。遼の名前が、震える字で書かれていた。
手が震えた。封を切ると、便箋が一枚。そこには、淡い文字でこう記されていた。
「遼くんへ。
あなたの嘘は、ちゃんと届いていました。
あの子の言葉でなくても、
あなたの心が、ちゃんと伝わってきました。
だから、もう泣かないでね。
いつか三人で、桜を見ましょう。」
涙が止まらなかった。
何度も、何度も読み返しても、文字がにじんで消えた。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしていた。桜が咲くには、あと少し。
遼は母の手を包み、そっと呟いた。
「葵も、あなたも、嘘の中で生きてたんじゃない。ちゃんと、誰かを生かすために……生きてたんだ」
その声は、誰に届くでもなく、ただ白い病室の中で、静かに溶けていった。
嘘には、悲しみを癒す力もあるのかもしれません。読んでくださったあなたの心にも、桜が咲きますように。




