蟲
俺のオフクロは、まあ、まともな女だった。少なくとも、アスファルトの染みになるまでは。
あの日、オフクロは俺を見つけると、何かに怯えるように駆け寄ってきた。唇が震え、必死に何かを伝えようとしていたのを、俺は見逃さなかった。だが、言葉が紡がれる前に、オフクロの全身が大きく痙攣した。まるで、意思のない操り人形のように。頭をグルグルと回し、両手をバタバタと振り回し、小刻みに震えながらじわじわと俺に迫ってきた。瞳孔が黒く開ききった、虚無の目。喉から迸ったのは、もはや、人間の声ではなかった。
「じゅでゅああああ!ユ。ブギギギギギ!おいしいですね?ぬゅうぴ!どおむ?ダ?ニャンチョウッ!ちがうかな?イーボ!ぶぬううう!あ。」
叫び声を上げながら、オフクロは、吸い込まれるようにトラックの前にその身を投げ出した。警察は「精神錯乱」で片付けた。だが俺には分かっていた。オフクロは何者かに殺されたのだ。
俺は錆びついたクーペを飛ばし、オフクロが忌み嫌っていた実家のある北陸の寒村へ向かった。鉛色の空気が肺に重くのしかかる。この村には、全ての答えがある。そんな予感がしていた。村人たちの虚ろな視線を背中に浴びながら、俺は村で最も大きな屋敷へ向かった。屋敷の奥に、そいつはいた。闇に溶け込むような黒い着物を着た、痩せこけた男。
「母親のことか」
男の声は、静かだが、頭に直接響くようだった。
「あの女は、我らの大いなる計画を、我が子に伝えようなどと血迷った」
男の目が、ゆっくりと黒く染まっていく。あの目だ。虚無の目。男は懐から小さなガラス瓶を取り出した。中で、粘液にまみれた白い蟲が、グジュグジュと蠢いている。
「この蟲は、人の脳を揺り籠とし、その意思を喰らう。あの女は、その繋がりからお前を、我が子を奪い返そうとしたのだ」
「てめえが、やったのか」
ナイフを握りしめる俺の声は、自分でも驚くほど乾いていた。男は、そんな俺を見て愉しげに唇を歪める。
「お前は母親から蟲を受け継いだ。お前は生まれながらにして、我らの、同胞だ」
いつの間にか、広間の入り口に村人たちが集まっていた。錆びた鎌や、泥のついた鍬を手に、あの瞳孔の開いた目で俺を見つめている。その瞳には感情がない。ただ、剥き出しの殺意だけがゆらゆらと揺らめいていた。
「さあ、選ぶがいい」
男が静かに言った。
「ここで我らの糧となるか、あるいは」
男はすっと戸口を指さした。
「──ここから逃げるか。我らは慈悲深い。さあ、選べ」
俺は教祖に背を向け、屋敷から走り出した。村人たちが道を開ける。誰も俺を止めない。ただ、あの虚無の目で、俺を見送っているだけだ。気づけば、俺は車を捨て、日本海の荒波が砕け散る断崖に立っていた。眼下では、鉛色の波が絶えず岸壁を削り取っている。
これは、俺の意思なのか。それとも──
俺は、空と海の境界線を見つめながら、ただ一つの決意を固めていた。