壁のスイッチ
「おい、おいって」
「え? どうしました、先輩」
「いや、『どうしました』はこっちの台詞だ。何してんだよ、さっきからあっちをじっと見つめてよ」
「ああ……そんなに見てましたか。いや、あれなんですけど……」
「ん?」
「あれですよ」
「あれって?」
「壁のスイッチですよ」
「壁のスイッチ?」
「ほら、向こうにあるでしょ。あそこですよ、あそこ」
「……あー、あるな。それがどうした?」
「いや、気になりませんか? 押したらどうなるか」
「どうなるって、そりゃ非常用のスイッチだろ。警報装置か、それともどこかに繋がるんじゃないか?」
「いや、火災報知器のスイッチは別にあるでしょ」
「そりゃわかってるけどさ」
「先輩、僕よりここに長くいるんですから、知りませんか? 誰か押したって話とか」
「いや、長いって言ってもなあ……」
「まあ、存在を忘れてたくらいですからね……」
「事件も非常事態もなかったしな。使う機会もなかったんだろ」
「そうですか……でも、気になりませんか?」
「何が?」
「いざってとき、ちゃんと機能するかどうかですよ」
「そりゃ機能するだろ。そういうもんだ」
「そんなのわからないでしょ。誰も押したことなくて存在も忘れてたんですし、点検だってしてないんじゃないですか?」
「まあ、おれが知る限りではないな」
「でしょう? ちょっと押しても……」
「いや、勝手に押すのはまずいだろ。特にうちの職場は」
「まあ、そうですけど……」
「おい、君たち。さっきから何をこそこそ喋っているんだ」
「あ、係長! すみません」
「すみません……あの、あそこの壁のスイッチ、押したらどうなるかご存じですか?」
「おい、聞くのかよ……」
「先輩よりここ長いんですから、きっと知ってるでしょう。ねえ、係長?」
「壁のスイッチって、電気のか?」
「いや、違いますよ。あそこにあるやつです。気になっちゃって、今、その話を先輩としてたんです。何か知りませんか?」
「壁のスイッチ……?」
「いや、見えてるでしょ。老眼なんですか?」
「おい、失礼なこと言うなよ」
「スイッ……チ……?」
「いや、スイッチが何なのかもわからないんですか?」
「はははは! 冗談だよ。あのスイッチか。うん、まったく知らん」
「なんですか、それ……チッ……」
「不貞腐れるなよ。すみません、こいつが」
「いやいや、いいよ。確かに気になってきたな。でもまあ、押しても反応しないかもな。たぶん、電気は通ってないだろう」
「いや、ほらあそこ。スイッチの横の小さいランプ、ぼんやり光ってますよね。たぶん、通電はしてるんじゃないですかね」
「なるほどなあ……」
「おい、君たち、何をしているんだ?」
「あ、所長! これはどうも。ははは、いや、彼らが壁のスイッチを気にしているものでして……」
「言い出したのはこいつですけどね」
「でも、お二人とも気になってるでしょ」
「壁のスイッチ? ああ、あれか」
「さすが所長、ご存じなんですね?」
「いや、知らん」
「なんだよ、またかよ……クソッ……」
「お前、言葉に気をつけろよ……」
「私がここに来たときには、すでにあったと思うが……。あ、そういえばここ、一度改修したか。その前からあったんじゃないか? 見た目も古いしな」
「引継ぎのとき、何のスイッチか説明されませんでした?」
「あったような……なかったような……」
「どっちなんですか。はっきりしてくださいよ」
「お前、恐れ知らずだな」
「まあ、押してみたら、わかるんじゃないか?」
「え、押してもいいんですか?」
「たぶん、大したものじゃないだろう。それより、押したら仕事に戻りなさい。人手が足りてないんだから」
「は、はい! じゃあ……」
彼は唾を飲み、足を震わせながらスイッチへと歩み寄った。そして、上司たちの視線を背に、そっと指を伸ばしてスイッチに触れた。
カチッという音がして――
「……何も起きませんでしたね。ランプが消えただけです」
「ははははは! まあ、そんなもんだろ」
「そうですね、はははは!」
「いやあ、この建物が崩れるかと思いましたよ」
「まったく、そんなことあるわけないだろう。さあ、仕事だ仕事」
「はい、所長。あ、君、さっき頼んだ第四千八十万台の宇宙の膨張率は今、どうなってるんだ?」
「ええと、現在試算中でして……」
「早めに頼むよ。他の宇宙と接触してしまう恐れがあるなら、ポチッと削除しないといけないからな」
「はい、ただちに!」
何かが消えた。ただ、誰もそれを気にしてはいなかった。