次郎
非常灯の赤いランプ。それが何か嫌というか、ただでさえ不気味な廊下を、より一層不気味に惹き立てている様な……そんな気がする。
まったく。だからどうしたというわけでも無いのだが。そもそも、肝試しなんて言う幼稚なことを考え出すあの五郎の脳みそというのは、ほんと、餓鬼だぜ。まったく……俺が教えてやらなかったら、あいつは肝試しを提案したのが太郎だと勘違いしたままだったのだからな。困ったものだ、本当。いや、あいつのことだから肝試しを誰が提案したかなんてこと、片隅でも考えたりしないんだろうな。……ほんとう、呆れるくらい馬鹿なやつだ、あいつが世の中に出たら困ったことになる。…太郎がどう考えているのかは知らんが、呑気に考えていていいことじゃないぞ。俺がしっかりとあいつの馬鹿を治さなくては。いや、治すのではないか。賢くしなきゃあならん!それが我等一家のためになる!
…堅実というか、真面目というか。次郎は融通が利かない性質の兄弟です。そして出ずっぱりだ。誰に頼まれたわけでもないのに、太郎の補佐役、あるいは副委員長、そういう立場を気取りたがる男です。が、長兄をフォローするというよりは、逆に長兄に降りかかる面倒を増やしてしまっている。そもそも、この次郎自身は覚えていないが、肝試しをすることになったのは次郎のせいでもあるのです。…次郎は一ヶ月前に五郎を馬鹿にした。それでムキになった五郎が『肝試し』を提案したのだ。結局、次郎は五郎を沸騰させるのが得意な副委員長でしかない。…そういうわけだから結局、次郎は兄弟のうちでは、五郎の次に煙たがられている男なのです。
さて、さて。そんな次郎が地響きのような、奇妙な声を聞いたのは、彼が校舎に侵入してから五分たった時のこと。
…彼が赤い非常灯のランプに不気味さを感じた直後だ。
「は、何だ。……四郎の声に似ている気もするが……しかし、それにしては気味が悪いような感じだな」
蚊の鳴るような小声で、つぶやく。
………しん………と、壁に紅色の影を与える、非常灯。
紅にうっすらと浮かび上がる、老いたような廊下。
ふと、そこに。
……………………?
「…なんだ…?」
次郎は、…うっすらの紅の、長い廊下。
細まれば細まるほど、深くなっている、真っ赤になっていく、廊下。
その一番細いところに、次郎は、黒くてほとんど見えないのだが……しかし、たしかに、影を見ました。
廊下のもっとも奥深いところで、それが息もせずに、おそらくだが……一本の杖を、地面についたまま。
……こちらに目を……視線を……向けている。向けている?
次郎は首を振ります。首を振ってからもう一度、おそるおそる、細まった深海を眺めてみます。
老人は消えている。紅にぼんやりと照らされている廊下。その奥に佇むのは、まっ赤な深海だけ。
「気のせいか」
よくあることだ、と次郎は気にすることもせず、一度だけ辺りをきょろきょろと見回してから、少し気味の悪い廊下以外何も見えないことを知って、非常灯から背を向けて、そしてまた、しずかに、歩き始めます。
背を向けて、図書室へと繋がる、『目的のブツ』へと繋がる……階段のある方角へと向かうのです。
………こつ……こつ………こつ……
…こつ……こつ……こつ…
こつ………こつ……………こつ………こつ
次郎は慎重に廊下を歩いて行きます。物を語らぬ廊下の影に脅えていたわけではない、薄らな紅に脅えているわけでもない。五郎が自分を脅かすのではないかと思っているから、慎重なのです。自分に恨みを持った五郎がそこら辺に潜んでいて、今にも何らかの方法で自分を驚かそうとしているのではないか。次郎は、そのように考えているから、右足を出しては少し止まり、左足を出してはまた進み。そんな風に慎重に、慎重に……。
「あにき」
突然、声が聞こえました。五郎の声でした。
……耳元で直に聞かせられたような、………五郎の低めな、男らしい声。
次郎は全身を驚かせながら、慌てて周囲を見回しました。ぼんやりと暗い廊下の前後を繰り返し何度も。
(……五郎のやつ、どこに隠れていやがる…?)
見当たらない。五郎の影は次郎の視線に入り込んできません。次郎は警戒しながら一歩一歩を踏み出す。
しかし五郎は姿を現さない。廊下は沈黙したままで次郎に何も物語らない。
…こつ…こつ…
廊下を右に、曲がる。右に曲がったところの直ぐ右側に階段がある。
図書室の『目的のブツ』へと繋がる階段が。
しかし、右折をした瞬間に目の前に現れた細長い一本の廊下。教室に繋がっている渡り廊下。
『非常口』の蛍光が揺らめくだけの向こう側。
また、いた。
老人が。
一本の杖を地面につけたままの老人。次郎はその老人に見られているのだと思った。今度は錯覚じゃない。身が凍る。足を踏み出すべきか踏み出さないべきか、想像が付かない。判断がつかない。
次郎がそんなことを思っている内に、次第に老人は薄まった。真っ黒な影が次第に暗闇に溶け込む。
やがて、『非常口』の明かりだけになった。次郎はしばらく立ち止まっていたが、やがて落ち着き、階段に歩を進めた。
「五郎にしては手の込んだやり口だな…ふん、三郎が協力でもしてるのか?あり得ない話でもない。三郎ならやりかねないな。老人の人形を一ヶ月前からこつこつと作るなど、五郎なら面倒くさがるだろうが三郎なら進んでやるかもしれん。マネキンにカツラと杖を持たせりゃあ、まあ、老人にも見える。ふん、いやらしい奴。たまらなく嫌らしい奴」
愚痴愚痴しながら月明かりの階段を登る。窓から月は見えない。うっすらと差し込んでくる光線だけを頼りに、一段一段を登って行きます。
………こつ……こつ………こつ……
…こつ……こつ……こつ…
こつ………こつ……………こつ………こつ
「あにき」
また、直に聞こえました。五郎の蛮声。
次郎はまた辺りを見回した。しかし何も見当たりません。
いい加減に気味が悪くなってきた次郎は急いで階段を駆け上りました。普段は何の意識もせずに登る階段なのに、今はやけにその階段が長く感じられる。
一段、十段、十五段、二十段、二十五段……三十段……四十段?
おかしいと気がついた時には、すでに手遅れなのだった。
次郎は足元にばかり気をやっていて前方と後方の変化に気が付かなかった。
「何だよ…これ」
次郎は、自分が、階段の中ほどで止まっていることに、気がついた。
次郎の頭から、サーっと、血の気が引いた。
前に踏み出す。踏み出した。…はずなのに、前に踏み出していない。
後ろに下がってみた。…はずなのに、なんで?…後ろに進んでいない。
(動けない…?)
わけがわからないから前、後ろ、何度も繰り返し足を動かしてみるけど、前にも後ろにもいかない。頭では前に進んだと思っているのに、気がつくと自分は階段の中程から動いていない。
ありえないとしか思えないから、もう一度前へ、一段抜かしで飛ぶようにしてみる。
結局、また中程にいた。
次郎はわけがわからなかった。視界には暗闇に包まれてはいるものの、いつもの階段が広がっているだけの話だ。前にも後ろにも進めないってのは…。
次郎の頭で電流が駆け抜けた。何かを気づかせるような電流に、不吉な予感をふと感じる。
「ごろう…?」
静かに、弟の名を呼んだ。返事は無かった。
「ごろう?」
もう一度呼んだ。それでも五郎からの返事はなかった。
いや、あった。
「あにき」
次郎の体が強張った。首一つ動かせない気がした。耳元に、聞こえた。
それは確かに、聞き馴染みのある五郎の声だった。
その声が聞こえてすぐ、次郎はさらに息を呑んだ。
階段の踊り場の壁。そののっぺりとした部分から、真っ赤な、血らしきものが、流れ始めた。
だらだらと血は壁から流れている。まるで壁が出血しているかのようだった。
幾ばくの時間、壁は血をゆっくりと垂れ流していたが、やがてその出血は、一つの形となり始めていた。
(なんだ…?)
それは文字を作り出そうとしているのだと、次郎は気がついた。始めの文字は、
『た』
だった。次郎は眉を潜める。血液は文字を作り続ける。
『す』
まだ、流れる。
『け』
次郎はまたも息を呑む。
『て』
『たすけて』
縦に、『た』『す』『け』『て』の四文字。
次郎は肌寒い風に気がついた。それがどこから吹いてくる風なのかはわからなかった。まだ血液は文字を形作っていった。
『あ』
止まらない。
『に』
まだ止まらない。
『き』
つまり、こういう言葉になった。
『た』『す』『け』『て』『あ』『に』『き』
血で形作られた一文字一文字から、血が垂れ落ちて、さらに次郎を気味悪がらせる。
「…ごろう」
次郎は静かに言葉を発する。前に勇気を出しながら、進む。
「ごろう!」
しかし体は中程から前に進まない。後ろにも進まない。
もはや次郎はこれがイタズラだとは思えなかった。壁から血を溢れ出させて、しかも文字を形作ることを人間が出来るわけがない。手品師でもなければそんなことは出来るはずが…ない。
(どうすればいい)
次郎は、何とか五郎を助け出そうと思った。五郎が助けを求めている。生きているのかもわからないが、しかし五郎は助けを求めている。俺に。
彼がそのようなことを思った瞬間、背後から、一階の方から、音が聞こえた。さらによく耳を澄ませば、それは、次郎が見つめていた方角。つまり、さっき、老人がいた方角。
こつ。こつ。こつ。
杖を突くような音じゃないか、と次郎はただでさえ冷えてしまっている頭から、さらに血が引いていくのがわかった。
『た』『す』『け』『て』『あ』『に』『き』
その七文字が次郎を焦らせている。その次郎に追い討ちをかけるようにして、老人の杖の音は、刻々と次郎に近づいてくる。
こつ。こつ。こつ。
音は大きく響いて来る。定期的に次郎の耳にそれが鳴り響いてくる。このまま中程にいては老人に気がつかれてしまう、と次郎はさらに焦った。老人に自分の姿がばれたら、見られたら。…とんでもないことになる。次郎にはそれが間違いの無いことであることがわかった。
こつ。こつ。こつ。
老人が、近づいた。次郎は音を慎重に聞く。
…こつ。
老人が、止まった。老人の杖の音が、止まった。
老人が見ているような気がした。次郎は、見られているような気がした。
いや、間違いなく、見ている。
次郎は指一本動かすことさえ控えた。音をたてなければ助かるような気がした。
こつ。こつ。こつ。
歩き出した。老人は再び動き出した。どこに、どこに?
(あ)
次郎は老人の杖の音がどんどん近づいて来る、音が巨大に鳴ってくる。それに気がつかざるを得ない。
こつこつこつ。
こつこつこつ。
こつこつこつ。
音がスピードを上げた。老人が、次郎に気がついたかのように。
夜の学校の罠にひっかかった獲物を見つけた老人が、歓喜するかのように。
老人の杖の音が、はやく、すばやく。次郎のいる、階段の中程に近づいてくる。
…こつ。
次郎の、すぐ背後。次郎は恐怖から振り向くことが出来ない。
老人の杖の音が、止まった。
次郎は息を呑むのも忘れる。何が起こるのかわからない。ただ目の前の七文字を眺めるしかない。まるで時が止まってしまったかのように、世界が止まってしまったかのように静まり返っている校舎。老人の杖の音も止んで、兄弟の賑やかだった声々も聞こえず、次郎は彼らの安否をふと気遣う。
すると涙が溢れる。どうしようもない、やりきれない思いが次郎の胸の内で溢れてきた。あの賑やかな声にまた出会いたい。触れ合いたい。
「いやだ」
次郎は思わず口に出した。しかし空しくなるだけだった。校舎の空気は冷たかった。次郎の願いを聞き届けてくれるような暖かさは、まるでないようだった。背後に止まっているであろう老人にも、そういう暖かさは、まるでないようだった。
「クエ」
しわがれた声がそう呻くのを次郎は確かに聞いた。『食え』という意味だと思った。
「いやだ」と、自然に次郎は否定した。そして首で『いやいや』のジェスチャーをする。しかしそのジェンsチャーをしている途中で、次郎の開いている口に何かが無理やり捻じ込まれた。
「うぐぁ」
それはまるで腐っている。腐臭が次郎の口と鼻に思いっきり入り込んでくる。吐き気を催して逃げようと前へ踏み出したが、前へ進んでいない。次郎は絶望するしかない。
「クエ」
粘ついたそれを無理やりに老人は入れようとする。次郎は苦しいばかりだったが、だが、やがて、苦しささえも薄れてきた。最期にいろいろなことを思い出して、涙がいくつも頬を流れた。
全てに再び出会いたい、と、次郎は、思った。
やがて次郎も老人も、校舎の階段から姿を消した。
次郎の目の前にあった、七文字。
『た』『す』『け』『て』『あ』『に』『き』
その文字の初めの四文字に、変化が現れていた。
それは次郎にとっては嬉しい言葉なのかもしれぬ。しかし、やはり、悲しい言葉なのだろう。
『よ』『う』『こ』『そ』『あ』『に』『き』
壁には、そのように書かれてあった。
ちょっと無理やりすぎたかもしれません。




