第29話 消えた
「……ひす、い?」
ぼんやりと薄目を開けた碧は、見慣れた天井を視界に映して呟いた。その声はかすれ、ほとんど音として発音されない。
しかし、碧の声を聞きつけた人物がいた。彼女は碧の部屋に丁度彼の様子を見に来ており、コップ一杯の水をベッドサイドのテーブルに置いたところだった。
「……兄さん、目が覚めたの?」
「未来。俺、どれくらい寝ていた?」
「まだ、翌日の午前中。どれくらいっていう程寝てないよ。でも、起きてよかった」
心配したんだからね。少し涙ぐみ、赤い顔をして未来が言う。少しなじるような口調に、碧は「ごめん、ありがとう」と言うことしか出来ない。
そして、碧は水を一気に飲み干した。それから部屋を見回し、いるはずの少女の名を未来に向かって口にする。
「未来、秘翠は何処にいるんだ? 俺はあいつに……」
碧がそれを口にした瞬間、未来の顔がこわばる。同時に、碧は嫌な予感と共に心がざわつくのを感じた。冷汗が瞬時にこめかみを伝い、動悸が激しくなる。
「――った」
「は?」
聞き取れず、碧はもう一度言うよう未来に催促する。すると未来は、パッと目を見開く。そして一気に目を潤ませると、ぎょっとする碧にしがみついた。
「ちょ、未来! 傷に障る」
「兄さん、どうしよう!? 秘翠さん、出て行っちゃった!」
「出て行った!? どうして……」
呆然と呟く碧に、未来は彼が目覚める前の出来事を話してくれた。
「兄さんが秘翠さんに連れて帰って来てもらった後、お父さんがここまで連れてきて、お母さんとあたしと秘翠さんで傷の手当てをしたの。その後も、連れて来られた直後も、ずっと秘翠さんは兄さんの傍にいてくれた。ずっと、兄さんの傍にいて、泣きながら見守ってくれてたの。あたし、声をかけることも出来なかった」
「……」
未来は目を伏せ、声を震わせながら話す。
碧は彼女の話を聞きながら、逸る気持ちを抑えるのに必死だった。抑えなければ、今にも叫んで走り出してしまいそうだったから。
「その後、あたしたちは居間に戻った。兄さんのことは秘翠さんに任せようって話ながら。そうしたら真夜中にね、あたしの部屋の隣、兄さんの部屋から物音がしたの」
敵襲かと危ぶんだ未来が碧の部屋を覗くと、窓が大きく開いてカーテンが夜風に遊ばれていた。そして、そこにいるはずの秘翠の姿が無かったのだと言う。
未来の話を聞きながら、碧は自分の夢の中の出来事を思い出していた。暗闇の中で降り続ける雨は、やはり秘翠の涙なのだと実感する。同時に、胸の奥がキリキリと痛んだ。
(あんなに泣いて、傍にいてくれて。なのに、今何処にいるんだ)
碧はベッドから上半身を起こそうとして、体に走る痛みに顔を歪ませる。
「痛っ」
「動いたら駄目だよ、兄さん。気付いていないかもしれないけど、全身傷だらけで出血多量だったんだから! 今動いたら、もっと無茶するってお母さんもお父さんも言っていた」
「ありがとな、未来。でも、行くよ。そうしないと、後悔する」
今にも泣きそうな未来の頭を撫で、碧は無理をして微笑んだ。本当は体に痛みがあるが、それ以上に秘翠への想いが強い。痛みを癒すのは、秘翠を取り戻してからだ。
「……はぁ」
碧の揺るがない瞳と対峙し、先に折れたのは未来だった。大きなため息をつき、碧が上半身を起こすのを手伝ってくれる。
「助かる、未来」
「お父さんがね、言っていたの。『碧は、幾ら止めた所で聞きはしないだろう。行きたいと言うなら行かせてやれ』って」
「父さんが……」
「その代わり、絶対に秘翠さんと一緒に戻って来てよ? まだ、秘翠さんとショッピングに行くっている約束果たせてないんだからね」
「わかったよ、未来」
消毒薬を塗られ、赤く染まった包帯を巻き直される。碧はようやく小さく微笑むと、ベッドの傍に立てかけられていた太刀を手に取った。すると、体に力が湧いて来る気がする。
「行ってくる。未来、父さんと母さんを頼むな」
「うん、任せて。いってらっしゃい」
「ああ」
深く頷くと、碧は寝間着代わりのティーシャツとジャージのズボンを着替える。未来に手伝ってもらい、紺のパーカーと黒のチノパンを選んだ。冬の寒風の中だが、どうせ秘翠を探し回って汗をかく。
「じゃあな」
「うん、早く帰って来てね。……秘翠さんと一緒に」
「勿論だ」
未来に見送られ、碧は思いつく限りの場所をしらみつぶしに探そう、と決意して駆け出した。




