復員士官の夢枕に現れた英霊達
日本海の大海原を航行する病院船の寝台に、私こと周防大尉は傷付いた身体を横たえながら静かに天井を見つめていた。
より本格的な治療は佐世保の海軍病院で行なわれるとの事だが、あのロシア帝国を向こうに回した今回の戦争が既に講話の段階に差し掛かっている事を考えると、そう回復を焦らなくても良いのかも知れない。
いずれにせよ、こうして清潔な寝台の上で穏やかに静養していると、旅順や奉天での凄絶な戦闘が何もかも夢だったかのように錯覚してしまう。
だが、全ては紛う事なき現実だったのだ。
水捌けの悪い塹壕に身を潜める時の息の詰まるような感覚に、銃声と爆発音の鳴り響く熾烈な白兵戦。
そして獰猛なロシア兵との死闘によって、傷付き倒れていった同胞達…
ある者はロシア兵の操るマキシム機関銃の凶弾に倒れ、またある者は塹壕に投げ込まれた手榴弾によって命を落としていった。
そうして戦場の徒花として散っていった部下や戦友達に比べれば、突撃時の銃創だけで済んだ私は幸運な方なのだろう。
だが死んでいった彼等の事を思うと、私は素直に喜ぶ事が出来なかったのだ。
郷里の親兄弟と再会する事への渇望感と、死んでいった人達への後ろめたさ。
寝台に横たわりながら天井を見つめる私の脳裏には、この二つの思考が入れ代わり立ち代わり浮かんでくるのだった。
そうして答えの出ない思考の袋小路に迷い込みながら、満足に熟睡出来ない眠りに落ちていく。
病院船に乗船してからの私の夜の過ごし方は、大体そんな具合だった。
だが、この日は少しだけ様子が違っていた。
「むっ…!?」
寝台を取り囲む異様な気配に飛び起きようとしたが、全く身体に力が入らない。
まるで自分の身体が自分の物でなくなってしまったかのようだった。
「これはまさか…金縛り…」
何とかして視線だけを動かした私は、次の瞬間には愕然と息を呑んでしまった。
異様な気配の張本人達と、目が合ってしまったからだ。
「和歌浦に月石…それに蒲生…」
生気のない青白い顔をした、日本兵の軍装に身を固めた男達。
それは私の目の前で散っていった部下達に他ならなかった。
旅順や奉天の戦場で無念の最期を遂げた彼等は、亡霊と化して祟ってきたのだろうか。
「うっ…!」
そして次の瞬間、彼等は三十年式歩兵銃に弾丸を込めて一斉に構えたのだ。
「そうか、一人生き残った私の事が許せないのだな…君達に撃たれるなら、私もそれで本望だ…」
だが、予測していた結末は遂に訪れなかった。
青白い顔をした日本兵達は、統制された動きで私に背を向けると、ある一点を目掛けて三十年式歩兵銃を一斉射撃したのだ。
「なっ!?」
耳に馴染んだ歩兵銃の銃声の後に聞こえてきたのは、何とロシア語の断末魔だった。
目を凝らして見てみれば、これまた青白い顔をしたロシア兵の一団が身体をくの字に曲げて吹き飛び、そのまま半透明になって消えていったのだ。
そしてロシア兵を掃討した日本兵の一団は、自分達の成果に満足そうに頷くと、先と同様に統制された動きで私の傍らへ整列した。
「御安心下さい、大尉殿。大尉殿に祟っていた不埒なる敵兵は、和歌浦少尉他二名が御覧の通り掃討致しました。」
生気の無い青白い顔色ではあったが、私によく尽くしてくれた青年将校の微笑は生前と変わらぬ優しくて穏やかな物だ。
「そうか…君達は祟りに来たのではなく、私を呪殺しに現れたロシア兵の亡霊を倒すために駆け付けてくれたのか。」
「仰る通りであります、周防大尉。大恩ある大尉殿には感謝の思いこそあれ、恨みなど毛頭御座いません。」
「それに誇り高き帝国軍人である小職達が、何故に同胞である大尉殿に祟る必要があるのでしょう。そのような不忠者が我が帝国陸軍に存在しない事は、大尉殿が誰よりも御存知であるはずです。」
たとえ肉体が死して魂だけの存在と成り果てたとしても、決して揺らぐ事のない誠意と忠節心。
二人の下士官の返答に込められた思いこそ、我が帝国陸軍の美徳だった。
「御無事で何よりであります、周防大尉。大尉殿に於かれましては無用の気兼ねをされる事なく、御自身の生を全うして頂きとう御座います。我等一同は護国の英霊となりて御役目を果たす所存でありますので、御心配は無用であります。」
「そうか…もう行ってしまうのか…」
一分の隙も無い陸軍式の挙手注目敬礼の姿勢を保ったまま、束の間の再会を果たした部下達の姿は徐々に薄れていった。
それはあたかも、神国日本を遍く照らす朝の陽光に溶けゆくかのようだった…
気兼ねも心配も無用とは言われたが、夢枕に立った部下達の姿を忘れる事など、私には到底出来ないだろう。
ならば私は、英霊となった彼等の生き様や人となりを心に刻み、その忠節と武勇の栄光を後の世の人々に語り継いでいかねばなるまい。
それこそが恐らく、彼等によって生かされた私が為すべき事であるはずだ。