名前の笑顔
「加藤さん。モースマンもうないんですか?」
円水さんとこの娘は、正座をくずすなり、菓子を要求してきた。痺れたのか、オレが書籍化を了承したことでほっとしたのか、わずかだけあった緊張の顔が、完全に消え去ってる。
「いきなり寛いだな。お隣さんモードかよ。甘納豆ならあるぞ」
オレは、セミクローズドのキッチンにはいる。皿に敷いたキッチンペーパーには、作ったばかりの甘納豆もどきがあった。レシピサイトで見つけた、10分で作れるカリカリおやつで、PC打ちながら摘まむのにちょうどいいのだ。
「それでガマンします」
子袋に詰めて輪ゴムで縛る。
「ガマンかよ。ほら食え」
対面キッチンの流しから、袋を放り投げてやった。狙いは頭。取り損ねてぶつかったら下手くそを笑おうと思ってたが、よいっとキャッチされた。輪ゴムを外して、空になった小鉢に、ざざーとあける。ふたつぶ摘まんで、口にいれた。ポリポリかじる音が、小気味いい。
「甘納豆なんて子供のころ以来。こんな美味しいんですね」
「そうだろ。そうだろ」
クセになるんだよな。甘納豆てわりと高い。作れば材料費だけだ。
「まさか。加藤さんがつくったんですか?」
「そのとーり。うまいもんだろ?」
オレの、最近のマイブームである。キッチンペーパーの載ってるのを、摘まんで食べる。カリっとした触感。手作りっぽい香ばしさが口内から鼻に抜けていく。
「男の手料理ってカッコいいと思ってたんですけど、加藤さんだと。その……ザンネンですね」
「ザンネンてなんだ。まぁべつに、好きで料理してるわけじゃないし」
本気で描いた絵をけなされた小学生か。自分で言っておきながら、そう思った。
やってみてると、けっこう好きだし趣味にあった。などと新しい自分を発見したのだが、コイツ相手に認めるのは、しゃくだったのだ。
「それにしては美味しいですが。それがまた、キモイっていうか」
「もう喰わせん。返せ」
オレは、リビングの円水娘に近づき、甘納豆の小鉢をひったくろうとした。娘は小鉢を脇に抱えて、仏壇のある隣室へ逃走。
「やですよ。もらったものは、あたしのもの」
「図々しいやつ。どんな親に育てられたら、こうなるんだ」
「ご存知の親です」
「あーー」
納得してしまった。人の都合を省みず途切れることのない話をする女性。あの親の子ならさもありん。
「わかればいいんです。ところで加藤さん。いいかげん名前を教えてください」
「名前?」
「加藤さんでは、ないんですよね」
オレはためらう。
苗字は、子供のころ、ざんざんからかわれた。小学3年までは、言葉のひびきがダサいと。漢字の意味がわかってくる高学年ではヒワイな意味で「かたきん」とよばれた。
オレは、ふてくされたり、怒って追いかけたりしたが、それが楽しかったようで、同級生によるからかいはエスカレート。イジメにこそ発展しなかったが、一種の娯楽として、あだ名を言って逃げる遊びが横行した。
大人になってから、そんなことはなくなったが、オレにはそれが、トラウマだった。いまでも、名前を聞いた相手の表情は、必ずといっていいほど変化する。とくに女は。
「偏金だ。偏金直樹」
円水。お前はどんな顔になる。
「偏ったお金儲け。加藤さんには、ぴったりの苗字ですね、ぷぷ。あ、加藤さんじゃないよね」
笑った。こいつは、心のうちを隠しもしないで、真っすぐに笑った。しかもオレが予想していたのとは、違う理由で。
「どうしたんです偏金さん。あたし、そんな面白いこと言いいました?」
不思議そうに小首を曲げ、それでも、甘納豆を食べるのを止めない変な女だ。だが言われてオレは、自分の顔に手を当てて驚いた。口元が上がってる。笑っていたのだ。




